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ひきこもり自立支援施設ってどうなの?


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前回からの続きです。


今回は民間業者が運営するひきこもりのひとを自立させる施設について考えてみます。

とそのまえに、ひきこもり支援の概要についてみてみましょう。


ひきこもり支援の3ステップ

厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」によると、ひきこもりの支援は大きくわけて3段階のステップとなっています。
  1. 家族の支援
  2. 本人の支援
  3. 集団への参加
ざっくり説明すると、、、

1.家族の支援
ひきこもりの支援は家族からの相談を受けることから始まります。本人はひきこもっていて出てこないからです。この「家族の支援」が1番肝心なところで、ひきこもりの問題は本人だけではなく家族を巻き込んでいくので、家族自身も消耗・疲弊していてケアが必要になっていることがよくあるわけです。なので、まずは家族が元気になってもらって、本人との関係を調整していくことから始めていきます。

2.本人の支援
支援者が家族を介して本人に間接的にアプローチすることができるようになれば、徐々に変化がみられるようになります。本人が来院なり通所するようになれば、もうかなり状況は改善しているといえるので、あとひと息です。支援者が本人へ直接アプローチすることができるようになれば、変化はより促進されます。

3.集団への参加
最終段階として、いよいよ集団へ参加します。ここまで到達できればほとんど目標達成といえます。適切な環境さえ提供できれば、同じ境遇の仲間と接して共に時間を過ごすだけで、かなりの改善効果が見込まれます。しょせん親や支援者の立場にいると本当の意味での交流はできないし、仲間にはなれないからです。


ひきこもり自立支援施設の強み

さて、問題になっている業者は、ひきこもりの自立支援のために共同生活をする施設/寮をもっていて、強引に入所させるところから支援が始まる場合があるようです。

つまり、1と2のプロセスをすっ飛ばして、いきなり3の最終段階からスタートすることができるわけです。

倫理的な観点を無視して、純粋に支援の効率だけを考えれば、これはかなり有利であると考えざるを得ません。1と2はかなり時間と労力のかかる地道なプロセスだからです。

昔から戸塚ヨットスクールはじめ、さまざまな若者の自立支援施設が(一時的であるにせよ)注目されて人気を博すことがあるのは、共同生活による改善効果が絶大だからでしょう。
  
ではなぜ、このような民間の自立支援施設がさまざまなトラブルを起こしたりして長続きしないのでしょうか?


自立支援施設でトラブルが多いワケ

原因のひとつとして考えられるのは、統合失調症などの深刻な精神疾患を抱えるひとを対象にしている可能性です。

民間の自立支援施設は、共同生活の場という強みをもっていますが、残念ながら精神科医療のシステムがないので、精神疾患のあるケースを適切にケアすることができません。民間業者と違って、医療はリソースがとても潤沢なので人員や設備が充実しています。

また、統合失調症などの精神病は、病気の時期によっては共同生活と相性が悪かったり、自立を促進するはたらきかけが病状の悪化をまねくことがあります。

そもそも、本来は精神科医療で対応すべき精神病をもつひとを民間業者が相手にしているのはおかしな話です。これは、以前の記事で指摘したように、ひきこもりと精神科医療のねじれが関係しているかもしれません。



そもそも、ひきこもりの定義からしてねじれているので、ひきこもりの権威である精神科医の斎藤環が精神病以外のひとを支援の対象とする一方で、資格のない民間業者が精神病のひとを支援の対象としているという「ねじれ」が生じています。


自立支援施設と精神科病院のむすびつき

なので、最近の民間業者は精神科病院と連携してこれを補完しようとしているようです。そうすることによって、自立支援施設で対応できないほど精神状態が悪化した場合は、専門機関へ治療やケアを任せることができるからです。

これはいちおう理にかなっていることのように思えます。

しかし、ニュースによると、ひきこもりの自立支援施設の入所を拒否したために精神科病院へ強制入院/医療保護入院になった方が処遇が不当であったとして、病院側に対して損害賠償請求訴訟を起こし、病院の医師を刑事告訴しています。


原告側は治療のためではなく「見せしめ」のために精神科病院へ入院させられたと主張しています。

まだ事実関係が明らかになっていないのでなんともいえませんが、はたして連携している精神科病院は悪徳業者の片棒をかつぐ悪徳病院なのでしょうか?

