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学校という不可能な場所


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前回は学校の「聖性」とか「実利性」など存在価値が低下している、という話をしました。今回は、学校の「不可能性」についてまとめました。


学校という不可能な場所

統計的にみると、日本は諸外国にくらべてあまり学校にコストをかけていないようにみえます。新興国なみにひとクラスあたりの生徒数が多くて過密になっていて驚きます。

日本の学校は生徒数が多すぎる1

日本の学校は生徒数がやたらと多い

Twitter @tmaita77 舞田敏彦


そもそも、ひとりの担任教師が大人数のクラスで生徒ひとりひとりを把握して指導することなんて無理があります。できる、と思い込んでいるのが大きな勘違いのような。

学校が聖なる場所でも、役に立つ場所でもなくなった今、「聖性」や「実利性」の次は「不可能性」なんじゃないかなと。あるいは、もともと不可能だったことが明らかになってきたように思えます。

フィクションの世界では不可能が可能になっていたりします。たとえば、暗殺教室という漫画では、「殺せんせー」というナゾの生命体が無尽蔵な知識とマッハ20の超高速で移動できる運動能力を駆使してクラスの生徒全員にパーフェクトな教育を施していきます。








また、TVドラマ「女王の教室」では、パーフェクトな教師になろうとしてボロボロになりながら苦闘した結果、ダークサイドへ堕ちていく教師が描かれています。








さらに近年では、発達障害をもつ子どもに対して合理的配慮が求められるようになっているので、普通クラスの担任教師は多数の生徒をまとめつつ、少数の生徒に対する配慮を同時に求められるようになっているので、ますます負荷が増えています。うまいこと特別支援コーディネーターやスクールカウンセラーと連携できればいいのでしょうが、現実にはなかなか難しいようで担任教師が丸抱えしていて苦労されているケースがみられます。


学校は不登校を前提に成立している

子どもは自分と似たような特徴のある子どもと仲良くなって自然に集団をつくります。社会的動物である以上、そのような習性があります。そうすると、仲間と敵を区別する境界が必要になるので、「オレたちは同じだよね」「ヤツらとは違うよね」という確認行動を繰り返すようになります。

その際に、少数派の異端者/敵が存在することによって多数派の団結が強まることがあります。学校はしばしば、多数派の子どもにとっては居心地の良い場所だけど、少数派の子どもにとっては嫌な場所になってしまいます。

残念ながら、ヒトには他グループのメンバーに対して「心の理論」を鈍らせて、非人間化してしまう特性が備わっていることを社会心理学が明らかにしています。

しかも、子どもたちの世界には、教師やスクールカウンセラーはもちろんのこと、親でさえ介入することはしばしば困難となります。

子どもをもったことのあるひとはみんなご存知だと思われますが、子どもはびっくりするくらい親の言うことをききません。これは、基本的に子どもはオトナよりも同世代の魅力的な子どもに惹かれて従う習性があるからです。

いくらオトナが子どものことを理解している風を装って若づくりしてみたり、したり顔でスリ寄ってみても逆に気味悪がられるだけです。子どもから見るとダサいおっさん・おばはんなわけで、同世代のイケてる子どもたちの影響力には到底かないません。

というわけで、いったん子ども集団/学級における自分のポジションが悪化してしまうと、つらい状況がいつまでも継続してしまうことになりがちです。

しかも、家に帰ってネットにつながれば、いくらでも心地よい居場所が提供されていたりするので、ますます学校へ行く必要がなくなってしまいます。

したがって、数%の生徒が不登校を選択するのは今や当然の帰結であると考えられます。これは、不登校になってしまう子ども個人の問題というよりも、学校というシステムのエラーなわけです。

というわけで、さんざん学校の問題点を指摘してきましたが、次回は学校の利用価値はまだまだ高いですよ、という話をしようと思います。


センセイはASD。


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フラットな人間関係/ヒエラルキーの人間関係

自閉スペクトラム症/ASDをもつひとは友人関係などフラットな人間関係が苦手だったりしますが、ヒエラルキーにおける上下関係なら比較的うまくやれたりします。

フラットな人間関係はルールが不明瞭でコロコロ変化するので臨機応変な立ち回りが必要になったりしますが、ヒエラルキーの上下関係はルールが明確で固定的かつシンプルなので見通しを立てやすいからです。

