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心理社会的資源を「見える化」する


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前回は、お金の欠乏が知能やメンタルヘルスにおよぼす影響についてとりあげました。今回は、お金だけでなく人間関係の欠乏についてまとめていきます。人間関係の欠乏、つまり孤独についてです。


心理社会的資源を「見える化」する

以前、ひきこもりに関する記事で「孤独による健康被害」を説明しました。


孤独な状況が長期化すると、心身ともに悪影響をおよぼすことが知られていますが、孤独でも全然平気なひともいたりするので、これは個人差が大きいことも知られています。なので、もっと総合的に考える必要がありそうです。

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)




社会心理学では、個人的な資質と人間関係や他者からのサポートなどを総合して「心理社会的資源」と呼んで、量的に把握しようとする試みがなされています。

お金の欠乏は一目瞭然なので手当てしなければならないことがわかりやすいのですが、個人の資質や人間関係は目に見えないものなので測定できません。なので主観的で経験的な精神論や根性論がまかり通ったりして軽んじられやすかったりします。

心理社会的資源もお金つまり金融資産と同じように有限かつ計測可能な資源であり、量的に把握していくという視点は精神科的サポートを行う上で極めて重要です。


幸福の条件とは?

そこで参考になるのは、以下の書籍です。著者の橘玲氏は、幸福の条件として3つの資本/資産を想定し、それを「幸福のインフラ」と呼んでいます。

幸福の「資本」論――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
橘 玲
2017-06-16


  1. 金融資本 お金や不動産 満たされれば自由になれる
  2. 人的資本 健康や才能  満たされれば自己実現できる
  3. 社会資本 人脈や評判  満たされれば居場所や絆を得られる
つまり、心理社会的資源=人的資本+社会資本です。

幸福は主観的なものなのでなかなか定義づけしにくいものではありますが、この3つがまるでインフラのように幸福を基礎づけていることに関してはわりと普遍性があると思われます。

たとえば、アダム・スミスは幸福の条件を以下のように定義していますが、それぞれ上記の3条件に対応しています。
健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人

道徳感情論 (講談社学術文庫)
アダム・スミス
講談社
2013-07-26


つまり、負債がない/健康/やましいところのないは、それぞれ金融資本/人的資本/社会資本を所有していることを示しています。

また精神病理学的には、重症うつ病のひとが「自分は不幸になってしまった」という妄想を抱くことが知られていますが、そのうちの代表的な3つの妄想がそれぞれ幸福の条件を喪失している状態に対応しています。
  1. 貧困妄想 お金がなくなってしまった
  2. 心気妄想 治らない病気にかかってしまった
  3. 罪業妄想 罪を犯したから社会から排斥される

「幸福の条件」を「幸福のインフラ」として「見える化」する

幸福のインフラのうち、金融資本<人的資本<社会資本の順で「見える化」しにくくなっています。金融資本には値札がついていますが、社会資本はプライスレスであると考えられがちだからです。しかも、社会資本は主観的な幸福感に直結しているため特別視されます。

投資家でもある橘玲氏は、特別視されがちな社会資本を相対化し、金融資本や人的資本と同列にならべて論じることで「見える化」していきます。

幸福のインフラである3つの資本を運用して富/幸福を得て、さらにそれを資本に加えて運用を繰り返すことで、幸福のインフラをより大きく育てていくことが人生設計につながると論じています。
幸福のインフラ投資と運用
  1. 投資家は金融資本を金融市場に投資して、リターンという「富」を獲得します。
  2. 自らの能力を活かして労働市場に投資して、給与や報酬という「富」を獲得します。
  3. 人間関係を活かして仲間を形成して、愛情や友情や評判という「富」を獲得します。

そして、幸福の3つのインフラのうち、いくつを所有しているかで人生のパターンが示されると図式化します。
幸福の資本論8分類
  • すべて満たされていたら超絶幸せ
  • 2つ満たされていたらめちゃくちゃ幸せ
  • ひとつだけ満たされていてもなんとか幸せ
  • すべてが満たされていない状態は支援が必要

お金さえ渡せばすべてうまくいくのか?