争点は、病院受診時に原告がどのような精神状態だったのか、医療保護入院の要件を満たしていたのかどうか、になるでしょう。

というわけで次回は、ひきこもりと医療保護入院についてまとめていきます。


引き出し屋と移送制度(精神保健福祉法第34条)について


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前回の続きです。
今回は、引き出し屋について考えてみます。

引き出し屋とは、ひきこもりのひとを部屋からムリヤリ引きずり出して、自分たちが運営する“自立のための施設”へ強制的に連れて行く業者で、さまざまな事故やトラブルを起こして問題になっています。



まず前提として確認したいことは、、、

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A 統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B 長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C 長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

とくにAとBでは全く対応が異なるのですが、適切な精神科診断がなされないまま、ABCがぜんぶいっしょくたになったまま、曖昧になんとなく対応されているという現状があります。


昔からあった“引き出し屋”

最近のニュースでは、BあるいはCのケースがいわゆる「引き出し屋」によって強引に移送された、と認識されていますが、そのなかにはAのケースが含まれている可能性があるわけです。

で、そもそも昔から移送業者はAのケースを移送していました。

Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることがあって、自分から治療を受ける可能性が低くなるため、場合によっては強制的な治療導入が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクが意外と高かったりするからです。

その昔は、精神科病院から精神科医が直接患者宅へ往診して、場合によっては鎮静剤を注射して眠らせてむりやり病院へ搬送していたそうですが、さすがに人権的に問題があるということでなくなりました。

なので、病院まで患者さんを連れて行かないと、基本的に病院側はなにもしてくれなくなりました。

家族の力が強かった時代なら、家族総出で患者さんを病院まで連れて行くことができたでしょうが、家族の力がどんどん弱くなっている現代ではなかなかできることではありません。

代替手段として、高額な料金を支払ってでも移送業者に依頼する家族が増えてきたのは自然な流れなわけです。


移送制度(精神保健福祉法第34条)の問題

これはさすがに問題だということで、1999年に精神保健福祉法が改正され、公的機関(都道府県および政令指定都市)が必要に応じて要件を満たす患者さんを精神科病院まで移送する制度が創設されました(精神保健福祉法第34条)。 

つまり、移送は役所の仕事になったわけです。
移送制度の流れ
で、実際の運用状況は、、、
移送制度の地域格差
このように、めちゃくちゃ少ないし地域差もひどくて、まともに運用されているとは到底考えられません。

ぼくも訪問診療をしていた重症の統合失調症をもつひとが入院しないと危険な状態になっていたので、移送制度を使おうとしたことがありますが、相談から事前調査を開始するだけでさえ、めちゃくちゃ時間がかかってたいへん困りました。

そもそも移送をしないといけないケースは時間的余裕なんてないわけです。で、結局は3ヶ月以上も待たされたあげく、なんの理由も説明してくれないまま却下された苦い経験があります。

あまりにもひどい対応だったのであきれてしまいましたが、行政の関係者によると、移送制度は長年運用した前例がない自治体なので仕方がない、という事情を聞いて納得しました。つまり、せっかく創設された移送制度はほとんど機能していないのです。

建前として法令は定められているんだけど、実際には運用されていないという矛盾、そしてそのつじつまを合わせるように民間の移送業者が活躍している現状という、とてもゆがんだ構造になっているわけです。


移送業者が悪なのか?移送制度そのものが悪なのか?

