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ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?


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共同作業によってシンクロする脳

MRIはひとりで測定するものだと思っていたのですが、最近は2人の脳機能を2台のfMRIで同時に測定する実験ができるみたいです。
2個人同時計測MRI研究
それによると、2人で共同作業をしているときに、シンクロして作動する脳部位(右下前頭回)が特定されましたが、ASDをもつひととペアを組むとシンクロが起こらなかったようです。

やはりASDのひとは「共感が苦手」なのでしょうか?


ASDをもつひとは共感が苦手?

共感には認知的共感(CE)と情動的共感(EE)という2種類のシステムがあります。


ASDをもつひとは共感が苦手なことになっていますが、あまり表現しないのでわかりにくいだけで、CEは苦手でもEEはできたりします。

CEできるようになるためには、他者の視点に立って、他者の気持ちを理解することが必要になります。つまり「心の理論(ToM)」のサリー・アン課題です。
サリーアン課題
ASDをもつひとが理解しにくいこの物語を、CE/ToMのくくりではなく、情報を認知して意志決定するまでのプロセスとして考えてみます。


時間情報より空間情報を優先する傾向

サリーの視点に立ってサリーの気持ちを理解するためには、この物語における時間と空間を正しく把握しなくてはなりません。

物語の時間情報として重要なのは、
  1. サリーが去っていなくなる
  2. アンがパンを箱に入れる
という部分です。ASDをもつひとは、この時間の流れよりも「アンがパンを箱に入れた」という空間情報にもとづいてサリーの視点を取得してしまうので、「サリーは箱からパンを取り出そうとする」と考えてしまいがちです。

時間情報は変動しますが、空間情報は固定されているので、ASDをもつひとは後者を優先して認知し、意思決定の根拠にする傾向があります。

また、ASDをもつひとは、昔のイヤな出来事がとつぜん鮮明に思い出されてパニックになってしまう「タイムスリップ現象」が知られていますが、これも時間情報よりも空間情報を優先するためではないかと考えられています。

ここからASDをもつひと(の一部)にみられる、
  • 時間の流れと共にある「聴覚」よりも、空間を把握する「視覚」を優先する
  • 時間的な「見通し」を立てることが苦手
  • まるで高解像度カメラのように詳細な空間把握をする
などの特性が説明できたりします。

つまり、ASDをもつひとも「心の理論」が欠けているために共感できないのではなく、他者を理解するためのプロセスが特徴的であると言えるでしょう。


類は友を呼ぶ/類似性仮説

とすると、他者を理解するためのプロセスが共通しているASDをもつひと同士ならば共感しやすいのではないでしょうか?

教育学博士の米田英嗣は「類似性仮説」を提唱しています。
Perceivers empathize with targets similar to themselves, which facilitates subsequent cognitive processing.


研究では、ASDをもつひとはASDっぽい主人公が登場するエピソードの記憶をスムーズに呼び起こすことがわかりました。

自分と似ている人物に共感することで認知プロセスが促進されて自動的に理解が進んでいくのではないかと。逆に、自分とは異なるタイプの主人公に対しては、認知プロセスが抑制されて分析的に理解しなければならないのではないかと。

似た者同士と違う者同士では、異なる脳部位のシステムを使って理解しているかもしれなくて、似た者同士は素早く認知されて自動的に理解がすすむのではないかというわけです。


一面的な理解から多面的な理解へ

かつて、ASDをもつひとは自己意識(自分と他人を区別すること)が低下しているとか、自己準拠効果(自分にあてはめて記憶すること)がないとされていました。

ASDの理解を深めるためには、ASDと定型発達(TD)との隔たりをいかに見つけていくか、ということも重要なのですが、エスカレートしすぎると一面的な理解と対処法が提示されてしまいがちです。

一方で、発達障害をもつひとの特性とか症状は、環境や状況によって大きな影響を受けてダイナミックに変動するので一面的な理解と対処法は役に立たなかったりします。

類似性仮説によって、ASDをもつひと同士であれば互いに自己意識をもって自己準拠効果を発揮する可能性が示唆されたことは画期的で、ASDの多面的な理解につながるかもしれません。


