「アヴェロンの野生児」はどのような環境で療育されたのか
救世主のように登場したイタール
前回は「アヴェロンの野生児」の物語が始まるまでの経緯をまとめました。南フランスの田舎で保護された「アヴェロンの野生児」と呼ばれた少年は、人間社会に接触するようになってから変化しつつあるその姿を博物学者ボナテールが詳細に記録していました。
当時流行した考え方にもとづいて「教育によって野生児を文明人へと導くことができるかも」と期待され、特別な教育を受けるためにパリへ移送されることになりました。
せっかくなじみはじめた環境を奪ってパリに呼び寄せておきながら、ろうあ教育の第一人者であるシカールと、精神医学の第一人者であるピネルは、少年の療育を早々とあきらめてしまったので、少年は学校内でネグレクト状態になっていました。
そんなグダグダな状況を打開すべく、たまたま近くにいてシカールと知り合いだった若手医師イタールが少年の療育に関わることになりました。
こうしてイタールによる伝説的な療育が始まるのですが、どのような環境設定で行われていたのか調べてみると、とても奇妙な構造になっていて興味深いのでまとめてみました。
というのも、「誰が、どんな治療法を行ったのか」という技術的な側面よりも、「どんな設備のあるところで、どのようなスタッフがいて、どのくらいの頻度と時間をかけて治療を行ったのか」というリソース的な側面のほうが治療効果にとって重要だったりするからです。
疑似家族の形成
1800年12月31日、イタールは「パリ国立ろうあ学校」の医師として着任し、住み込みで少年に関わることになりました。若い医師が住み込みで教育した、となると質素な当直室なんかを想像してしまいますがとんでもない。診察室はもちろんのこと居間・寝室・書斎・応接室・個人用の図書室などなど、改修された校舎の2フロアにまたがる部分を占有するという破格の待遇だったようです。さすが国家プロジェクトです。イタールは近所の陸軍病院の常勤医でもあったため、午前中は病院に勤務して午後からヴィクトールの授業を行っていました。
少年にヴィクトールという名を授け、少年に関する一切を任されることになったイタールは、事実上の養父になりました。
また、世話役としてゲラン夫人が正式に雇用されて事実上の養母となり、ヴィクトールはゲラン夫妻と食卓を囲むことになり、時にはイタールも参加していたそうです。
このような疑似家族的な環境ができあがり、ふたりの大人から献身的なサポートを受けるようになり、ネグレクト状態にあったヴィクトールはみるみる元気になっていきました。
手話をつかえないイタールはヴィクトールに手話を教えることはなく、あくまで発話できるようになることに強くこだわりました。
そのためかどうかは不明ですが、イタールはヴィクトールと他の生徒を交流させなかったようです。11〜12歳くらいの少年が同世代の子どもたちと交流できなかったことは、その後の発達に大きく影響をおよぼしたことでしょう。
ともかく、手話をつかう文化をもつ社会のなかに、手話をつかえない疑似家族がぽつんと生活することになり、両者がほとんど交わることのない隔離された環境下で、ヴィクトールはひたすら社会化を促すための特別な授業を受けることになりました。
このような奇妙な環境設定は実社会ではありえないので、まさに隔離実験のための構造であると言えるでしょう。
イタールによるヴィクトールの療育は、フランソワ・トリュフォー監督によって1969年に映画化されています。なかなかリアリティのある演出で当時の雰囲気を感じることができますが、このような奇妙な環境設定であることはあまり感じられません。
映画はヴィクトールの輝かしい未来を想像させるラストシーンで終わっているのですが、現実はそうではありませんでした。
イタールは、思い通りに進歩しないヴィクトールに対して苛立ちをつのらせます。
1806年、ついにイタールは絶望して療育を中断してしまいます。次回は、イタールの療育はなぜ失敗したのか、その要因についてまとめてみようと思います。
このような疑似家族的な環境ができあがり、ふたりの大人から献身的なサポートを受けるようになり、ネグレクト状態にあったヴィクトールはみるみる元気になっていきました。
奇妙な構造
ヴィクトールとイタールが生活している場所は「ろうあ学校」なので、生徒や職員は手話をつかって生活しています。学校内で手話を使えないのはヴィクトールとイタールくらいです。手話をつかえないイタールはヴィクトールに手話を教えることはなく、あくまで発話できるようになることに強くこだわりました。
そのためかどうかは不明ですが、イタールはヴィクトールと他の生徒を交流させなかったようです。11〜12歳くらいの少年が同世代の子どもたちと交流できなかったことは、その後の発達に大きく影響をおよぼしたことでしょう。
ともかく、手話をつかう文化をもつ社会のなかに、手話をつかえない疑似家族がぽつんと生活することになり、両者がほとんど交わることのない隔離された環境下で、ヴィクトールはひたすら社会化を促すための特別な授業を受けることになりました。
このような奇妙な環境設定は実社会ではありえないので、まさに隔離実験のための構造であると言えるでしょう。
映画「野性の少年」には表現されていない構造
イタールによるヴィクトールの療育は、フランソワ・トリュフォー監督によって1969年に映画化されています。なかなかリアリティのある演出で当時の雰囲気を感じることができますが、このような奇妙な環境設定であることはあまり感じられません。
映画はヴィクトールの輝かしい未来を想像させるラストシーンで終わっているのですが、現実はそうではありませんでした。
イタールは、思い通りに進歩しないヴィクトールに対して苛立ちをつのらせます。
かわいそうに。私の苦労も水の泡となってしまい、お前の努力も実を結ばなかったのだから。お前の森に戻り、また原始生活を味わいなさい。それとも、新しい欲求のために社会から離れられないというのなら、社会の無用者という不幸を贖うがいい。そして、ピセトール(精神科病院)に行って、悲惨と苦痛の中で死ぬがよい。このように脅したり、なだめすかしたり、泣いたり笑ったりいろいろとがんばるわけですが、療育開始から約5年間が経過しても、ヴィクトールはほとんど言葉を使えるようにはなりませんでした。新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)より
1806年、ついにイタールは絶望して療育を中断してしまいます。次回は、イタールの療育はなぜ失敗したのか、その要因についてまとめてみようと思います。