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学校の利用価値を考える


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これまでさんざん学校の問題点を指摘してきましたが、今回はそれでも学校の利用価値は断然高いですよ、という話をします。ぼくの考える学校の利用価値は以下のとおりです。
  • 圧倒的にリソースが豊富である
  • 動物的なスキルを学ぶことができる
  • 社会性を身につけることができる
  • 社会で生きぬくためのチュートリアル/リハーサルができる

圧倒的にリソースが豊富な学校

学校の利用価値が高いと考える最初の理由は、学校には大量のヒト・モノ・カネが投入されていて圧倒的にリソースが豊富であることです。国がみとめる資格をもった教師が毎日数時間も勉強を教えてくれたり、設備や教材を無料で提供してくれるような場所は他には見当たりません。学校を利用しないことは大きな損失であり、子どもにとって非常に不利な選択であることは間違いありません。

とはいえ、学校にはまだまだシステム上の問題点が多いとはいえ、昔よりはかなり改善されていることも確かです。仕事上、学校へ出向いたり学校の先生方と情報交換することがありますが、みなさん子どもに対する心配りが細やかで、教師の質はかなり向上しているようだし、教材もかなり工夫されて読みやすくなっているし、設備も進歩しています。今後もきっと、少しずつ改善されていくのではないかと期待しています。

そしてなによりも、圧倒的な人数の子どもたちが過ごす場所であることが重要です。子どもがたくさん集まっていること自体が(さまざまな問題の原因であると同時に)とても貴重な環境であるからです。以下、その理由について説明します。


動物的なスキルを学んで社会化される場所

というのも、そもそも学校は勉強を教わるだけの場所ではありません。勉強を教わるだけなら塾の先生の方が優秀だし断然効率がよいでしょう。

どちらかというと、学校は学問よりも動物的なスキルを学ぶ場所として重要です。とりあえず子どもの数が多いので子ども同士で、好きになったり・嫌いになったり、仲良くなったり・協力したり、ケンカしたり・仲直りしたり、いじめたり・いじめられたり、恋愛したり・フラれたり、などなど、さまざまな経験を積むことができます。

オトナが相手だとそのような経験を積むことはできません。どうしてもオトナは子どもに対して手加減をするし、基本的には子どもを保護してしまうものだからです。

一方、子ども同士の交流はガチンコのぶつかり合いです。もちろんトラブルも頻発しますが、それを自分たちだけで知恵をしぼって乗り越えるプロセスこそが貴重な経験となります。そんな経験を通じて、お互いの妥協点を見つけて利害を調整することを学び、社会性が培われていきます。

アメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、子どもはオトナに導かれるのではなくて、子ども同士の集団でもまれながら社会化されていく「集団社会化説」を提唱しています。


児童精神科の領域でも「子どもに対してオトナがどのように接するべきか」が盛んに論じられているばかりで、よく見落とされがちな視点です。もちろんそれも大切かもしれませんが、最も重要なのは「子ども同士の交流が生まれる環境というか生態系をオトナがいかに設定できるか」なわけです。

子どもは子ども同士の交流を通じて成長しているのにも関わらず、児童支援の専門家であるオトナが子どもを導いてあげたおかげで成長したんだ、治療やら療育のおかげなのだ、と錯覚しているひとってめちゃくちゃ多いんですよね。

最後にもう一点。


チュートリアル/リハーサルとしての学校

成人して社会に出てからが「本番」だとすると、学校は基本的なマニュアルやルールを学ぶ「チュートリアル」あるいは「リハーサル」の期間です。ちなみに人間のチュートリアルはやたらと長いんですよね。

本番が始まる前に、理不尽だったり悲しかったり辛かったりする経験も含めて、ひと通りさまざまな経験をしておいた方が有利です。社会に出てからひどい目にあっても立ち直りが早くなるからです。一般的に、中高年になってはじめて挫折するひとが立ち直るのはけっこう難しいのですが、子どもは成長していくぶん挫折からの立ち直りが圧倒的に早かったりします。

