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ポール・トーマス・アンダーソン監督作品における二重のコスト構造


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前回からの続きです。松本人志とポール・トーマス・アンダーソンの差異である「誇示的精密性」と“発達障害的シグナリング”の組み合わせによる効果についてまとめました。


ポール・トーマス・アンダーソン作品の精密性

さて、映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの作品は非常に精巧かつ写実的であると定評があります。映画開始早々から、やたらと「巨匠が撮った映画」感とでも言うべき迫力があるのです。撮影技術もさることながら、制作過程においてリアリティを追求するべく細部にいたるまで徹底的にこだわって造り込まれていることがうかがわれます。


たとえば、初期作品はポール・トーマス・アンダーソン自身が生まれ育った場所、つまり監督自身が細部まで知り尽くした場所で撮影されています。他方、別の時代や場所を舞台とする場合は事前リサーチを徹底し、大量の資料を読み込んで時代考証が行われています。現地住民をエキストラとして起用し、演者のアドリブを積極的に採用し、アナログ・フィルムを用いてデジタル処理を排することで、画面の隅々までリアリティを追求した精巧な映像を制作しています。

たとえば、最新作のファントム・スレッドでは、舞台である1950年代のロンドンにおける高名なオートクチュールの自宅兼工房が精巧に再現されています。映像に没入すると、まるでタイムスリップしたような感覚に包まれてしまいます。


“発達障害的シグナリング”と「誇示的精密性」のカップリング

ポール・トーマス・アンダーソンは、映像制作において過剰な投資を行い、膨大なコストを引き受けることで、発達障害的シグナリングの信頼性を高めることに成功しています。

ポルノスターの転落人生から痴話喧嘩まで、発達障害的シグナリングが満載のバカバカしいシチュエーションを安っぽいキッチュな映像ではなく、丹念に技巧を凝らした精密な映像としてあますところなくディスプレイすること。

そのような大いなる“ギャップ” あるいは“誇示的精密性による発達障害的シグナリングの増強” つまりは“二重のコスト構造”。それこそがポール・トーマス・アンダーソン作品の真骨頂であり、ゆえに比類なき映像作品として完成しているのです。

これまでのまとめ





以上の話をまとめて日本病跡学会で発表してみました。


芸術作品における「誇示的精密性」というシグナル


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前回からの続きです。


映像作家として、松本人志とポール・トーマス・アンダーソンには大きな差が生じてしまったのはなぜなのか、ということをニワシドリの芸術作品と進化心理学の知見を参考にしながら考えてみました。

ニワシドリは、オーストラリアやニューギニアに生息する体長20−40センチの鳥で、とても興味深い習性をもっていることが特徴です。
ニワシドリ
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

ニワシドリの<芸術>作品

ニワシドリのオスは繁殖期になるとメスを惹きつけて求愛するために、花びらや木の実・葉っぱ・昆虫の殻・ガラスやプラスチックなどなど、カラフルで光沢のあるものをせっせと拾い集めて組み合わせて、非常に手の混んだ構造物「あずまや」を作成します。

ニワシドリの作品
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

この<作品>を制作してディスプレイするためには膨大な投資がなされていて、彼らの<作品>は人間の眼から見てもきめ細やかで美しく、技巧的であるとさえ感じます。

そのクオリティーは年齢や経験が増すにつれて複雑・細密・豪華になる傾向があり、<作品>の完成度は個体の身体能力や社会的地位を反映しています。そのため、人間の手によって<作品>を豪華にすると優位なオスから襲撃を受けてしまいます。常に仲間から監視されていて、実力がないと<作品>を維持することができないようになっているのです。


また、若い未熟なオスは上位オスの作品を観察して学習するなど、「文化の継承」が行われている形跡があります。つまり、技巧的な芸術には生物学的な基盤があるという例証になっています。



