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カテゴリ:統合失調症

引き出し屋と移送制度(精神保健福祉法第34条)について


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前回の続きです。
今回は、引き出し屋について考えてみます。

引き出し屋とは、ひきこもりのひとを部屋からムリヤリ引きずり出して、自分たちが運営する“自立のための施設”へ強制的に連れて行く業者で、さまざまな事故やトラブルを起こして問題になっています。



まず前提として確認したいことは、、、

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A 統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B 長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C 長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

とくにAとBでは全く対応が異なるのですが、適切な精神科診断がなされないまま、ABCがぜんぶいっしょくたになったまま、曖昧になんとなく対応されているという現状があります。


昔からあった“引き出し屋”

最近のニュースでは、BあるいはCのケースがいわゆる「引き出し屋」によって強引に移送された、と認識されていますが、そのなかにはAのケースが含まれている可能性があるわけです。

で、そもそも昔から移送業者はAのケースを移送していました。

Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることがあって、自分から治療を受ける可能性が低くなるため、場合によっては強制的な治療導入が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクが意外と高かったりするからです。

その昔は、精神科病院から精神科医が直接患者宅へ往診して、場合によっては鎮静剤を注射して眠らせてむりやり病院へ搬送していたそうですが、さすがに人権的に問題があるということでなくなりました。

なので、病院まで患者さんを連れて行かないと、基本的に病院側はなにもしてくれなくなりました。

家族の力が強かった時代なら、家族総出で患者さんを病院まで連れて行くことができたでしょうが、家族の力がどんどん弱くなっている現代ではなかなかできることではありません。

代替手段として、高額な料金を支払ってでも移送業者に依頼する家族が増えてきたのは自然な流れなわけです。


移送制度(精神保健福祉法第34条)の問題

これはさすがに問題だということで、1999年に精神保健福祉法が改正され、公的機関(都道府県および政令指定都市)が必要に応じて要件を満たす患者さんを精神科病院まで移送する制度が創設されました(精神保健福祉法第34条)。 

つまり、移送は役所の仕事になったわけです。
移送制度の流れ
で、実際の運用状況は、、、
移送制度の地域格差
このように、めちゃくちゃ少ないし地域差もひどくて、まともに運用されているとは到底考えられません。

ぼくも訪問診療をしていた重症の統合失調症をもつひとが入院しないと危険な状態になっていたので、移送制度を使おうとしたことがありますが、相談から事前調査を開始するだけでさえ、めちゃくちゃ時間がかかってたいへん困りました。

そもそも移送をしないといけないケースは時間的余裕なんてないわけです。で、結局は3ヶ月以上も待たされたあげく、なんの理由も説明してくれないまま却下された苦い経験があります。

あまりにもひどい対応だったのであきれてしまいましたが、行政の関係者によると、移送制度は長年運用した前例がない自治体なので仕方がない、という事情を聞いて納得しました。つまり、せっかく創設された移送制度はほとんど機能していないのです。

建前として法令は定められているんだけど、実際には運用されていないという矛盾、そしてそのつじつまを合わせるように民間の移送業者が活躍している現状という、とてもゆがんだ構造になっているわけです。


移送業者が悪なのか?移送制度そのものが悪なのか?

というわけで、役所ですらイヤがる仕事を請け負う民間業者はめちゃくちゃ特殊でしょうし、当然のことながらリスクも高くなるため料金は高くなってしまうでしょう。

最近のニュースをみていると、批判のターゲットは民間の移送業者なのですが、なぜか「移送」そのものが悪であるという論調が目につきます。

もちろん、移送がなくても困らない幸せな世界が早くやってくればいいのになぁ〜、とボンヤリ考えたりはします。日本が今よりもめちゃくちゃ豊かになって、自由かつ平等で寛容な社会になればあるいは可能かもしれませんが、しばらく実現しそうにないのは明白です。

ともかく、現実的には移送制度は法令で定めなければならないくらいニーズが高いわけです。ケースによってはどうしても移送が必要であることくらい、ある程度の実務経験を積めばわかることなのですが、どうしても極端に偏った発言の方がメディアではウケるので目立ってしまいます。