たとえば生活保護受給者は金融資本は最低限保障されているので安泰だろうとか、ベーシック・インカムを導入すれば全てうまくいくのでは?という議論があります。

たしかに、最低限の生活や医療は保障されているでしょうが、精神疾患を抱えて生活保護を受給しているひとの中には、人的資本を活かせてないことや、社会資本が乏しいこと、つまり心理社会的資源の欠乏について、深く悩んでいて幸福度が高まらないことが多々あります。心理社会的資源の欠乏につけこまれて、生活保護費をまるっと巻き上げられていることもめずらしくありません。

前回、「うつ病のひとにお金を渡したら改善した」という研究を紹介しましたが、お金だけではなく心理社会的なサポートを同時に行っているがゆえに改善がもたらされたと考えるべきでしょう。

つまり、幸福の3つのインフラをバランスよくサポートする必要がある、という月並みな話になるわけで、やっぱり心理社会的資源のサポートも大切だよね、という話なのですが、そこには非常にやっかいな問題がつきまとう、という話を次回まとめていきます。


滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その1


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とある団塊世代の児童精神科医

ぼくは精神科医になったときから児童精神科領域に興味があったので、有名な児童精神科医の話を聴きに行ったりしていました。たまたまなのか、団塊世代とその周辺の児童精神科医がよく目立っていたので何人か観察していました。

その結果、独断と偏見で申しわけないのですが、団塊世代の児童精神科医の特徴が3つほどあって、、、
  1. あつかましくてあつくるしい
  2. うさんくさくてカルトっぽい
  3. 思いこみがはげしくてロジカルじゃない
たまたまぼくの行動範囲にそんなひとが多かっただけだと思うのですが、そんなわけで当時のぼくは児童精神科領域から距離をとろうかな、と思うようになったりしていました。

そんな中、ひときわ異彩を放っていたのが滝川一廣先生でした。

滝川先生は団塊世代ど真ん中なのにとても聡明だったので興味をもちました。最初の印象は、声が小さくてナニしゃべってるのかわからないひとでしたが、よくよく耳をすまして聴いてみると、シャープでロジカルかつ独創的な発想をもったひとだったので、著作を読み漁るようになっていました。

児童思春期の臨床に携わるようになってから、はじめのうちはよく参照しながら取り組んでいました。それから10年ほど経て、自分なりのスタイルで診療をするようになってからはあまり参照することもなくなっていましたが、いつも頭の片隅には滝川先生の言葉が残っていたように思います。

ある研究会で滝川先生とちょこちょこお話させていただくようになって、「子どものための精神医学」を献本いただいたので、感想をまとめてみようと思います。

ほぼ10年ぶりに滝川先生の著作を読んでみて、とてもなつかしくなりました。とにかく、これは児童精神科臨床の到達点のひとつであり金字塔です。

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27







とても素晴らしい本なので批判するひとは誰もいないと思いますが、よりいっそう理解を深めるために、ここはあえて批判的な読み方をしてみたいと思います。 

滝川先生は団塊世代の児童精神科医としてはおそらく最も優秀なひとなので、団塊世代の児童精神科医が枠組みにしているパラダイムをロジカルにまとめることができています。

それはとても素晴らしいことなのですが、それゆえにそのパラダイムにとらわれてしまっているのではないか、という批判が可能になります。


本書の構成 

かわいらしい表紙に油断してはいけません。読みやすい文体で書かれているものの、かなり読み応えのある専門的な教科書です。450ページの厚みのある本で、以下のように4部構成になっています。
第1部 はじめに知っておきたいこと 
第2部 育つ側のむずかしさ 
第3部 育てる側のむずかしさ 
第4部 社会に出てゆくむずかしさ 
第1部は「理論編」で、発達に関する知識や学説の歴史について考古学的にまとめられています。このへんの古いパラダイムについてまとめることができる優秀な書き手はもうあまり残っていないので、資料としてとても貴重だと思いました。

第2・3・4部は「実践編」で、おもに発達障害の「むずかしさ」について書かれています。発達障害をもつ個人・とりまく家族・そして社会、それぞれのレベルで「むずかしさ」についてとりあげています。