「適応度標示」というシグナリング

ニワシドリに限らず、ほとんどの動物種には個体の性質や特性を他個体が知覚できるように示すなんらかのシグナルを有しています。優良な遺伝子・健康状態・社会的地位を反映する生物学的特徴を広告としてディスプレイすることは「適応度標示」と呼ばれています。

たとえば、クジャクの羽・グッピーの尾びれ・ライオンのたてがみ・ナイチンゲールの歌声、そしてニワシドリの<作品>は、個体の資質を反映するシグナルであり、仲間や配偶者を魅了したり、競合相手を牽制したり、仲間の支援を引き出したりする効果があります。

このような「適応度標示」というシグナルは、拡大解釈することによって人間の文化や消費行動に応用することが可能です。

たとえば、

  • 高級品をみせびらかす
  • 芸術的才能を発揮する
  • 専門的な知識を披露する
  • モラルの高さをアピールする
などです。人間社会においてこれらをディスプレイすることは、
お金持ちで芸術的才能や教養のあるモラリストという「優れた資質」を保有していることを知らしめるシグナルとなるわけです。

ここで問題なのは、これらのシグナルはフェイクが比較的カンタンであることです。

たとえば、
  • 高級品をムリして購入したりレンタルしたりする
  • わざわざ難解な芸術作品を収集して理解のあるフリをする
  • 読めもしない難解な書籍をドデカい本棚に並べる
  • 「親切なことをやりました」とSNSで報告する
このように、「優れた資質」は捏造することができます。
とすると、シグナルとしては信頼性できないものとなってしまうのではないでしょうか。

ところがどっこい、実力に見合わない<作品>をつくってしまったニワシドリが優位なオスから攻撃されてしまうように、シグナルを受けとる側もそうやすやすとだまされるわけではありません。「適応度標示」の捏造は厳しいチェックにさらされています。

たとえば、
  • 金銭的コストをかけただけの豪奢な装飾はかえって下品になる
  • 付け焼き刃の知識や技術を披露しても熟練者からすぐに見抜かれる
  • 首尾一貫していない言動が明らかになったとたんに偽善者と呼ばれる
「適応度標示」をうわべだけで捏造することはできたとしても、バレたときには一挙に信用を損なうという莫大なコストを背負っているため、かなり危ない橋を渡っているといえるでしょう。


誇示的精密性

進化心理学者のジェフリー・ミラーによると、芸術作品においてシグナルが価値を帯びるためには、実質的な価値のある直接的なディスプレイよりも、精神的な価値のある婉曲的なディスプレイであることが望ましいと論じています。つまり、作品の制作過程にかかる時間や注意の集中、リスク選好などの投資が評価の対象となりやすくなっています。



とりわけ「誇示的精密性」、つまり技巧が凝らされて精密にしつらえてあるかどうかが、シグナルの要素として重要であるとされています。この傾向は、20世紀モダニズム・ミニマリズム・技術フェティシズムに関連していて、エンジニアリングや効率性への選好など、自閉スペクトラム症/ASD特性に通底するものであったりします。

たとえばガラス細工の切子は、わざわざ加工しにくいガラスを採用して精密に加工することで、職人の技を見せつけています。

「誇示的精密性」が価値を持つがゆえに、本来の機能そっちのけで精密さを競うようになります。たとえば、今では安価で性能の良い電波時計が流通しているにも関わらず、職人がわざわざ手作業で制作した複雑な機械式時計が高値で取引されていたりします。
patekphilippe

また、最近完結した劇場版エヴァンゲリオン・シリーズでは、ストーリーとはそれほど関係のない機械設備の緻密な描写がこれでもかと繰り返されて圧倒されます。庵野秀明監督はじめ製作者たちが精密性に対して並々ならぬこだわりがあることを感じることができます。


とりわけ、最新作のシン・エヴァンゲリオンでは、各カットの画面構成を絵コンテではなくCGによって行うプリヴィズ Previsualizationという手法を用いたり、生身の役者に演技をさせてモーションキャプチャーを活用したりと、実写よりもリアルで細密なアニメーションを実現するために、通常のアニメ制作よりも莫大な投資をしています。その結果、映像作品の完成度は極めて高く興行的にも大成功をおさめています。