ちょうど、病原菌に対するワクチンのようなもので、悪いものの一部を体内に取り込んで抵抗力をつける必要があります。

もちろん、ひどい目にあった子どもには手当てが必要であることは言うまでもありませんし、そのためのシステムを学校は準備しているので積極的に活用すべきです。危機的な状態からリカバリーするまでのプロセスを注意深くサポートするのは当然ですが、ひどい目にあうリスクをゼロにするために貴重なチャンスを根こそぎ奪わないようにした方がよいでしょう。

学校なんて必要ないし、別の手段がある、と考える前に、ちょっと立ち止まって学校の利用価値を検討してみるのもよいかもしれない、と思う今日このごろです。

「アヴェロンの野生児」の療育が失敗した5つの理由


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前回からの続きです。ここからいよいよイタールの療育が始まります。


快進撃からの作戦放棄

1801年1月、新世紀の始まりとともにイタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が開始されました。 

イタールは若くて情熱があったことと、もともとド素人の外科医だったことが逆によかったのでしょう。ヴィクトールに根気よく関わり、数々の独創的な療育方法を編み出し、療育開始数ヶ月で少しだけ言葉の理解ができるようになるなど、快進撃を続けていました。

しかし、言葉の習得に限界がみえはじめ、1805年にはほとんど療育をあきらめていたようです。

1806年5月、イタールはヴィクトールの療育を終結しています。

療育の「プロセス」は素晴らしかったのですが、「成果」はほとんどありませんでした。また、最初の目標を修正することなく突き進んだ挙句の果てに作戦を放棄するという最悪の展開になりました。

イタールは自らの成果についてこう語ります。
この少年の肉体的道徳的な能力とはこんなものであったから、彼は彼の属する種族の最低、いや最も下等なケモノの中でも最下位に位置するものであった。彼が植物と違っていたのは、彼には動くことができ、音を出すことができただけ、ただそれだけだったとさえ言える。そのケモノ以下だった時とヴィクトールの現在の状態の間にはものすごい距離がある。
アヴェロンの野生児―禁じられた実験
ロジャー・シャタック
1982-03





ヴィクトールが「ケモノ以下」にみえたのは、ネグレクト状態になっていたためなのですが、それにしてもイタールはヴィクトールの能力を低く見積もりすぎています。
 


言語習得における臨界期/敏感期

ヴィクトールに言語取得の限界があったのはなぜでしょうか。現在では、言語習得に必要な臨界期/敏感期(※)があることが知られています。

臨界期/敏感期とは
たとえば、アヒルが生まれて初めて目にした動くモノを親と認識したり、幼い小鳥が求愛のさえずりを親鳥から学んだりと、期間限定でしか学習できない種に固有な習性がることが知られています。このような、ある行動学習が可能になる一定期間のことを「臨界期/敏感期」と呼んでいます。

人間の言語習得にも臨界期/敏感期があると考えられていて、諸説ありますがだいたい2歳から12歳のあいだではないかといわれているので、ヴィクトールの療育開始は遅すぎたのかもしれません。

しかしながら、イタールの療育はとても奇妙な環境で行われていることから、むしろ治療者側の要因を検討して「失敗から学ぶ」ことが重要でしょう。


イタールの療育が失敗した5つの理由

① 哲学にハマっていたこと 

イタールは哲学者コンディヤックを信奉するあまり、目の前の患者をより良い方向へ変化させることよりも、コンディヤックの学説が正しいことを証明することに執着していました。

信心深い治療者にありがちなことなのですが、エラい先生の治療理論が正しいことを証明するために患者の治療にたずさわってレポートを作成し、エラい先生の目の前で発表してほめてもらうという浅ましい儀式は、今でも精神科医療の領域ではめずらしくなかったりします。

しかも、イタールはヴィクトールの処遇について全権を掌握した事実上の養父という強力な立場にあって、ヴィクトールには選択肢がなかった状況のなかで、自分が信じる思想に染め上げようとしたわけで、とても罪深い行為だと思うわけです。

② リソースを活用しなかったこと

コンディヤックの学説に従って、ヴィクトールはまっさらな白紙「空白の石版」であり「ケモノ以下」と想定されていました。それによって、彼がもともと持っていた能力が低く見積もられることになりました。

ヴィクトールはロデーズにいたころにはすでにある種の社会性をみにつけていて、高い動作性知能をもっていることが記録されており、ジェスチャーをはじめとして動作言語を使えるようになっていました。