むしろ、正規の移送制度がちゃんと機能するようにシステムを整備してリソースを投入すれば、民間の移送業者が活躍しにくくなるし、不幸な事故も減る可能性が高いので、そっちの方向で議論する余地はあるでしょう。


まとめると、
  • 移送制度そのものが悪である▶理想論
  • 移送制度が機能しないから民間業者が担う▶現状
  • 移送制度を法令に基づいて適切に運用する▶私見

ともかく、正義感に酔って叩きやすい民間の移送業者を批判してスッキリするという安っぽい週刊誌的なノリでお祭り騒ぎをしたところで、このゆがんだ構造が変わるわけではありません。

悪質な業者が倫理的に問題あるのは当然ですが、倫理的観点だけではなくシステム的観点からこの問題を考えていく必要があると思う今日このごろです。

次回は、ひきこもりのひとを自立させるという民間業者の施設について、考えてみたいと思います。



ひきこもりと精神科医療のねじれた関係


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ライジングサン

あけましておめでとうございます。2019年はひきこもり関連のニュースがメディアで多くとりあげられていました。ぼくもひきこもりのケースに関わることが多かったり、ひきこもりの支援者向けに講演をすることがあるので、これを機会にまとめてみようと思います。

ひきこもりの権威である精神科医の斎藤環は、ひきこもりのひとを強制的に処遇する業者を痛烈批判しています。また、そのような業者と連携している精神科病院/成仁病院の精神科医は「犯罪者」であり、資格を剥奪されるべきであると言っちゃうくらいヒートアップしています。

TwitterなどのSNSで影響力を行使しようとするインフルエンサーっぽいひとは、だんだんと情熱にまかせて極端にトンガッたことばかりをつぶやくようになるので冷静に観察することが必要です。

斎藤環による成仁病院の精神保健指定医批判

ネットメディアでは、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端な構図になっているようですが、当然のことながら事態はそれほど単純ではありません。

というわけで、まずはひきこもりの定義をみてみましょう。


ひきこもりの定義

厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」による、ひきこもりの定義です。
  1. 長期間(6ヶ月以上)社会参加をしていない
  2. 精神病が直接の原因ではない
1の社会参加とは、就業・就学のほかに、趣味的な交遊もふくまれます。つまり「友だちのいないニート」です。

問題は2です。統合失調症などの病状によっては、ひきこもりの状態になってしまうことがあります。そもそも「社会的ひきこもり」は統合失調症の症状のひとつがオリジナルです。

つまり、「統合失調症などの精神病によってひきこもりの状態にあるひとは“ひきこもり”ではない」という「ねじれ」があります。統合失調症のイチ症状である「ひきこもり」がオリジナルよりも有名になってしまっているわけです。

とはいえ実際問題として、統合失調症をひきこもりから除外できているかといえば、あまりできていないのが現状です。


ひきこもりのなかの統合失調症

内閣府・ひきこもり新ガイドラインについて(講演録)/齊藤万比古[PDF]によると、ひきこもりの相談窓口を訪れる人たちの中に10%弱くらい、診断・治療をされていない統合失調症が含まれていることが指摘されています。ぼく自身の臨床経験でもそのくらいの割合が妥当であると実感しています。

統合失調症などの精神病にかかってしまうと多かれ少なかれ「ひきこもり」の状態になってしまうし、そのまま放置しているとさまざまなリスクが生じるので、早急に薬物療法はじめ医療による手当てが必要になるわけです。

ひきこもりの中には約10%統合失調症のひとが含まれていて、診断がついて治療を導入すれば比較的すみやかに回復するという事実があります。これは、精神科救急などの実務をやっている精神科医にとっては常識なのですが、世間では意外と知られていなかったりします。