つまり、「誇示的精密性」というシグナリングは芸術作品において非常に重要であることがわかります。

さて、前回の記事で紹介したように、ポール・トーマス・アンダーソンと松本人志の映画作品には、“発達障害的シグナリング”という共通点があるものの、残念ながら松本人志の映画作品には「誇示的精密性」は感じられません。その点において、両者の間には埋められることのない差異が生じています。

というわけで次回は、ポール・トーマス・アンダーソンの映画作品における“発達障害的シグナリング”と「誇示的精密性」の関係についてまとめていきます。


松本人志とポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害シグナリング”


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前回の続きです。

今や最も注目を集める精神疾患である「発達障害」の特性は“発達障害的シグナリング”として、映像作品においてディスプレイされることで視聴者に強烈なインパクトを与えます。



そのような“発達障害的シグナリング”が満載な映像作品をつくりあげるふたりの映像作家を取り上げてみます。松本人志とポール・トーマス・アンダーソンです。


松本人志の映像作品における“発達障害的シグナリング”

松本人志は今やゴールデンタイムのバラエティ番組やワイドショーの顔になっていますが、かつては「わけのわからない人物」が登場する不条理なコントやマニアックな番組を制作していました。たとえば、松本人志の映像作品「働くおっさん人形」「働くおっさん劇場」では、発達障害らしき特性をもったおじさんたちが登場します。

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よしもとミュージックエンタテインメント
2003-08-06


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松本人志
よしもとミュージックエンタテインメント
2007-07-14


なかでも断トツで印象的なキャラクターである野見隆明さんは、俳優として映画「さや侍」の主役に抜擢されます。

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よしもとアール・アンド・シー
2011-11-05





彼のたたずまいや演技(?)はとても味わい深く、笑いだけでなく哀愁や感動すら喚起させます。発達障害の特性は、良くも悪くも強烈な印象を与えるので、お笑い芸人のキッチュな一発芸から芸術作品まで幅広く応用されているのかもしれません。


ポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害的シグナリング”

一方、映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの作品にも発達障害的な人物が数多く登場し、その特異な行動様式をまざまざと見せつけられます。



たとえば、映画「ブギー・ナイツ」では、わざわざ劇中劇において、あえてコント風のチープかつマヌケな映像を挿入していたりします。この方向を先鋭化させていけば、キッチュなおバカ映画として終わってしまう可能性があったかもしれないくらい、際どいことをやっています。

松本人志とポール・トーマス・アンダーソンは、まだ発達障害の概念が定着していない1990年代から“発達障害的シグナリング”をいち早く作品に取り入れてきた映像作家として注目しています。両者には作風における共通点があるし、かなり近いところにいたのではないかと思われます。

そのためか、松本人志はポール・トーマス・アンダーソンに対して敵対心を燃やしているようで、監督作品「パンチドランク・ラブ」を酷評しています。
結局、(ポール・トーマス・アンダーソンは)映画監督として基礎ができてないんじゃないかと思うんですね。たとえばピカソは、一見グチャグチャの絵を描いているように見えますけど、本当はちゃんとした絵を描ける力があって、それをあえて崩して、下手に見える絵を描いている。なのに、この監督は、その基礎がわからずに、下手な部分だけを真似してるから、つじつまがあわなくてグチャグチャなんですよ。遊んだ映画をつくりたいのなら、もっとちゃんとした映画を何本か撮ってから、その上で遊びなさい、と言いたい。( ~中略~) この監督の映画は要注意です。ブラックリスト入りですね。こいつの映画は今後見ないほうがいいです。
松本人志「シネマ坊主2」
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2005-06-23


もはや近親憎悪としかいいようがありません。これは2005年の記事ですが、その後もふたりはそれぞれ映画制作を続けます。

その結果はご存知の通り、松本人志の映画作品はどれもこれも全く評価されませんでした。一方で、ポール・トーマス・アンダーソンは2007年の映画作品「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で新境地を切り開き、数々の映画賞を受賞して高く評価され、興行的にも大成功をおさめます。

なにが両者の命運をわけたのでしょうか?なぜ、ポール・トーマス・アンダーソンは、“発達障害的シグナリング”を芸術の域に高めることができたのでしょうか?