しかも、療育の場所は「パリ国立ろう学校」であり、動作言語を発展させて手話を学ばせるには絶好の場所でした。

しかし、イタールはあくまでもオリジナリティにこだわり、ヴィクトールの能力や療育環境のリソースを有効活用することができませんでした。

③ 子どもと交流させなかったこと

イタールは、他の子どもたちと関わることをさせずに隔離実験を行いました。子どもというまっさらな白紙「空白の石版」に教師が書き込んで「立派な大人」へ導くことができる、と思っていたがゆえの失敗です。

心理学者のジュディス・リッチ・ハリスは、行動遺伝学や進化心理学の膨大な知見から、子どもは子ども集団に所属して集団活動を通じて社会性を身につけていくという「集団社会化説」を提唱しています。


彼女の著作には「ろう学校」における言語習得において興味深いエピソードが紹介されています。

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
ジュディス・リッチ・ハリス
2017-08-24


1980年代の南米ニカラグアで「ろう」の子どもたちに手話教育が始まったときの様子です。一堂に集められた子どもたちは会った瞬間からお互い身振り手振りで意思を伝え始めたのです。
子どもたちは瞬く間に自分たちの間で共通語をつくり上げてしまいました。一種の混合手話のようなもので、完全な言語体系とはいえないまでも、共通する文法らしきものもあり、何よりも意思疎通を図るにはもってこいでした。それ以降、子どもたちは独自の手話をつくりつづけています。その言語は単なる指差しや身振りの体系ではない、それはすでに完全な自然言語へと発展したのです。
環境設定をするだけで自律的にプロトコルが生成されて言語学習が始まったという事例です。

子どもにとって言語は、単なるコミュニケーションのツールではなく、仲間集団における「会員証」であり、集団の文化や規範を形成して仲間意識を育むことと密接に関わっています。ゆえに、言語習得や社会性の獲得には親や教師よりも仲間集団の存在が不可欠であるとされています。

イタールは言語習得のために仲間集団を利用することなく、ただ教師として言語の知識を伝えることしかできなかったことに無理があったのかもしれません。

ただし、ヴィクトールは自閉スペクトラム症だったのではないかという説があり、集団に入れなかった可能性はありますが、それはまた別の機会に検討しようと思います。

④ 思春期の問題に向き合わなかったこと 

ヴィクトールは、第二次性徴が現れたころから興奮して感情を爆発させたりと手に負えない状態になることがあり、たびたび療育が中断されました。これに対してイタールはなんと「瀉血」を行うことで対処していました。

ヴィクトールが女性に興味を示しながらも、どうしていいかわからずに困っている様子を観察したイタールは、ヴィクトールが性的衝動のために苦しんでいると考え、どうするべきか悩みます。
われわれの野生児は、この欲求を教えられたら、他の欲求と同じように、自由にまた公然と満たそうとして、言語道断なみだらな行為に及ぶのではないかと、心配せずにはいられませんでした。

私は、そうした結果を招くのではないかという恐怖におびえ、思いとどまらなければなりませんでした。また、他の多くの場合と同じように、思いもかけない障害の前に希望が消えてゆくのを、あきらめて眺めていなければなりませんでした。

閣下、以上が、「アヴェロンの野生児」の感情能力の系統に生じた初変化のいきさつでございます。この部門によって、生徒の四年間にわたる発達に関する全事実が完了したことになります。

新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)
報告書の最後が「思春期の問題に向き合うことができなかった」というエピソードで終わっているのが興味深いところです。

思春期の問題は仲間と共に乗り越えていくものなので、仲間のいないヴィクトールには非常に困難な課題だったことでしょう。最終的には養父であるイタールがなんらかの対処をしなければならなかったのに、逃げたままで報告を済ませてしまったようです。

⑤結局は見捨てたこと 

イタールはヴィクトールの療育だけを専属で行っていたわけではありません。気胸に関する医学論文を投稿したり、パリの中心街にクリニックを開業したりと精力的に活動していました。

ヴィクトールの療育に行き詰まった頃にはすでに他のことに関心が移っていて、ヴィクトールのために開発した手法を用いて、少しだけ聴力の残っている「ろうあ学校」の生徒たちを訓練して論文を作成していました。