最もわかりやすい上下関係と言えば「先生―生徒」の「教える―教わる」関係ではないでしょうか。

たとえば、昔なら「センセイ」と呼ばれる職業である教師や医師のなかにはASDをもつひとがゴロゴロいたであろうことは、ご高齢の「センセイ」方をみればカンタンに想像できます。

今やどちらとも権威が失墜していて「教えること」以外に何かと対人折衝とかやらなくてはいけなくなっているので、ASDをもつひとにはちょっと厳しい状況になっています。

ドラマ「グッド・ドクター」では、わかりやすくそのような状況が描かれていて泣けます。

今でも、伝統的かつ閉鎖的な世界で純粋に学問や技術を教える状況であれば、ASDをもつひとでもやりやすかったりするでしょう。
センセイ
実際に、パッと見てわかるくらい重めのASDをもっている「エラいセンセイ」はあちらこちらでたくさん観察することができます。


奇妙な形式の講演会

この前、興味深い講演会がありました。

ASDの研究をしている精神科医のプロデュースによるもので、ASD当事者がASDの特性について精神科医向けに講演をするという斬新な企画でした。

しかも、講演の題材として、ASD当事者のひとの体験談ではなく、とある書籍「大人のアスペルガー症候群が楽になる本」(備瀬哲弘)で紹介されているASD事例をとりあげていました。

つまり、ASD研究者のプロデュースによって、ASD当事者が、別のASD事例を題材として、ASDの対応方法について、精神科医向けにレクチャーする、という形式になっています。

ややこしいので図解してみます。
  • ASD研究者/プロデューサー
  • ASD当事者/講師
  • ASD事例/題材
  • ふつうの精神科医/聴衆
こんな講演会は初めてだったのでめちゃくちゃ期待していたのですが、内容は予想を大きく裏切るものでした。


マウンティングはASDの特性か?

ASD事例をざっくり説明すると、とある精神科クリニックの診察室での出来事。分厚い紹介状をもってきたセカンドオピニオンの患者さん(40代男性会社員)が登場します。

精神科医が確認のために病歴をたずねたところ、いきなりブチ切れて怒涛の罵倒が始まります。以下、セリフの一部です。
「繰り返しになるかもしれない」だって!? そうだよ、その通りだよ。繰り返しにしかならないことを答えたってなんの意味もない。

だ~か~らぁぁ、文章をちゃんと読んでいるんだったら、そこに全ての答えは書いてあるだろ!! 何で同じ質問ばかりするんだよ… 

そもそも医者って言うのは、紹介状を出されたらそれに全部目を通して、患者の状態を完全に把握してから診察に臨むもんだろうが! 

どうして全部を理解せずに診察に臨んで、同じことばかり繰り返すんだよ。しかも、こっちが言ってることには全く耳を貸さないし、理解しようともしていないじゃないか。

こっちはできるだけいろんな側面から、アスペルガー症候群というものを理解しようとして複数の医者にかかろうと思ってるんだよ。こんなムダなやり取りのために来てるんじゃないよ!!
あわてて謝罪して弁解してもおかまいなしに罵倒は続きます。何を言ってもすぐさま罵倒されるので最終的には沈黙してしまった精神科医に対して、
「あなたは医者として、精神科医として、まだ十分な力量がないということがわかりました」
と捨てゼリフを残して去っていくというものでした。

講演会には若干名の当事者も参加していて「ホントにこんな医者いるんですね、信じられない!これではどっちが患者かわかりません!」と軽蔑のコメントが寄せられました。

ちなみにこの精神科医はわりと丁寧かつ誠実に対応している方なのですが、、、それはともかく、このケースをASDの特性が現れている事例として紹介しているところにかなり無理があります。

というのも、これは単なるマウンティングであってASDの特性ではないからです。こんなことをしないひとの方が圧倒的に多数派ですし、マウンティングはASDをもつひとでなくても全人類がやることで、そもそもゴリラでもやる原始的な行為です。

フロアからもASDは関係ないとか二次障害ではないかという意見が出ていましたが、ASD研究者もASD当事者もこれがASDの特性であるという主張を曲げません。

と、前提がおもいっきりズレまくったまま講演会は進行します。

ASD当事者は彼なりに一生懸命考えた理屈で「ASD特性に配慮した対応」をすればトラブルを防げるとレクチャーしてくれます。

ASD当事者はまだ20代の青年で医療関係者でもないので仕方ありませんが、残念ながらどれも机上の空論でした。例えば「(過去の嫌な経験を想起させるため)いきなり沈黙してはいけない」とか。