次回、「誇示的精密性」という観点から説明してみようと思います。


ポール・トーマス・アンダーソンの中心気質的な映画


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前回エントリー『中心気質は破綻しやすいか』の続きです。


それにしても、安永浩とポール・トーマス・アンダーソンというありえない組合せ。
Paul-Thomas-Anderson

ポール・トーマス・アンダーソンとは

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は近年最も注目を集めている映画監督のひとりです。
9人同胞中第7子。父はローカルTVで大人気のタレント。
1970年ロサンゼルス生まれ、80年代に青春を謳歌し、90年代に映画監督としてデビュー。
故郷はカリフォルニア州ハリウッド近くのサンフェルナンド・バレー。


生育歴とキャリア

物心ついた頃から8ミリフィルムに親しみ、10歳ころにビデオカメラを手にとってからは撮影に没頭。勉強には興味が持てなかった。高校生の頃から自主映画の製作を開始。名門ニューヨーク大学の映画学科に入学するもののすぐにドロップアウト。ターミネーターみたいな作品をつくりたいヤツは帰れと言われて帰ったみたいな。

タランティーノらと同じいわゆるVCR世代。映画館や映画学校で学ばず、大量のビデオで映画を吸収して勉強。膨大な映画の知識量を背景として作中にはマニアックなオマージュを連発、PTA本人はそれを公言してはばかりません。
先人のマネはりっぱな創作。なのにマネを嫌うひとが多い。楽しんで映画を撮ろうとしないんだ、バカげてるよ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
これは中心気質者の感性と言えるでしょう。
感覚それ自身を大切にする価値観であり、社会規範に従うことや、自己評価を高めることに価値を置くのではなく、体験そのものの楽しさや高揚感に価値を置く。 



 

PTAの中心気質親和性について

中心気質者の病跡学については、斎藤環が西原理恵子・北野武・石原慎太郎・勝新太郎についてそれぞれ秀逸な論考を残していますので、それを参考にPTAの中心気質親和性を確認していきます。

18歳時に制作した短編映画『The Dirk Diggler Story』は、有名子役の没落ぶりを紹介する情報番組のモキュメンタリーです。
浮き沈みの激しいめちゃくちゃな人生に魅力を感じる。麻薬に溺れて没落していく女優とか。悲しみを感じるとともに倒錯的でもあったがおかしかった。病んだ形でユーモアを見出していた。バレーでは珍しくない、変わり者の巣窟。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
中心気質者の特徴「近景における喜劇、遠景における悲劇(斎藤環)」を、PTAはこよなく愛したと言えます。

その後、テレビ番組、ミュージックビデオなどの製作助手として働き始め、23歳、短編「シガレッツ&コーヒー(1992)」が注目されたことからチャンスを掴み、26歳、初の長編「ハードエイト(1996)」を完成させる。


フィルモグラフィ

★27歳「ブギー・ナイツ(1997)」
 興行的・批評的に大成功
★29歳「マグノリア(1999)」
 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
★32歳「パンチドランク・ラブ(2002)」
 カンヌ映画祭監督賞受賞
★37歳「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)」
 ベルリン国際映画祭監督賞・アカデミー賞2部門受賞 
★42歳「ザ・マスター(2012)」
 ヴェネチア映画祭監督賞受賞 
★44歳「インヒアレント・ヴァイス(2014)」 
若干27歳で監督したブギー・ナイツが大ヒット。その後も寡作ながら高評価を重ねる。その後、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドからキューブリックを思わせる重厚な映画を撮って新境地を切り開き、ザ・マスターの時点で三大映画祭の監督賞を全て受賞という快挙を達成。現代映画の若き巨匠という地位を確立しました。