また、4年間の療育を終結して以降、イタールがヴィクトールのことを語ったり会いに行ったりした記録は残っていません。

ヴィクトールは「ろう学校」のすぐ近所に引っ越してゲラン夫人と暮らしていたのに、一切の関係がなくなったことに驚きます。

その後イタールとヴィクトールはどうなったのか、後日談をまとめてみたいと思います。

対人援助職のひとが幸せになりにくい理由


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対人援助職

精神保健の支援者向けに講演をすることがあったので、 いろいろ考えたことをまとめてみました。


支援者を支援すること

うちの精神科クリニックには、悩みを抱えた対人援助職のひとが数多く訪れます。ダントツで多いのは保育士さん。ついで介護士さん、教員、看護師、作業療法士、理学療法士、社会福祉士、心理士などなど。同業の精神科医療従事者も多い傾向にあります。

患者さんや支援の対象になるひとたちの権利が保たれるようになっていてとても喜ばしいわけなのですが、それにともなって支援者側に求められる技能のハードルが上がっていることが背景にあるのかもしれません。

なので、「支援者を支援すること」は患者さんを支援することと同じくらいか、もしくはそれ以上に大切だと思う今日このごろです。


対人援助職のミッション

当然のことながら対人援助職のミッションは「困っているひとを支援すること」です。困っているひとが立ち上がって自分のチカラで困難を乗り越えていけるように支援するわけです。

つまり、支援される側のひとが「支援者のおかげで乗り越えることができた」のではなく「自分のチカラで乗り越えることができた」と実感してもらうことができるかどうかが大切だったりします。

とくに、精神科の治療ではコレが重要です。

治療を終結するときに患者さんから「先生のおかげですっかり良くなりました」と感謝されると個人的にはうれしいのですが、精神科医としては治療失敗つまり「感謝されたら負け」というわけで反省しなければなりません。なので、どこがまずかったのか過去のカルテを振り返ることにしています。

「なんか頼りない先生やったけど、まあなんとかなってよかったわ」と言われることをいつも目指しています。


医師に奉仕する患者さん

極端に言うと、患者さんから感謝されるということは、患者さんの手柄をヨコドリしていることも同然だからです。「医師に奉仕する患者さん」になってしまっては元も子もありません。

もしも、お世辞ではなく本気で「医師のおかげ」だと思われているとすれば、それは医療ではなく「別の何か」なので、科学の一端を担う医師としては極力さけるべきです。

ほとんどの精神科治療は、患者さんの資質なりストレングスなり自然治癒力を引き出すことでしか達成されません。薬物療法とか心理療法を活用しますが、あくまでも補助的なものだったりします。

なので、「医師のおかげで」「お薬のおかげで」改善したと思われてはいけないわけです。医師も薬もリソースにすぎませんから。  

百歩ゆずって、とても深く絶望している患者さんに「医師のおかげで、お薬のおかげで、なんとかなる」と一時的に錯覚させることで治療を導入することはありますが、そんな場合も最終的には幻想からさめてもらってシラフに戻ってもらって、患者さん自身のチカラを信じてもらわないと治療になりません。

つまり黒子のような役割こそ支援者のあるべき姿なわけです。
黒子



誠実な支援者は目立たない

なので、誠実な支援者は目立たないひとが多いです。見た目パッとしなくて地味で声が小さくて背筋が曲がっている素朴なひとはとてもいい仕事をする傾向があります。

逆に、派手で有名な支援者はやたらと「支援者に奉仕する患者さん」をたくさん抱えていて、いつまでたっても治療がすすんでいなかったりすることがあります。

誠実な支援者はどことなく陰があって不幸そうで、ダメな支援者はとても幸せそうだったりと対照的です。


対人援助職のジレンマ

さらに、支援される側からの要望と、経営側からの要望はしばしば競合します。サービスの質をよくするためには経営を圧迫しなくてはいけなかったりして、そのへんの線引きがあいまいだからです。

なので、対人援助職のひとは必ず板ばさみを経験することになります。これを割り切ってやりくりできる器用なひとはともかく、誠実なひとほど苦悩を深めていきます。

おまけに、対人援助職のひとが頑張って成果をあげても、支援される側のひとと経営側に成果をもっていかれてしまいます。

かくして、誠実な対人援助職のひとは精神科クリニックを訪れる確率が上がってしまうわけです。

これはもう存在論的な問題で、対人援助職のひとは本質的に不幸なんじゃないかと。「成長を見守る喜び」とか「笑顔のため」というモチベーションでなんとかふんばっていますが、支援者として誠実なままでいることはなかなか厳しいことなのではないかと。