医学書なので当然といえば当然なのですが、ざっくりいうと悲観論からのパターナリズムです。

つまり、発達障害をもつ個人はとても苦労するし、家族もつらい状況に追い込まれるし、社会に出ていくことはとてもむずかしいことなので、専門家の支援が必要である、という流れになりがちです。

まだ発達障害の概念が浸透していなかった時代には重要な考え方であることに間違いありあません。ですが、発達障害の概念が浸透してむしろ過剰診断や過剰処遇が問題となりつつある現在においてもなお妥当かどうか、検討の余地があります。

とくに発達障害は正常から重症までなめらかに連続する概念なので、悲観的な視点にかたよることは本人のもっている能力を過小評価したり可能性を狭めてしまうことになることがあるので要注意です。

また、「昔は良かった」けれども現代社会の変化によって発達障害をもつひとが苦しむようになった、というノスタルジックな説明がよく目につきます。

はたして本当に、昔の社会は発達障害をもつひとにとって幸せな社会だったのでしょうか?もしもそうだったとしたら、その代わりに不幸になっていたひとたちはどんなひとたちなのでしょうか?

これからいろいろ考えてみたいと思います。


イノセンスはヒーローの条件でありカルトの源泉である


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「愛の民族」 タサダイ族

1971年、フィリピンのミンダナオ島で世紀のスクープがありました。文明から隔絶された26人の裸族が発見されました。彼らは敵意や憎しみを表す言葉のない「独自の言語」をあやつり、競争・所有・攻撃・物欲という概念を知らない「愛の民族」だったのです。
タサダイ族
文化人やジャーナリストが飛びついてメディアを席巻し、彼らの生き方は西欧文明や資本主義に対するアンチテーゼとして称賛され、世界中から莫大な寄付金が集まり、社会学の入門書にも記述されベストセラーとなったそうです。

ところで、当時のフィリピンはマルコス大統領による独裁政権下にありました。政府は彼等の居住区を保護区として封鎖しました。


タサダイ族の真相

1986年、マルコス政権が崩壊してからタサダイ族の真相が明らかになりました。なんとTシャツとジーパンを着て、タバコをふかし、バイクにまたがる彼らの姿が撮影されたのです。
バイクに乗るタサダイ族
環境大臣エリザルデのプロデュースで裸族のフリをしていたと告白する者が現れるにいたり、世紀のスクープは世紀の捏造事件となり、社会学の入門書からタサダイ族についての記述は完全に削除されました。

ちなみに、仕掛け人のエリザルデは12億円と25人の少女をつれて国外逃亡し、麻薬におぼれて死亡したとかなんとか。

「愛の民族」という偽装されたイノセンスを演じる「タサダイ族」をとりまく、独裁政権+浅はかな文化人+軽薄なメディアという三位一体の共犯構造がみてとれます。

時代は違えど、このような構造は今もあちこちで観察することができます。

オルタナティブなシステムで動くヒーロー

タサダイ族が発見された1970年代は、2度にわたる世界大戦からの冷戦突入というドンづまり状況から、ヒッピー文化など近代文明に反対するムーブメントが盛り上がった時期でした。

そのお祭り騒ぎのなかで神輿にかつがれたのはイノセンスなヒーローたちです。つまり、近代文明とは別の原理とかシステムによって価値判断したり行動する者。

たとえば、原始人、未開人、子ども、動物、そして分裂病/統合失調症。


昔から人文科学においても、繰り返しヒーローの概念が登場し、閉塞した近代を批判するためのツールになったり、近代を突破する力として期待されたりしていました。
  • 超人@ニーチェ 
  • 高貴な野蛮人@ルソー 
  • 野生人@レヴィ=ストロース 
  • ノマド@ドゥルーズ&ガタリ 
  • スキゾ@浅田彰
そして、その系譜は高い開放性をもつ中心気質のヒーロー像につながっていきます。


社会にまみれた汚い大人たちと違って、純粋な魂をもった子どもたち。あるいは、肉体・知能・精神にハンディキャップを背負っているからこそ「イノセンス」に裏打ちされた超人性を獲得しているという逆説。これらの要素はヒーローの条件として欠かせません。


イノセンスはカルトの源泉だから悪徳と結びつきやすい

このように、イノセンスは社会的な価値をおびて利用価値が高まることがあります。古くは猿回しに始まって、数々の中心気質的なヒーローやアイドルを生み出し、最近では某不登校の小学生youtuberとか。