極めて個人的な映画

出世作「ブギー・ナイツ」大ヒットの同じ年、父が他界。父の芸名を冠する制作会社「グーラーディ・フィルム」を地元に設立。「ブギー・ナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」3作品はすべてその近所で撮影され、父の死など身近に起こったことを題材としています。

映画のエンドクレジットは撮影中に亡くなったりした関係者に捧げるものですが、「マグノリア」のエンドクレジットは「faとeaに捧ぐ」として同棲中の恋人と父に捧げています。メイキング映像では、当時同棲していたフィオナアップルとイチャイチャしている光景を大胆にも披露しています。
表裏のないあけすけな印象、その作品の確固としたリアリティ、作品としばしば交錯するかにみえるその生の軌跡
「語り得ないこと」の暴力性−北野武の「顔」


PTAの演出

演出場面では、派手な身振り手振りで縦横無尽に動きまわるPTAの姿が記録されています。
That Moment - The Making of Magnolia documentary
 
好奇心が旺盛で飽きっぽく、優れた身体能力とイマジネーションを持ち、動物的直感で「現在」を生きる。過剰なまでのサービス精神と万人を魅了する愛嬌を発揮しながら、暗鬱で暴力的な作品を作らずにはいられない。

PTAと仲間たち

PTAは仲間と遊んだりふざけたりしている時に偶然生まれたアドリブを脚本に盛り込みます。お気に入りの俳優を何度も起用して、それぞれの持ち味をいかに出すか腐心します。

PTAは役者に対して、ストーリーを動かすための演技ではなく、その時間を生きる人物そのものを表現するための演技を要求します。しばしば俳優の名前がそのまま登場人物の名前になっていたりするほどです。
気に入った役者のために役を用意して、エネルギーが尽きないよう楽しませる。父親のようなまなざしで。それが監督だ。できるだけ多くの役者に活躍してもらいたい。僕はただ楽しい雰囲気を振りまくだけ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
役者個人の魅力を最大限に引き出すことに成功していて、実際に多くの役者がPTA作品で評価されてスターになり、次の作品で再集結しています。PTA作品には、中心気質者同士の交流が生み出す独特の魅力が満ち溢れています。

安永は中心気質者同士の交流こそが精神療法のかなめだとしています。
精神療法の“中心”を貫いているのは、純度の高い「中心気質的交流」なのだ。これが技術や理論武装とうまくかみあい,相互に高めあうように持って行けた時に,最大限の結果が自然と出てくる。その辺を見通す感性と技術こそが真の“技術”なのだ。
「夏・随想――中心気質幻想」
PTA作品を鑑賞することで、中心気質者ないし我々の中心気質的な側面が活性化され精神療法的な作用をもたらします。そのような表現が優れた映像作品として世の中に広く受け入れられているという事態は興味深いと思います。


PTA作品の胡散臭さ

いかさま師・セックスインストラクター・ツーショットダイヤル業者・伝道師・山師・カルト教団の教祖などなど、PTA作品にはだいたい毎回、胡散臭いキャラクターが登場し、彼らのカリスマ性には常に秘密と嘘が内包されています。

自分は「ほんもの」ではない、つまり正当性も根拠もないことをうすうす気づいているがゆえに、彼らの虚妄は肥大化し、やがて破綻へと導かれていきます。

無邪気に「ほんもの」を偽装する彼らの虚妄がどんどん肥大化していく光景を、カメラが距離をおいて冷静かつ客観的に記録しているというズレ感がPTA作品の醍醐味と言えるでしょう。

いったい彼らの虚妄はいつ暴かれるのか?破綻への予感が蔓延するなか、破綻へのカウントダウンを見届けたいという欲望によって観客のテンションは維持されます。PTA作品は長丁場なのですが、あまり時間を感じさせないのはこのためです。

彼らの嘘は少しずつ綻び、やがて「ほんもの」性を保てなくなったその瞬間、「中心気質型破綻」がおとずれます。盛大に破綻する光景はロングテイクでカメラにきっちり記録され、PTAの非凡な演出力はここにおいて極まります。


PTA作品から導かれる治療論的視点

さて、破綻した者はその後どうなるのか?