なので、一部の限られた才能のあるナチュラルボーン支援者以外は、支援者の道をひたすら極めるのではなくて、趣味・家庭・副業・管理職・研究などなど他の活動やアイデンティティをもっておくことが重要です。


研究の論理をもつこと

とくに「研究」というアイデンティティをもつことはオススメです。研究といっても、がっつり大学院に入って研究して論文を執筆するという意味ではありません。

研究という視点をゆるくもつことによって、日々の業務に「一次情報の収集」という意義が生まれます。それを仲間と共有して語り合ったり、よりよいシステムを構築するための大切な糧にしたりすることで、精神衛生がかなり向上します。

さらに、このような視点は、異なるタイプのひと同士がつながるための作法として重要であることが当事者研究から導き出されています。

というわけで、支援者を支援することを通じて、自分自身 も日々研究という視点をもちながら日々の支援を続けていこうと思う今日このごろです。

「傲慢な援助」を読む


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「THE WHITE MAN'S BURDEN」William Easterly 著

面白い本を読んだのでご紹介します。「貧困問題と開発経済学」という精神科医療とあまり関係がなさそうなジャンルの本ですが、援助者として学ぶところが大きかったので。

本書の問題提起はこうです。

第一の悲劇「貧困が存在すること」は雄弁に語られるが、
第二の悲劇「多額の援助が貧しい人々に届かないこと」は語られなのはなぜか。
貧しい国では薬が流通しにくいのに、
先進国ではベストセラーがあまねく流通するのはなぜか。


著者紹介

1957年,ウェスト・バージニア州に生まれる.1985年,MITで経済学博士号(Ph. D.)取得.世界銀行に入行.1985-87年には西アフリカ,コロンビアの融資担当エコノミストとして,以降2001年まで調査局のシニアアドバイザーとして世界各地を飛び回り,数多くの会議やセミナーに出席し,多数の論文を書くなど,「経済成長分析」の専門家として精力的に活動.2001年世界銀行を退職.現在はニューヨーク大学経済学部教授.そのほかブルッキングス・インスティテューションの非常勤シニアフェローも務める.


プランナー vs サーチャー

本書では、プランナーとサーチャーというふたつの援助者像が対照的に提示されます。カール・ポパーの二分法「ユートピア的社会工学(革命)vs 段階的民主改革(改革)」に近いものだそうです。


プランナー

  • 壮大なユートピア的計画を喧伝する
  • 人々の期待を高めるが、その実現に責任を負わない
  • 善意に満ちており、他人にも善意を強要する
  • モチベーションは与えない
  • 自分は問題に対する答えを全て知っている
  • それに従えば問題は解決すると思っている
  • 一方的にできもしない解決策を押し付ける

サーチャー

  • 必要な人に必要なサービスを届けるだけ
  • 個別の行動に対して各々が責任を負う
  • うまくまわる仕組みを考える 
  • 成果をあげれば得をするインセンティブを与える
  • 問題は多元的・複雑であると理解している
  • 事前に答えは分からないと認めている 
  • 試行錯誤を繰り返して解決策を探る

もうおわかりのように、プランナーはヤバいからサーチャーであるべきだと言うことで、プランナーがどうヤバいかと言うと、
  • 左派は国家主導の貧困との戦いが好き・右派は慈善精神に基づく帝国主義が好き、というわけで両陣営から支持されやすい。
  • プランナーはわかりやすい物語で感情に訴えるので支持されやすく、主人公気分にひたることができる。
  • プランナーは貧しい人々に関心があるのではなく、自分たちの虚栄心を満たすことに関心がある。
  • プランナーにはフィードバックとアカウンタビリティが必要ないからラク。


貧困の罠

貧困こそが諸悪の根源!なので、なんとしてでも援助しなくてはならないのか?