アニメの世界はともかく現実の世界では、イノセンスなヒーローの周辺には悪い大人たちが群がり、時にイノセンスは偽装されて商品として流通するようになります。

なので、イノセンス自体に罪はありませんが、それを利用する悪い大人によるイノセンス・マーケティングにはだまされないようにした方がよかったりします。


パパラギと観光客

とはいえ、イノセンスそのものはとても重要なものです。別の角度から自分の常識を見直したり、別の視点を手に入れることで、現状を多角的に分析できたりして学ぶべきもの多かったりします。

たとえばこの「パパラギ」という本。南国サモアの酋長が西欧文明に喝を入れるというもので、ヒッピー・ムーブメントにのっかってカルト的な人気を博しました。
これも実はドイツの作家が捏造したフィクションです。豊かな南国は飢え死にしないから文明なくてもいいかもね、というツッコミはさておき、ところどころ考えさせる言葉や色あせない魅力があったりして、学ぶものが多かったりします。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
「これが人生の真理である」と夢をみて、南国の住人になってしまうのではなくて、南国に刹那的なあこがれをもって旅行して「世界にはこんな社会もあるんだな」と思いを馳せてみたり、「もしも自分がここで生まれていたらどんな人生を送ったのだろうか」と別の世界線をつかのま想像してみたりする観光客でありたいなと思う今日このごろです。

高い開放性をディスプレイするには


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高い開放性をディスプレイするには

前回の「高い開放性の魅力と代償」では、パーソナリティ特性「ビッグ・ファイブ」のうち「開放性」は、若者にとって魅力的な特性であり、人気者になるためにはなんとしてでも身につけておきたい特性であることを説明しました。

ですが残念なことに、気質は遺伝的な要素の大きい才能なので、みなに等しく与えられているわけではありません。

素質的に開放性が高くないひとが手っ取り早く人気者になるためには、なんらかの方法で「高い開放性を身につけている」というシグナルを発しなくてはなりません。

つまり、安上がりでそこそこ信用できる「高い開放性のバッジ」をディスプレイする必要があります。


開放性と寄生虫

アメリカの心理学者ジェフリー・ミラーの著書「消費資本主義!」にとても興味深いことが書かれていたので紹介します。

重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域では、住人の開放性や外向性が低くなることがあるそうです。

好奇心旺盛で社交的なひと、ビッグ・ファイブにおける開放性や外向性の高いひとは、新たな病原体と接触して感染するリスクを負うことになりやすいので、子孫を残す確率が減ってしまうからです。

第二次大戦後、予防接種が世界的に普及した恩恵を受けることになった最初の世代であるベビーブーマーたちは、開放性や外向性が高い傾向があるためヒッピー文化・人種間の寛容・国際主義・リベラル思想が浸透したことや、逆に1970年代末からのエイズや性感染症の流行に直面した世代に、排外主義や右傾化が進んでいることにも関連しているかもれない説があったりして興味深いところです。

もしかしたら世界の調和と自由を促進するのは国際連合ではなく、感染症対策やワクチンの普及に貢献している国境なき医師団やビル&メリンダ・ゲイツ財団なのかもしれないとジェフリー・ミラーは推察します。


開放性と自傷行為

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それはさておき。奇妙なことに、重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域において、しばしばタトゥーやピアスなど身体を傷つけて装飾をほどこす文化があったりします。

なにゆえ、あえて感染リスクに身をさらすような行為をしてしまうのか、とても理解に苦しむところです。

一方で、このような自傷行為による装飾は、神聖なものであり社会的ステータスの証になっていたりします。

考えられる自傷行為のメリットとしては、病原菌におかされて病気になったり傷口が化膿したり変形したりすることなくキレイに治っている姿、つまり免疫力が強靭であり健康な個体であることを、これ見よがしにアピールしている説があります。


自傷行為とメンタルヘルス

感染症の危険がない社会においても、メンタルヘルスの問題から自傷行為をしてしまうひとがいます。自傷行為は周囲の人々を動揺させて注目を集める効果があり、集団の中で際立った存在になることができます。一時期、ファッションとしてのリストカットが流行したのも、このような儀式的行為の名残りなのかもしれません。