いくら惨めになっていても、ほとんどの場合は最終的に救われています。破綻する光景を冷静に記録することは人間を突き放しているようにもみえますが、PTAは時にセンチメンタルと言えるほど登場人物に接近し、あたたかいまなざしを注ぎます。

PTAはその中心気質親和性によって中心気質的な仲間達と交流して中心気質的な登場人物を演出し、彼らの『内在する欠陥』を承認し擁護しています。それは危機に瀕している中心気質者≒発達障害者に対峙した治療者がとる精神療法的態度に通底するかもしれません。

インヒアレント・ヴァイス(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2015-08-19

中心気質は破綻しやすいか


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映画監督ポール・トーマス・アンダーソンと中心気質の関連について、病跡学会というマニアックな学会で発表したのでブログにまとめておきます。


中心気質とは

気質(きしつ temperament)とは、先天的にもっている刺激などに反応する行動の傾向です。これに対して「性格」は、先天的な「気質」に経験や環境の影響によって後天的に形成される行動の傾向です。 

その昔、クレッチマーという精神科医が精神疾患に関連した3つの気質分類(分裂気質・循環気質・粘着気質)を提唱しました。その後、安永浩という精神科医が粘着気質を「中心気質」という概念へ発展的に変更することを提案しました。粘着気質は他の気質に比べてネガティブなものだったのですが、中心気質はかなり拡大されてポジティブなものになっています。

気質はエビデンス的には意味がないということで、気質について考えるのは流行りませんが、生来の気質を吟味して今後の行動傾向を予測することは精神科臨床上、大切だったりするので知っておいて損はないということで3つの気質をざっと解説します。


分裂気質/芥川龍之介

芥川龍之介
敏感で鈍感、突飛で頑固。俗っぽいことよりも抽象的な理論や芸術を好み、孤独を愛し、自分だけの世界をつくりあげるひとです。変人っぽい学者や芸術家のイメージでしょう。 


循環気質/田中角栄

田中角栄
円滑で柔軟、温厚で社交的。現実的なことを好み、精力的で陽気なムードメーカーで、人間関係をうまく調整して組織をつくりあげるひとです。政治家や実業家のイメージでしょう。


中心気質/長嶋茂雄

長嶋茂雄
粘着気質は質実剛健な軍人のイメージですが、今回とりあげた中心気質とは、ふつうにのびのびと育った子どものイメージです。以下は安永による説明です。
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
e0d750fd.g
<中心気質>という概念について 安永浩
子どもはみな中心気質なのですが、そのまま成人する場合と循環気質や分裂気質に変化していく場合があります。その場合でも中心気質的な側面をいくらか残していたりします。


安永の預言

安永浩は1980年『境界例と社会病理』という論考において、興味深い指摘をしています。
現代文明は中心気質においてもっとも直接的な圧迫を負荷し、これを破綻に追いこむような形になる
 
また、臨床的直観によって境界例(の一部)は『中心気質型破綻』を思わせる 
分裂病の症状論
安永 浩
1987-07



境界性人格障害はもはや注目されなくなりましたが、中心気質者が活躍する場がなくなって生きにくいご時世になる、すなわち精神科の門を叩くことが増えているという預言は、臨床経験からすると確かに実現していると思ったので大変興味深いと思いました。