実際には、外国援助と貧困国の成長には相関がなく、貧困国も自力で成長できることが明らかになっています。成長できない場合の要因は貧困よりもその国の政治体制だったりするので、民主化して自由市場化すれば成長しやすかったりします。


プランニングできない市場

信頼にもとづいて交換し、互いが利益を得る「市場」という発明は、自然発生的なものであり、トップダウンで自由市場を導入することはできません。赤の他人に対する信頼度と経済成長率は相関します。貧しい国ほど特定の部族や親族が富や権限を独占し、属人的で限られたネットワークしか構築されず発展しにくいのです。また、所有権によってインセンティブが生じ、市場は有効に機能するようになります。


プランナーは悪いひとたちと結びつきやすい?

民族紛争・天然資源産出・不平等な農業社会では民主主義が成立しにくいと言われています。民衆の教育水準が低い場合、民主主義が成立しても恐ろしい政府が生まれることがあります。たとえばポピュリズム。本来の政治的目的以外の利己的な計略のために政治家が憎悪を煽り、民衆をチェスの駒のように扱って分断し、内紛が起こって民主主義が成立しにくくなって経済は停滞しやすくなります。

悪い政府への援助収入は腐敗したインサイダーを潤し、かえって民主化を遠ざけるため、原則は非介入にすべきであるという考えです。


富者に市場あり、貧者に官僚あり

貧者はニーズを伝えることがなかなかできないので、援助機関がニーズを決定し官僚が執行します。官僚は貧者よりも援助者を満足させようとしますが、プランナーは「壮大な計画」でないと満足しないため、成果を上げることよりも目標を設定することで評価されて、成果は見えにくくなります。成果を可視化して外部からの評価を受け入れ、外部に対する説明責任を負うべきです。


自国の発展は自前の発想で

援助なしに成長したかつての日本は、自前のサーチャーだったそうです。近年の経済成長国ベスト10はそれぞれ独自のシステムで成長・外国援助はゼロか微小ですが、その一方で、ワースト10はマイナス成長なのに外国からの援助は莫大です。これが、欧米の偉大なる指導のおかげだと言うのはあまりにも滑稽過ぎます。


成功の必要条件

  • フィードバックとアカウンタビリティを得るために市場を活用したこと。
  • ユートピア的目標を掲げてそれをみんなの責任にする最悪のシステムをやめること。
  • 具体的成果を目標とし、それぞれの目標に対してそれぞれの担当者が責任を持つこと。
  • 他国に対する思い上がった信念をすてて謙虚に、過度な干渉をしないこと。
  • 援助の目的は、個人の生活をよくすることであって、政府や社会を変革することではないと知ること。


まとめ

賢明で偉大なる指導者が描いたヴィジョンによってなされる施策はどうやらうまく機能しないことにみんな気づき始めています。自由な市場が機能して経済成長を促す場をつくることこそが成功の条件であり、そのための制度やインフラを整えることが援助者の役割であると。


精神科医療にあてはめてみると

医療福祉系において、過剰に意識の高いひとは「プランナー的援助者」になりがちです。プランナー的援助者は患者さんや周囲のひとを依存させがちで、しばしば患者さんの自由を制限して管理的になってしまいます。このような状況においては、患者さんのための資源が援助者の承認欲求を満足させるために浪費されてしまいます。

サーチャー的な援助者は、患者さんの可塑性と成長を信頼しています。自由度を高めて試行錯誤を重ね、成長を促します。また、問題を多元的にとらえて試行錯誤を重ねて解決を指向する、つまり問題をシステムとしてとらえる解決志向ブリーフセラピーに通じる考え方です。

基本的にはこれが望ましい援助者像だと思いますが、サーチャー的な援助者は黒子みたいなものなので地味でパッとしなかったりするので、たとえ間違った方を向いていてもわかりやすくて頼りがいのあるプランナー的な援助へと流れてしまいがちなのではないかと思う今日この頃です。


