カテゴリ:


イタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が失敗に終わった後、ふたりがどうなったのか調べてみました。

イタール、その後

1806年、イタールはヴィクトールの療育を終結し、4年間にわたる療育の成果を内務大臣へ報告しました。報告書は政府によって出版され、世間から大絶賛されて富と名声を手に入れました。

医師としても教育者としても成功して時代の波に乗ったイタールは、「ろうあ学校」で他の生徒の教育にたずさわるようになりました。

聴力がわずかに残っている生徒に言葉を教えようとするだけでなく、聴力を回復させようと努力しました。言語学者ハーラン・レイン「手話の歴史」のなかで、当時「ろうあ学校」に在籍していた生徒が生々しく証言しています。



イタールが「ろうあ学校」の生徒たちに試した治療法の数々は想像のナナメ上を行っていました。耳に電気をあててみたり、首にヒルをくっつけてみたり、鼓膜に穴をあけてみたり、よくわからない液体を耳に注いでみたり、水ぶくれのできる溶液にひたしたガーゼを耳に巻いてみたり、もぐさを使用してみたり、耳の後ろを金槌で叩いて頭蓋骨を割ってみたり、白熱させた金属片をあててみたりなどなど、にわかには信じがたい人体実験を繰り返していたようです。

そのようなむちゃくちゃな試みはすべて失敗に終わり、ひどい副作用という災厄を生徒たちにもたらしました。その一方で、イタールはこのような実験を通して「耳管カテーテル」を開発し、耳鼻咽喉科学の先駆的な業績を上げることができました。
イタール耳管カテーテル
治療に失敗したイタールは、医学でダメなら教育だ、というわけで、発話訓練を強行します。膨大な時間をかけて個別教育をほどこしますが、これもほとんど成果はありませんでした。

わずかに発話できる生徒が手話社会に溶け込むにつれて発話できなくなる様子を観察したイタールは、失敗の原因は手話であると考えるようになります。そして、自分の生徒を隔離して教育しようと考え、同じ過ちを繰り返そうとします。


ヴィクトール、その後

大成功したイタールとは対照的に、野生児ブームは去り、ヴィクトールに対して関心を抱くひとはほとんどいなくなりました。

1811年、成人したヴィクトールは「ろうあ学校」を退去することになり、政府からの援助を受けてゲラン夫人と生活することになりました。ひとめにふれないように生活するよう通達されていたそうです。

これ以降、ヴィクトールの公式な記録はほとんどありません。ヴァージニア大学教授で詩人・歴史家であるロジャー・シャタックの著作に少しだけ記載がありました。

アヴェロンの野生児―禁じられた実験
ロジャー・シャタック
1982-03




1816年、30歳近くになったヴィクトールの様子を、考古学者のヴィレーがこう記述しています。
今日でもこの人間はひどい姿であり、半ば野性で、あんなに話し方を教える試みがなされたのに、相も変わらず話すことが覚えられないままでいる。
ヴィクトールは変化のないまま、ひきこもり状態でひっそりと過ごしていたようです。

 

素直に変化するイタール

ろう者たちを手話ではなく口話させることにこだわっていたイタールは、アリベールという生徒との出会いを通して、ろう者の教育には手話が必要であると考えを改めます。

アリベールはイタールの熱血指導を受け、髪が白くなるくらい努力したにも関わらず、ほとんど成果がありませんでした。しかし、手話を学んでからは素晴らしい学業成績をおさめて教師になりました。

イタールは「ろうあ学校」という手話社会の中心にいながら、言語習得には手話社会が重要であることに気づくのに16年もかかったというわけです。

こうしてみると、イタールはひとつの原理に並々ならぬこだわりを抱いて、忖度ゼロで猪突猛進するタイプでありながら、自分の間違いを認める素直さをあわせもっていたり、治療はヘタだけどマニアックな医療器具を開発するなど非凡な才能を発揮したり、素晴らしい研究業績を残していたり、基本的に孤独を好んで生涯独身を貫いていたりなどなど、自閉スペクトラム症/ASDの特徴があったのかもしれません。

一方で、ASD研究で著名なウタ・フリスはじめ「アヴェロンの野生児=ASD説」が有力だったりします。ヴィクトールはASDだからこそ、孤独のあまり絶望することなく、たったひとりで厳しい森のなかでサバイバルできたのではないかと。

新訂 自閉症の謎を解き明かす
ウタ・フリス
2009-02-18


そして、ASDをもつひと同士はお互いを理解しやすいという「類似性仮説」があります。

つまり、イタールとヴィクトールはASDの特性をもつ者同士だったので、うまくコラボレーションできたのかもしれません。あるいは、全然うまくいっていないことに無自覚なまま実験を継続できたのかもしれません。

そう考えると、実験が終了してからふたりが一切の関わりを断っていることも、ある程度うなずけます。


イタール、ヴィクトールを語る?

1828年、50歳になったイタールは、とある知的障害者の療育についての報告書のなかで、
長期間繰り返しスピーチの訓練を続ければ、それ相応の話す能力を身につけるようになるかどうかを決定するためには、医者は非常に慎重でなくてはならない。
(中略)
私がこのことを付記するのは、私がこの点で以前に過ちを犯したからである。
と警鐘を鳴らしています。これはヴィクトールのことについて語っているのかもしれません。

結局のところ、年老いてからのイタールは「ヴィクトールは知的障害であり療育不可能である」と診断したピネル(当時55歳)の見解に近づいていきます。

ちなみに、この報告書が提出された頃には、ほとんど話題になることもないままヴィクトールは亡くなっていました。

ヴィクトールは思春期以降、30歳年上の養母以外の人間とほとんど関わることなく、自然豊かな故郷に帰ることもなく、パリ市街地のど真ん中で、推定年齢40歳の短い人生を終えていました。

社会的に大成功したイタールの華やかな人生とはとても対称的で、イタールがヴィクトール/勝利者という名を与えていたことは、もはや皮肉としか言いようがありません。


誤診と失敗から始まった物語

アヴェロンの野生児という神話は、若かりしころのイタールの誤診と失敗から始まりました。

イタールは若さと情熱をもって不可能なことにチャレンジしたからこそヒーローになりました。その物語は美談であり、伝説であり、神話となりました。そして、児童精神科臨床と障害児教育の原点となって歴史を切りひらきました。

しかしながら、ヒーローが活躍する華やかな側面ばかりに目を向けていても、得られる知見は少なかったりします。というのも現実には、児童精神科臨床も療育も、華やかさとは無縁の地道な日常の積み重ねと継続性が重要であって、そもそもヒーローなんていらないわけです。

なので、歴史の背景とか負の側面に目を向ける視点をもって、現代の療育について考えてみるといろいろな問題点が浮き彫りになったり、改善点がみえてきたりするのではないかと思っている今日このごろです。