いやいや、ふたりきりの密室で罵倒され続けたら気の弱いひとは沈黙しても仕方ありません、精神科医も人間なのです。密室でマウンティングをしかけてくるひとを理屈で納得させることなんてそうそうできるものではありませんから。


教育者としてのポジション

マウンティングにASDの特性が現れているわけではありませんが、100歩ゆずってマウンティングの終え方には若干ASDらしさが出ていると考えることが可能です。

ASD事例にとって精神科医は「ASDのことを教えてくれるかもしれない医師」から「教育してあげるべき医師」へ転落します。彼は罵倒によって無力化した精神科医に対して、声量をおさえて諭すような口調で語りかけます。
「そういう面に配慮して診察するのが精神科医でしょう? 理解不足、勉強不足ですよ、あなたは。」
この時点で、ASD事例は精神科医に対して教育者のポジションに立っています。それに満足したかのように事態は終息していきます。

つまり、「教育者のポジションに立つことを目的としてマウンティングが行われた」というところがポイントかもしれません。


講演会のヒエラルキー

ここで興味深いのは、ASD当事者はこのASD事例を紹介することでワンランク高い教育者のポジションに立つことができていました。

そしてさらに、これをプロデュースしたASDの研究をしている精神科医は最も高いポジションに立っているわけです。

この精神科医はいかにも「エラいセンセイ」という感じのひとで、大学や行政機関に就職していて研究活動をメインとしているので実務経験は乏しいのにも関わらず、この場においてはASDの特性をものすごく熟知していることになっていました。

ちなみに、このひとに異論をぶつけてみると「それは定型発達/TDの考え方」なので「ASDのことは理解できない」という前提で返してくるので議論になりません。つまりご自身はASDであるという前提みたいなので、とりあえずASD1としておきます。

ASD当事者は学生時代からASD1に教育を受けてASDの理解を深め、現在はピアカウンセラー(みたいな)活動をされているようです。ASD2とします。

ASD事例はいくつもの精神科を受診されているので、まだ社会との折り合いがつかずに苦悩しながら、なんとかASDの特性を理解しようとしています。ASD3とします。

事例のなかの精神科医や講演を聴いている精神科医はTDであるがゆえにASDの特性を理解できていないとされています。

再び図解するとこうなります。わかりやすいヒエラルキーが形成されています。

↑ ASDを理解している 尊敬される 教育する立場
  • ASD1 ASD研究者
  • ASD2 ASDピアカウンセラー
  • ASD3 ASD患者さん
  • TD  ふつうの精神科医
↓ ASDを理解していない バカにされる 教育される立場


俯瞰の過剰さ

ASDをもつひと(の一部)は、対象と距離をとって俯瞰でモノをとらえることを好む特性があります。いわゆるメタに立つ視点です。
  • ASD1は、ご自身が直接ASDについて講演するのではなくASD2に講演させました。
  • ASD2は、ご自身の体験よりも書籍で紹介されているASD3を題材にしました。
  • ASD3は、様々な精神科医から意見を聞くことで理解を深めようとしました。
どなたも現実的な問題から距離を置いて俯瞰しようとする行動をとっています。そのような「俯瞰の過剰さ」は、教育者のポジションにつくことによってこそ満たされます。

結果的に、ASD1・ASD2・ASD3のみなさんそれぞれが、教育者のポジションにおさまっているのでめでたしめでたし、と言いたいところですが、俯瞰の過剰は様々なデメリットを引きよせます。

たとえば、とあるTD(ふつうの精神科医)が、ASD3は最終的には罵倒をやめてその場を収めて落としどころを見出そうとしているので、今後は変化したり治療が進展する可能性があるのではないかと、実務家ならではの鋭い指摘をしました。それに対して、ASD1は「あのひと(ASD3)は変わらない」という見解を示して否定しました。

ASD1は俯瞰することによってASDを理解したつもりになっていますが、実際の臨床はカオスなので予想外の変化にあふれています。特に発達障害はバリエーションが大きく可塑性に富んでいるのでしばしば驚かされることがあります。

ASD1のように実務経験が乏しく研究や出版に関心が強い医師は、しばしば硬直的な理論にしがみついて個人の多様性とか変化の可能性を見失いがちだったりすることがあります。

このような現象はしばしばみられるので、次回以降にまとめてみたいです。

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