医療福祉関係者でさえ、ひきこもりと統合失調症の関係について説明するとビックリされることがあります。「え?ひきこもりがクスリで改善こともあるんですか!?」と。

統合失調症には(特効薬ではないものの)治療薬はあるので、統合失調症による「ひきこもり」には薬物療法が有効です。

つまり、ひきこもりの定義では、あらかじめ統合失調症のひとは除外されていることになっているために、まるで「統合失調症によるひきこもり」は存在しないことになっていることが問題なわけです。

統合失調症は軽症化しているからそのうち無くなるんじゃないの?って、のんきなことを言う精神科医が多くなりましたが、そんなに急激に精神疾患の概念が変化するわけがありません。クリニックで軽症のケースばかりをみている精神科医と、救急で重症なケースをみている精神科医とでは、かなり温度差があったりします。


精神科医がひきこもりに関わるべきたったひとつの理由

その一方で、さらにややこしいことに、逆にもともと精神面が健全であっても、長期間ひきこもりの状態でいると、精神状態に不調をきたすことがあります。



もともとなのか、二次的なものなのか、にわかにはわかりにくい状態はあるのですが、生活の歴史をひもといて情報収集すれば、経験を積んだ精神科医であればだいたい判別できたりします。

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A  統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B  長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C  長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

まず、Aは完全に精神科医療マターなので、精神科医療でなんとかしないといけません。Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることが多いため、自分から治療を受ける可能性が低くなるので、場合によっては強制的な治療導入が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクがめちゃくちゃ高かったりするからです。

Bも医療的なサポートがあった方がよいので、精神科医療は責任の一端を担いつつ、さまざまな業種と協力してサポート体制をつくることが必要です。Aとは違って、ゆっくりと時間をかけて関わればよいケースです。

Cはひきこもっている本人への医療的なサポートは必要なかったりしますが、周囲のひとが困って相談に来る場合があります。

まとめると、(誰でも関わることができる)ひきこもりという問題に対して、精神科医が関わるべきたったひとつの理由は、統合失調症などの精神病を確実に診断して、ひきこもりから除外する必要があるからです。


ひきこもりの医療化と脱医療化

しかし、精神科医である斎藤環はAについては多くを語らず、もっぱらBについて饒舌に語っています。

これはおそらく、精神医学的に重症のケースが少なくて比較的のんびりした病院で勤務されていたのでしょう。精神科救急の実務経験をあまりお積みになられていないのかもしれません。

また、「ひきこもり」を精神科医として治療の対象であると定めながらも、その中身は精神科医じゃなくてもできることばかりを語っています。いったん医療のターゲットにしながらも、医療的な方法はほとんど使わない「医療化しつつ脱医療化する」という「ねじれ」があります。

とはいえ、たとえばかつて「うつ病」も社会的救済のために医療化されてきた歴史があったりするので、これは決して悪いプロセスではありません。




ひきこもり支援の建前と実際

しかし実際のところ、精神科医の多く(とくに精神科病院の勤務医)は主にAのケースに対して関わっています。BまたはCのケースに関わっているのは、(ぼくを含め)物好きな一部の精神科医でしかありません。

Aのケース、つまり統合失調症などの精神病をサポートするために、精神科医療にはさまざまなリソースとシステムが与えられ、精神科医には権限が与えられているので、役割としてやりがいがあるのは当然です。わざわざややこしくてねじれたBとかCのケースに関わりたいと思うひとは少なくなるし、精神科医でなくてもできることなので、当然のことながら民間業者が参入してくるわけです。

つまり、ひきこもりは建前として精神科医療がサポートするべきであると定められていても、実際には精神科医がほとんど関わっていないので、適切に診断されることなくABCの分類が曖昧でいっしょくたになったまま、精神医学的知識の乏しい行政機関や民間業者によってなんとなくサポートされている、という現状があったりします。

そのような状況で、斎藤環はひきこもりのひとは全肯定されるべきで「胸をはってスネをかじれ」と呼びかけていたりしますが、適切な精神医学的診断と治療がなされないまま、このような見解が独り歩きするのは非常に危険です。