ピア・サポート/当事者研究の可能性

同じ障害をもって悩んでいる者同士が集まって、自助グループやピア・サポートをするのが効果的なのは、お互いが共感しやすいし、同じ目線から放たれる言葉には説得力があるからです。

過去に弱い立場になったことがあるひとや、身近に障害のある方がいるひとは優れた共感能力を発揮して優秀な援助者になることがあります。

また、最近は優れた当事者研究がたくさん出版されていて、当事者ならではの生々しい記述や独特の視点、障害のとらえ方など、とても勉強になります。

ただ、「当事者だからよくわかる」から「当事者じゃなければわからない」ということになるのは行き過ぎていて、想像力の敗北だと思うのであまり賛成できません。


「類は友を呼ぶ」から「分断」が始まる

ASDをもつひとたちのコミュニティでは「定型発達症候群」という考えがあります。
定型発達症候群
ASDをもつひとにとっては、TDのひとこそが非典型的でヘンだとされたりします。

いったん分割線が引かれて2つの集団が生まれてカテゴリー化されていくと、それぞれが独自の文化をつくるようになります。その結果、異なる集団に対して敵対心を抱くようになるという厄介な習性がみられるようになります。

傷ついたひとたちが集まって自助グループやピア・サポートが組織されて回復のキッカケになることはすばらしいことだと思うのですが、均質な集団はしばしば外部に対して攻撃的になってしまいます。

「当事者のことがわかるオレ、最強!」ということで、やたらと無茶な要求をしてくる自助グループのひとがいて困ることがあったりします。でも、最もタチが悪いのは、自分は安全なポジションで高みの見物をしながら、分断を煽っておもしろがってるひとなのですが。

それはさておき、ここから先は「異なるタイプのひと
同士の間で、いかに共感と理解が可能になるか」ということが問題になってくるので、いろいろ調べていきたいと思います。


オオカミの社会性、イヌの定型発達症候群


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オキシトシンによるヒトとイヌの関係性
エライ人に従順なひとのことを「◯◯の犬」 とバカにしたりしますが、いいオトナになっても「社交辞令のひとつも言えやしない」不器用なひともいたりして、なかなかどうして犬の社会的能力はあなどれないのです。というわけで、最近はイヌについて勉強しています。


ヒトとイヌの分岐

およそ8000万年前にヒトとイヌは別の道を歩み始めました。

その頃はちょうど恐竜が陸上世界を支配していて、ヒトとイヌ共通の祖先である哺乳類は毎日怯えながら生活していました。やがて、ヒトの祖先は森へ、イヌの祖先は暗闇へ、それぞれ身を隠して脅威的な捕食者から逃れ、出し抜き、生き延びるために独自の知能を発達させます。

ヒトの祖先は樹の上を自在に動いて木の実を食べるために色彩感覚や立体視(両眼視のできる顔)を発達させ、イヌの祖先は暗闇の中で動けるように聴覚(尖った耳)と嗅覚(尖った鼻)を発達させたため、それぞれまったく違う姿に進化していきました。


ヒトとイヌの邂逅

およそ3500万年前には、肉食哺乳類の中でイヌとネコが分岐しました。

両者は狩りの様式が異なっていて、ネコの祖先は単独で草木に隠れて一撃必殺で獲物をしとめ、イヌの祖先は草原にいる獲物を集団で追いつめてしとめていました。

霊長類をのぞけばイヌ科の動物は状況に応じて行動を変える能力に長けるようになりました。キツネやタヌキもイヌ科ですが、相手を騙して出し抜くという「ソーシャル・スキル」に長けていたからこそ「化かされる」逸話ができたのかもしれません。