当クリニックは児童思春期外来に力を入れていて比較的若い患者さんが多いためかもしれませんが、成人の患者さんの中にも中心気質的な傾向のあるひとが多いと感じています。

中心気質について論じるひとはとても少ないのですが、先輩の精神科医が先日出版した著作には中心気質についての論考が載っています。


 
安永の預言から30年後の2011年、杉林は「<中心>をめぐる考察」において、中心気質と東浩紀の動物化するポストモダンとの関連を指摘した上で、近年とみに増加の一途をたどっている「いわゆる発達障害」の多くが中心気質性を色濃く備えている、と指摘しています。 


中心気質と発達障害の関連

先ほどの
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
という記述はADHD(注意欠陥多動性障害)的
(危険に対して)発作様のパニック、もしくは爆発的な怒り、という形をとりやすいだろう。

ほとんど人を人とも思わないようなところがあり得る。(中略)要するに人でも物でも同じなのである。
という記述はASD(自閉スペクトラム症)的
成長がいびつである場合、あるいは挫折の結果をこうむる場合、等々において、かなり特徴ある「中心気質周辺」的な人格をつくり得る
16dea974.g
という記述は、発達障害における二次障害を思わせます。

このように、中心気質の特性は“発達障害”の特性(ADHDやASD)に類似します。児童精神科領域では「ADHD気質」なるものが言われていますが、それはそのまま中心気質だったりします。そもそも発達障害の症状は基本的には「発達の停滞」によるものであり、中心気質の定義にも共通します。

境界例ではなく、1980年当時はあまり存在が知られていなかったいわゆる“発達障害”の領域にこそ中心気質型破綻が生じているのではないでしょうか。

いまだ臨床的有用性が十分検討されていない中心気質という概念を再検討することは、発達障害の理解を深めることに寄与するかもしれないと考えました。


「ほんもの」を選びとる能力

安永は先の論考で個人病理と社会病理の関連について、もうひとつ興味深い指摘をしています。
現代において要請されるのは、均一化(あるいは相対化)された、一様におなじになってしまった価値系から各個人がそのそのつど「ほんもの」を選びとる能力である。
「ほんもの」を選びとる能力とはなにか?
 
安永によると、いったん「ほんもの」を選びとった(気になった)としても、絶えず価値観が流動化している現代においては「ほんもの」性を損なわない範囲内で柔軟に変身する能力が要請されるし、また一方で、いまだ「ほんもの」を選びとっていないひとにとっては「ほんものでないことの強制」つまり「本来必然性のない強制」がゆるく課せられることになると。例えば「みんながやることだから○○しろ!」という形で。
この葛藤自体には切実さがなく、隠微に人間本来の健康性をうらぎり、しかも自覚さえし難い。一様単調な「妥協の平和」を形成する。
分裂気質者ならば平和を歓迎して「ほんもの」でなくてもいいと割り切るでしょうし、循環気質者であれば相手にあわせて柔軟な変わり身が可能でしょう。

この状況において深刻な破綻を呈するのはやはり中心気質者なのです。


中心気質型破綻

中心気質者の特性として、
  • 弱い微細な刺激では不満足
  • その代わり至適量に達した刺激への直観的鋭敏、感覚的陶酔はもっとも高度にして純粋
  • よくも悪くも明暗・強弱のはっきりした体験様式をとる 
したがって、一様単調な『妥協の平和』は、直接に耐えがたい圧力となって中心気質者を破綻に追いこむことになります。破綻の典型的様式は、発作的爆発や意識そのものの消し去りであり、嗜癖問題の重大化や意識変容嗜好にもつながったりします。

僕なりの解釈では、本当はみんな「ほんもの」じゃないと知っている=胡散臭い状況、つまり正当性のないルールに従って、内に募る不満に耐え、周囲との軋轢を来さないよう自重することが求めらる状況に長時間さらされ続けた結果、中心気質者あるいは我々の中心気質的側面は、ソレを我慢できずに「ほんもの」の空気をぶち壊したくなってしまうわけです。

これはまさに、発達障害者の不適応状況にも多く見受けられる光景ではないでしょうか。

そのような、“中心気質型破綻” がとても顕著に表現されている映画といえば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の作品だと思うわけです。つづく。。。



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