たとえば、かなり重い統合失調症をわずらっているひとが、適切な医療を受けることなく状況が悪化しているなか、ひたすら“ひきこもり”としてサポートされて「胸をはってスネをかじれ」をやり続けた結果、とりかえしがつかなくなってしまっている事例はめずらしくありません。

というわけで今回は、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端にシンプルな図式について、精神病のケースを除外するという前提なしに斎藤環の見解が流通してしまっているのは問題ですよ、という話でした。

次回はひきこもり支援をしている民間業者について考えていきたいと思います。



イノセンスはヒーローの条件でありカルトの源泉である


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「愛の民族」 タサダイ族

1971年、フィリピンのミンダナオ島で世紀のスクープがありました。文明から隔絶された26人の裸族が発見されました。彼らは敵意や憎しみを表す言葉のない「独自の言語」をあやつり、競争・所有・攻撃・物欲という概念を知らない「愛の民族」だったのです。
タサダイ族
文化人やジャーナリストが飛びついてメディアを席巻し、彼らの生き方は西欧文明や資本主義に対するアンチテーゼとして称賛され、世界中から莫大な寄付金が集まり、社会学の入門書にも記述されベストセラーとなったそうです。

ところで、当時のフィリピンはマルコス大統領による独裁政権下にありました。政府は彼等の居住区を保護区として封鎖しました。


タサダイ族の真相

1986年、マルコス政権が崩壊してからタサダイ族の真相が明らかになりました。なんとTシャツとジーパンを着て、タバコをふかし、バイクにまたがる彼らの姿が撮影されたのです。
バイクに乗るタサダイ族
環境大臣エリザルデのプロデュースで裸族のフリをしていたと告白する者が現れるにいたり、世紀のスクープは世紀の捏造事件となり、社会学の入門書からタサダイ族についての記述は完全に削除されました。

ちなみに、仕掛け人のエリザルデは12億円と25人の少女をつれて国外逃亡し、麻薬におぼれて死亡したとかなんとか。

「愛の民族」という偽装されたイノセンスを演じる「タサダイ族」をとりまく、独裁政権+浅はかな文化人+軽薄なメディアという三位一体の共犯構造がみてとれます。

時代は違えど、このような構造は今もあちこちで観察することができます。

オルタナティブなシステムで動くヒーロー

タサダイ族が発見された1970年代は、2度にわたる世界大戦からの冷戦突入というドンづまり状況から、ヒッピー文化など近代文明に反対するムーブメントが盛り上がった時期でした。

そのお祭り騒ぎのなかで神輿にかつがれたのはイノセンスなヒーローたちです。つまり、近代文明とは別の原理とかシステムによって価値判断したり行動する者。

たとえば、原始人、未開人、子ども、動物、そして分裂病/統合失調症。


昔から人文科学においても、繰り返しヒーローの概念が登場し、閉塞した近代を批判するためのツールになったり、近代を突破する力として期待されたりしていました。
  • 超人@ニーチェ 
  • 高貴な野蛮人@ルソー 
  • 野生人@レヴィ=ストロース 
  • ノマド@ドゥルーズ&ガタリ 
  • スキゾ@浅田彰
そして、その系譜は高い開放性をもつ中心気質のヒーロー像につながっていきます。


社会にまみれた汚い大人たちと違って、純粋な魂をもった子どもたち。あるいは、肉体・知能・精神にハンディキャップを背負っているからこそ「イノセンス」に裏打ちされた超人性を獲得しているという逆説。これらの要素はヒーローの条件として欠かせません。


イノセンスはカルトの源泉だから悪徳と結びつきやすい

このように、イノセンスは社会的な価値をおびて利用価値が高まることがあります。古くは猿回しに始まって、数々の中心気質的なヒーローやアイドルを生み出し、最近では某不登校の小学生youtuberとか。

アニメの世界はともかく現実の世界では、イノセンスなヒーローの周辺には悪い大人たちが群がり、時にイノセンスは偽装されて商品として流通するようになります。

なので、イノセンス自体に罪はありませんが、それを利用する悪い大人によるイノセンス・マーケティングにはだまされないようにした方がよかったりします。


パパラギと観光客

とはいえ、イノセンスそのものはとても重要なものです。別の角度から自分の常識を見直したり、別の視点を手に入れることで、現状を多角的に分析できたりして学ぶべきもの多かったりします。