イヌ科の中でも、イヌの祖先となるオオカミは、狩猟のために組織化された集団を形成し、意志を伝達して役割を分担することで、自分よりも大きな獲物を狩ることができます。

この集団狩猟こそが、種として大きく隔たったヒトとの共通点=収斂進化と言えます。

また、イヌはヒトと同様に持久走に長けています。


後肢の指は骨が癒合して4本になって強靭になっていますし、パンティング(舌を出してハァハァ)は呼吸ではなく冷却のためのものだったりします。


ヒトとオオカミの競合

オオカミはイヌ科の中でも社会性が高い動物で、家族以外とも協力して狩猟や育児を行う柔軟な共同体を形成していることが認められています。


オオカミは度重なる過激な気候変動に直面し、動的で可変的な社会システムを洗練させ、その優れた適応能力によって世界中に拡散し、ヒトが新世界へ移住を始めた頃(1万5000〜2万年前)までには最上位捕食動物の地位を確立していました。

やがて、食糧資源をめぐってヒトとオオカミは競合するようになります。食糧が豊富な環境であれば両者は友好な関係を結び、時にオオカミは信仰の対象となりましたが、野生動物が減少し牧畜が始まる頃になるとオオカミは忌み嫌われる存在となりました。

ともかく、集団狩猟という共通の習性ゆえにヒトとオオカミは関わり続けることになり、そのような状況が土壌となって、イヌへの最終進化がもたらされました。


オオカミとイヌの境界線

何しろ犬というのは、いつの間にか仲間を裏切っていた連中の子孫なのだ。確かに最初に人間の懐に飛び込んで、媚びを売り始めた間抜けなオオカミがどこかにいたはずだ。
では、オオカミとイヌの違いは何でしょうか?

イヌには、相手の視線や指差しから意図を理解する「共同注意」という優れたコミュニケーション・スキルがみとめられています。オオカミやチンパンジーはなかなかコレができないので、イヌの認知機能が優れていると一般的には考えられていたりします。

一方で、ただ単に「攻撃性が欠如している従順な気質をもったイヌ」が選ばれるようになったことで、ヒトとスムーズに協力的な関係をもつことができるようになり、既存の認知機能がいかんなく発揮されたという説もあります。
ゲノム的には気質の変化ほど効率的なプロセスはない。アンドロゲンの発現を制御する遺伝子を少しだけ移動させるか、セロトニントランスポーター遺伝子を動かすだけで雪だるま式効果が得られる。しかも極めて効率がいい。それは費用対効果の高い進化上のトリックで、莫大な見返りも期待できる 
優秀さよりも従順さが「社会性」として評価されることってよくあると思います。

ここで乱暴ですが、イヌを定型発達に、オオカミをASDに対比してみると、優秀でも従順さに欠けるひとはしばしばASDと診断されやすかったり、ASDでも従順なひとはなかなか診断されにくかったりする事情が理解しやすくなりそうです。


オオカミのオスはイクメン

意外なことに、オオカミのオスは子育てに対して非常に協力的だそうです。一方、イヌのオスは自分の仔犬にあまり関心を示しません。にもかかわらず、飼い主の子どもには大きな関心を示して世話をすることがあります。

なので、いったん家畜化されて(イクメン本能を失って)その後野生化した野犬の場合は悲惨なことに、メスがワンオペ育児をすることになり、仔犬の生存率が低くなってしまいます。

イヌが獲得した社会性は、家族よりも共同体を優先する習性によって成り立っていると言えます。

家庭を犠牲にして所属集団(イエ)に尽くすヒトは「社会性」が高いと言われますが、うっかり尽くすべき相手を間違えると、野犬のように悲惨な運命をたどることになったりします。

こうしてみると、オオカミは自分たちでちゃんと社会をつくっていたけど、イヌは自分たちで社会をつくることを放棄して人間社会に参入したとも言えます。


生物にとっての社会性とは?

ヒトにとっての社会性とは、ざっくり言うとアカの他人と協力することなので、社会性を身につけることは悪意あるひとにダマサれてカモられるリスクと常に隣合わせです。ソーシャルスキルトレーニングを受けると詐欺の被害に遭いやすくなることもあったりします。


自閉症コミュニティの「定型発達症候群」というジョークがありますが、メンタルヘルス領域で言うところの「過剰適応」「メランコリー親和型」は、他人に合わせて協力し過ぎるがゆえに消耗してしまう特性と近接しています。


なまじ定型発達が過剰であるがゆえに不幸になっているヒトは、オオカミ的な社会性を身につけた方がイイのではないかと思う今日このごろです。

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