とはいえ、自傷行為をするひとはメンタルヘルスの問題を抱えていて、ハイリスクな最終手段に頼らざるを得ないほど追いつめられているのでサポートが必要なことには変わりありません。


寄生虫感染からミーム感染へ

ジェフリー・ミラーは、現代社会において寄生虫による重い感染症の恐怖がなくなった代わりに、エキセントリックでサイケデリックな文化によるミーム感染の恐怖は健在しているのではないかという興味深い指摘をしています。

ミーム/meme/模倣素とは、論者によっていろんな定義がありますが、ざっくり説明してみます。遺伝子が物理的に生物学的情報を担うのに対して、ミームは文化的情報を担うもので、旋律・観念・キャッチフレーズ・ファッションなど、マネすることで人間の脳から脳へ伝播して文化・慣習・技能を形成したりします。

高い開放性のシグナルに信頼性をもたせるには、それなりのシグナリング・コストを払わなくてはなりません。なじみやすいポップでほっこりしたミームではなく、ギョッとして思わず眉をひそめるようなドぎついミームにさらされなくてはいけません。
tokyodandy
たとえば独断と偏見でリストアップしてみると、フェデリコ・フェリーニ、デヴィッド・リンチ、ダーレン・アロノフスキー、ポン・ジュノ、園子温、ニルヴァーナ、レディオヘッド、ビョーク、シガー・ロス、ゆらゆら帝国、電気グルーヴ、フジロック・フェスティバル、ドストエフスキー、カフカ、トマス・ピンチョン、三島由紀夫、寺山修司、筒井康隆、町田康、阿部和重、伊藤計劃、つげ義春、荒木飛呂彦、古谷実、望月峯太郎、花沢健吾、ヴィレッジ・ヴァンガード、フランシス・ベーコン、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ。そして精神分析、精神病理学、精神分裂病→統合失調症。

高い開放性をディスプレイしてシグナルを発するためには、かつてタトゥーやピアスで伝染病のリスクに身体をさらすことで免疫系の強靭さをアピールしたように、ミーム感染のリスクに精神をさらすことでメンタルの強靭さをアピールしているのではないかと。

つまり、「こんなにヤバいモノを大量摂取しているのに健全な精神を保っているオレ、最強」なわけです。このへんのひねくれた思索がジェフリー・ミラーの真骨頂です。

というわけで、次回は開放性、クリエイティビティ、統合失調症の関係についてまとめてみたいと思います。

共感のダークサイド


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ダークサイド・ムーン
いいことずくめのようにみえる共感にもダークサイドがあるようです。



共感の時代?

動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは、チンパンジー社会でも観察できる共感能力が、ヒト社会において薄れているのではないかと危惧しています。「競争こそが進化の本質であり人間のあるべき姿である」という『利己的な遺伝子』に開き直って利益のみを追求する「強欲なアメリカ的資本主義」を「共感欠如の病理」として批判しました。

あまりピンとこないんですが、これは現代においてリアリティーのある指摘でしょうか?

むしろ今や「共感」は絶対的な善であり神聖なモノとして祭り上げられているのではないでしょうか?たとえば、【これはひどい】というタグのついた共感を呼びおこすエピソードは、インターネットを通じて世の中を席巻しています。

そもそも『共感するロボットを設計すること』でみてきたように、「共感」はひとつの「機能」であって、それ自体はニュートラルなものです。使い方次第で良い面も悪い面もあらわれてくることがあるので、そこに価値観を持ち込む必要はありません。


また、「共感欠如の病理」があるのと同時に「共感過剰の病理」も存在していて、精神科臨床ではどちらかといえば後者の方がやっかいな問題だったりします。


精神科医の仕事は共感すること?