たとえばこの「パパラギ」という本。南国サモアの酋長が西欧文明に喝を入れるというもので、ヒッピー・ムーブメントにのっかってカルト的な人気を博しました。
これも実はドイツの作家が捏造したフィクションです。豊かな南国は飢え死にしないから文明なくてもいいかもね、というツッコミはさておき、ところどころ考えさせる言葉や色あせない魅力があったりして、学ぶものが多かったりします。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
「これが人生の真理である」と夢をみて、南国の住人になってしまうのではなくて、南国に刹那的なあこがれをもって旅行して「世界にはこんな社会もあるんだな」と思いを馳せてみたり、「もしも自分がここで生まれていたらどんな人生を送ったのだろうか」と別の世界線をつかのま想像してみたりする観光客でありたいなと思う今日このごろです。

かつて神聖な病とされていた統合失調症


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今ではとうてい考えられませんが、ひと昔前、一部の人たちの間では、統合失調症という病気は神聖な病であると考えられていました。

シグナリング・コストとしての分裂病/統合失調症

エキセントリックでサイケデリックなサブカルチャーだけでなく、精神疾患や精神病理学や精神分析も「高い開放性」のシグナリング・コストとして消費されるようになりました。

精神疾患のなかでも統合失調症は、急性期の病状において異様な言動がみられることがあるので、特にシグナリング・コストが高く、ナゾめいた病としてもてはやされました。

「高い開放性」をディスプレイするための「ファッショナブルな狂気」である統合失調症の魅力に精神科医たちが飛びついて、神格化されていくことになります。

統合失調症は神聖な病か?


このへんの歴史的経緯について、この雑誌の巻頭グラビアにも登場するオトコマエな精神病理学者である松本卓也が明快に解説をしています。

1920年代、(のちに哲学者になった)精神科医ヤスパースは、統合失調症のことを「真理なき時代、真理に到達できる唯一の人間」と称揚しました。

次に、精神病理学のなかでも特にややこしい現存在分析というジャンルをやっていたビンスワンガーやブランケンブルグらは、統合失調症のなかに「人間の現存在の世界のなかへの住まいかたの真理」をみていました。

1960年代、少し遅れて日本でも木村敏、中井久夫、宮本忠雄ら精神病理学者によって「分裂病中心主義」が始まりました。

1990年代にはサブカルチャーを語る精神科医として斎藤環が登場し、デヴィッド・リンチなどシグナリング・コストの高い作家と統合失調症の関連について取り上げていました。

このように統合失調症は、ねちっこく研究対象にされて「人間の本質を示す特権的な狂気」として祭り上げられ、精神科医だけでなく文化人たちもそれに便乗することで、臨床と人文知の共通言語となりました。

このトレンドは、内海健「分裂病の消滅」が出版された2003年ころまで続きました。

ポスト分裂病時代の精神科医

ちなみに、ぼくが精神科医になったのがちょうど2003年で、その前年ちょうど臨床実習をやってたころに分裂病から統合失調症に呼称変更がありました。

さらに、翌2004年には「発達障害支援法」が成立して、精神科医療において発達障害を重視するトレンドが始まりました。

今ふりかえってみると、とても大きな節目の時期だったわけです。

分裂病/統合失調症に興味をもって精神科医になったのに「え?消滅したの?もう終わり?」って衝撃を受けたのを覚えています。その頃は、疾患単位としての分裂病/統合失調症と、人文知の共通言語(メタファー)としての「分裂病」を混同していたようです。

人文知の共通言語/メタファー/シグナリング・コストとしての統合失調症は、実際の医療とはほとんど関係ありません。ですが、両者があたかも関連があるかのような夢というか幻想が共有されていた時期がありました。