ASD vs ADHD / カナー vs アスペルガー


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スペクトラム

先日、十一元三先生の講演を聴きました。神田橋條治先生のお話とは対照的に単純明快でとてもわかりやすいプレゼンだったので少しご紹介。

ともすればゴチャゴチャしがちな発達障害を、ASD vs ADHD/カナー症候群 vs アスペルガー症候群の二分法で整理していきます。

略語
ASD 自閉症スペクトラム障害
ADHD 注意欠陥多動性障害  


ASD vs ADHD

ASDとADHDはそれぞれお互いをお互いと見間違う
例えば、
  • 社会性の障害を『不注意』と誤解したり
  • 衝動性を『社会性の未熟』と誤解したり
薬剤選択や効果判定に影響するので見分ける努力をするべき
鑑別すべきポイント『馴れ馴れしさ』について
  • ADHD ひと懐っこさ・あどけなさ
  • ASD 奇異・おせっかい=社会的関係のわからなさ
→対人相互性に注目した聴き取りが重要
積極的なASDのひと特有のぐちゃぐちゃネチャネチャした対人距離感。その昔は境界例として記述されたりもしたんだろうと想像します。 
ASDの重症例はADHDを合併しやすい


カナー vs アスペルガー

『人を避ける・孤立』vs『他者への活発な接近』
『発語の遅れ・緘黙』vs『雄弁・詩的・衒学的』
いずれも『自閉=対人相互反応・社会性の障害』ということで『自閉症スペクトラム』にまとめられる昨今ですが、もともと自閉症は(古典的かつ典型的な)カナー型と(非典型的な)アスペルガー型に分けられていたこともあるわけです。

で、それぞれ症候論的に特徴あるのでひとくくりにしないで別個の概念として考えた方が良いという立場です。これはつまり『自閉症スペクトラムをスプリットして考えろ』ということ。

確かに、現在の状態を記述して理解を深めるために『疾患概念』は活用されるべきだと思います。この疾患概念vsスペクトラムはこの前の固有名vs確定記述の話に通ずるので、またの機会に考えようと思ってます。


ASDの中核症状 

診断基準はDSM-Ⅴからウィングの3つ組から2つ組へ変更。カナーへの回帰。
  • A基準 対人相互的反応の障害
  • B基準 一定不変であることへのこだわり
まだ歴史が浅い疾患なのに、研究によって脳器質的基盤が収束しつつあるのは珍しいこと。
統合失調症の脳器質的基盤の方が散らかってるらしいです。

共同注意は対人相互的反応の原基でありとても重要
  • 『子供の頃の写真がカメラ目線かどうか』が参考になる
  • ASDはひとの視線に影響されにくい
  • ADHDはひとの視線に対して(定型発達のひとと同等かそれ以上に)影響される
ASDとADHDの鑑別点でもある。

ASDの症状は認知だけでなく身体を巻き込む
  • 不器用さと器用さの混在
  • 自律神経系の不安定 頻脈・湿度・気圧に弱い

成人期ADHDの臨床

ADHDのひとはしばしばパイオニア的存在だったりする。
薬物療法によってその特性が薄れることもある。 
ADHDの特性が環境にうまくカップリングできればすごいひとになったりする。病理的な部分をパートナーや周囲がうまくカバーしたり、どこかにはけ口があったりするとよいだろう。

ただし実際問題として、パイオニア的存在って同じ集団内に複数いたら収拾つかなくなるので、当たり障りなく環境に適応できるように脳を薬物で最適化してしまう方がよかったりして。


質疑応答

精神症状の合併について
  • ASDは被害関係念慮から幻覚などの精神病状態を呈することがある。幻視も珍しくない。
  • ADHDは健常者とほぼ同じという印象。
ADHDには双極性障害が多のかなと思っていましたがそうでもないみたいです。

発達障害と他の精神症状が渾然一体としているケースについて
発達を軸にアセスメントして明確に説明することによって問題が整理されることがある。
渾然一体としたものを理解するのは難しいので、もともとあった発達障害を基盤として、二次的に精神症状が加わったものとして理解する方がイイ。
 
ASDのひとの親がASDだったりする問題について
  • ASDのひとの親もASDであることはけっこうある。その場合、親のアセスメントを綿密に行う。
  • 家族機能が不十分な場合は支援のリソースを最大限活用する。
  • 逆に、親がASDだからこそ耐えられる状況もある。
実際の臨床で問題になるのはほとんどコレだったりします。


それにしても児童精神科医って、ネオテニーというか可愛らしい顔のひとが多いなあと思いました。そういう人が児童精神科医になるのか、やってるうちにそうなっていくのか、つくづく不思議だと思いました。



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