一般的に、精神科医は「共感」することが仕事だと思われています。確かに共感することは診療の第一歩として重要ですが、それだけでやっていけるわけではありません。

むしろ逆に、共感能力はあらかじめ誰にでも備わっているものなので、精神科医になってからは共感のスイッチをオフにするトレーニングが必要になったりします。

よく「患者さんに影響されて“うつ”になったりしませんか?」と心配されたりするんですが、共感をずっとオンのままにしていたら身がもちません。いつまでも患者さんに共感しすぎて右往左往ふりまわされている医師は一人前であるとみとめられることはありません。

患者さんに共感しすぎてしまうと冷静さを失って客観的にみれなくなるため適切な判断ができなくなるリスクが高まるからです。なので、医師は自分の家族が病気になったら別の医師に診てもらいます。たとえば、かつて天才と呼ばれていた高名な精神科医は、妻が精神科疾患を発症していることに気づくことができませんでした。研修医でも診断できるほどに病状が進んでいたにもかかわらず、です。

加えて、精神科疾患には境界性人格障害、解離性障害、依存症などなど「安易に共感されることで悪化する病態」がたくさんあります。

また、メランコリー親和型性格や過剰適応といわれるひとたちは、他人に対して過剰に共感してしまうことで消耗し、病状が悪化することがあります。

つまり、医師と患者さんの関係のみならず、患者さん自身にとっても「過剰な共感」によって失われるものは大きいわけです。


共感によって失われるもの

反共感論/Against Empathy というおもしろい本があります。共感を無条件に称揚する風潮に対するアンチテーゼなのですが、安易にサイコパスを称揚したりする本ではありません。共感のダークサイドをまとめつつ、バランスのよい批判を展開しています。
もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。

しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

以前とりあげたように、共感には大きくわけて情動的共感と認知的共感というふたつの異なるシステムがあります。


認知的共感のダークサイドとして、
「認知的共感」は、善きことをなす能力として過大評価されている。つまると ころ、他者の欲望や動機を正確に読み取る能力は、上首尾の〔警察に捕まっていない〕サイコパスの特徴でもあり、残虐な行為や他者の搾取に利用し得る。
と、軽く触れていますが、この本で問題としているのはおもに「情動的共感」についてです。

共感の機能には「限局性」という特徴があります。同時に共感できる相手はせいぜい数人で、たくさんのひとたちに対して同時に共感することはできません。つまり、共感はスポット・ライト的に作用するので、視野が狭くなってしまい、しばしば道徳的な判断を間違えることになります。

たとえば、最近みた映画『デッドプール2』と『万引き家族』。どちらもすばらしい作品なのですが、共感のスポットライト作用が存分に発揮されています。

『デッドプール2』では、虐待を受けていた14歳の少年を救うために、とある組織の構成員を主人公たちが殺しまくります。

『万引き家族』では、これまた虐待を受けていた4歳の女の子を救うひとたちが、犯罪を繰り返していたりします。

どちらとも虐待されている子どもが登場して、あまりにもかわいそうな場面をみせつけられるので、観客は思わず感情移入してしまいます。その結果、子どもを救う側のひとたちが悪に手を染めることは、もはやどうでもいいことのように思えてしまいます。

現実でもこのような事態は枚挙にいとまがありません。冷静に考えるとこれはとても危険なことで、過度な共感は道徳的な判断をするときには有害であることが指摘されています。


共感に抵抗することがむつかしい理由

著者のポール・ブルームは、共感に抵抗するために「理性の力」を重視しています。しかしこれはとても困難な道のりです。

『共感の起源としての群れ/共感を媒介するオキシトシン』でみてきたように、共感という機能は生物が群れをつくる能力から脈々と受け継がれていて、脳の報酬系はいまだに共感ベースで作動しています。つまり、共感にもとづいて行動を起こすことで脳はキモチイイというシグナルを発してしまうのです。

さらに、ツイッター等のSNSを介して共感を瞬時に増幅・拡散させることがインターネットによって可能になっています。

情動的共感は扁桃体を介して作動することに関連して、反共感論の訳者である高橋洋氏は、『ツイッターはインターネットの扁桃体』と指摘しています。

このように、脳から社会インフラのレベルまで浸透している共感というシステムに対抗することは難しいのではないかと思ってしまいます。なにか別のシステムを想定することで、乗り越え可能なのかどうか、これから考えていきたいです。

ところで、他人に共感することが苦手な自閉スペクトラム症のひとは、ルールに沿って公平な判断をするため、普通のひとよりも道徳的である場合が多いことが知られています。

案外その辺がヒントになるかも知れません。

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