ぼくが精神科医になったとき、ちょうどその幻想が黄昏を迎えていたんだなと、しみじみ思う今日このごろです。


哲学者と精神科医がロックスターだった時代


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ロックな狂気

ぼくは学生時代からロックと精神医学に興味があったので、両者の関連についてヒマなときにボンヤリと考えていました。どちらにも「狂気」への憧れという共通点があるのではないか、などなど。

フジロック・フェスティバルと精神病理学会はぼくにとっては同じように楽しいイベントでした。タイムテーブルが定められていて、興味のあるアーティスト/精神科医の発表を観ることができるからです。

フジロック・フェスティバルは今でこそ洗練されてオシャレになって子ども連れでも安心して参加できるイベントになりましたが、昔はただならぬ異様な雰囲気がありました。

精神病理学会も今ではすっかり穏やかな学会になりましたが、昔はシンポジウムで唐突に大声で叫びだす先生がいたりしておもしろかったわけです。


ロックな狂気とは

  1. 思春期を迎えたロック少年は、全身の毛が逆立つような言葉にできない興奮を覚え、いまにも呑み込まれそうなその狂気に、ほんの一瞬ためらいながらも覚悟を決めて、その身をゆだねてぶっ飛んだ。

  2. ロックはかつて破壊神として降臨し、既成概念をぶっ壊し、ありとあらゆるユートピアを幻視させた。

  3. ロックの魅力に様々な進歩的文化人たちが便乗し、保守的な大人たちに反撃するツールとして利用された。

  4. ロックの破壊力は、硬直化した社会でこそ本領を発揮したものの、社会の価値観が多様化した途端に減衰し、ロックな狂気は「軽症化」した。
①思春期に発症し、②圧倒的なインパクトがあって、③文化人たちを魅了し、④近年軽症化している、ということで、ロックな狂気は統合失調症に関連していると思うわけです。

どちらも、若者にとって重要な特性である「高い開放性」をディスプレイすることができるという共通項があります。


哲学者と精神科医がロックスターだった時代

リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ、決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな! ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。

このイカした文章は、哲学者と精神科医による共著の文章です。まるで日本の伝説的なロックバンド、ミッシェル・ガン・エレファントの歌詞みたいです。

攻撃的な曲の次に、恥ずかしげもなくドヤ顔で甘いバラードを演奏しはじめるロックバンドのように、次の文章を紹介します。
身体が全く鳴りを潜め、この奇妙な静けさを背景とする知覚過敏(外界のこの世ならぬ美しさ、深さ、色の強さ)、特に聴覚過敏、超限的記憶力増大感(読んだ本の内容が表紙を見ただけでほとんど全面的に想起できる確実感)と共に、抵抗を全く伴わず、しかも能動感を全く欠いた思路の無限延長、無限分岐、彷徨とを特徴とする一時期がある

日本の伝説的な精神科医である中井久夫の美しい文章です。

今ではまったく想像もつきませんが、1970年代は、哲学者と精神科医がロックスターだった時期があったそうです。 

ロックスターの魅力は「高い開放性」であり、高い開放性をディスプレイするにはそれなりのシグナリング・コストを支払わなければなりません。精神病理学とか統合失調症(当時は精神分裂病)はシグナリング・コストとして消費されるようになりました。

つまり、ロックと精神科という全く異なるジャンルを「高い開放性」をディスプレイするシグナリング・コストが媒介するわけです。


精神病理学の黄昏

精神病理学は統合失調症の異様な言動を詳細に記述して、独特で難解な解釈をちりばめました。患者さんの言動が異様であればあるほど、理論が難解であればあるほど、極端でぶっ飛んでいればいるほど歓迎されました。

そして、一部の精神科医は(ぼくをふくめ)精神病理学の知的曲芸に魅了されていくことになります。そして、実践にほとんど役に立たない屁理屈をもてあそぶ自己満足集団として、一般の精神科医にはほとんど相手にされないジャンルになりつつあります。

精神病理学者はディスプレイに失敗しているといえますが、役に立たなそうなものほど意外と役に立つこともあったりするので、これからも精神病理学の可能性を生あたたかく見守りたいなあと思う今日このごろです。

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