というわけで、役所ですらイヤがる仕事を請け負う民間業者はめちゃくちゃ特殊でしょうし、当然のことながらリスクも高くなるため料金は高くなってしまうでしょう。

最近のニュースをみていると、批判のターゲットは民間の移送業者なのですが、なぜか「移送」そのものが悪であるという論調が目につきます。

もちろん、移送がなくても困らない幸せな世界が早くやってくればいいのになぁ〜、とボンヤリ考えたりはします。日本が今よりもめちゃくちゃ豊かになって、自由かつ平等で寛容な社会になればあるいは可能かもしれませんが、しばらく実現しそうにないのは明白です。

ともかく、現実的には移送制度は法令で定めなければならないくらいニーズが高いわけです。ケースによってはどうしても移送が必要であることくらい、ある程度の実務経験を積めばわかることなのですが、どうしても極端に偏った発言の方がメディアではウケるので目立ってしまいます。

むしろ、正規の移送制度がちゃんと機能するようにシステムを整備してリソースを投入すれば、民間の移送業者が活躍しにくくなるし、不幸な事故も減る可能性が高いので、そっちの方向で議論する余地はあるでしょう。


まとめると、
  • 移送制度そのものが悪である▶理想論
  • 移送制度が機能しないから民間業者が担う▶現状
  • 移送制度を法令に基づいて適切に運用する▶私見

ともかく、正義感に酔って叩きやすい民間の移送業者を批判してスッキリするという安っぽい週刊誌的なノリでお祭り騒ぎをしたところで、このゆがんだ構造が変わるわけではありません。

悪質な業者が倫理的に問題あるのは当然ですが、倫理的観点だけではなくシステム的観点からこの問題を考えていく必要があると思う今日このごろです。

次回は、ひきこもりのひとを自立させるという民間業者の施設について、考えてみたいと思います。



ひきこもりと精神科医療のねじれた関係


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ライジングサン

あけましておめでとうございます。2019年はひきこもり関連のニュースがメディアで多くとりあげられていました。ぼくもひきこもりのケースに関わることが多かったり、ひきこもりの支援者向けに講演をすることがあるので、これを機会にまとめてみようと思います。

ひきこもりの権威である精神科医の斎藤環は、ひきこもりのひとを強制的に処遇する業者を痛烈批判しています。また、そのような業者と連携している精神科病院/成仁病院の精神科医は「犯罪者」であり、資格を剥奪されるべきであると言っちゃうくらいヒートアップしています。

TwitterなどのSNSで影響力を行使しようとするインフルエンサーっぽいひとは、だんだんと情熱にまかせて極端にトンガッたことばかりをつぶやくようになるので冷静に観察することが必要です。

斎藤環による成仁病院の精神保健指定医批判

ネットメディアでは、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端な構図になっているようですが、当然のことながら事態はそれほど単純ではありません。

というわけで、まずはひきこもりの定義をみてみましょう。


ひきこもりの定義

厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」による、ひきこもりの定義です。
  1. 長期間(6ヶ月以上)社会参加をしていない
  2. 精神病が直接の原因ではない
1の社会参加とは、就業・就学のほかに、趣味的な交遊もふくまれます。つまり「友だちのいないニート」です。

問題は2です。統合失調症などの病状によっては、ひきこもりの状態になってしまうことがあります。そもそも「社会的ひきこもり」は統合失調症の症状のひとつがオリジナルです。

つまり、「統合失調症などの精神病によってひきこもりの状態にあるひとは“ひきこもり”ではない」という「ねじれ」があります。統合失調症のイチ症状である「ひきこもり」がオリジナルよりも有名になってしまっているわけです。

とはいえ実際問題として、統合失調症をひきこもりから除外できているかといえば、あまりできていないのが現状です。


ひきこもりのなかの統合失調症

内閣府・ひきこもり新ガイドラインについて(講演録)/齊藤万比古[PDF]によると、ひきこもりの相談窓口を訪れる人たちの中に10%弱くらい、診断・治療をされていない統合失調症が含まれていることが指摘されています。ぼく自身の臨床経験でもそのくらいの割合が妥当であると実感しています。

統合失調症などの精神病にかかってしまうと多かれ少なかれ「ひきこもり」の状態になってしまうし、そのまま放置しているとさまざまなリスクが生じるので、早急に薬物療法はじめ医療による手当てが必要になるわけです。

ひきこもりの中には約10%統合失調症のひとが含まれていて、診断がついて治療を導入すれば比較的すみやかに回復するという事実があります。これは、精神科救急などの実務をやっている精神科医にとっては常識なのですが、世間では意外と知られていなかったりします。

医療福祉関係者でさえ、ひきこもりと統合失調症の関係について説明するとビックリされることがあります。「え?ひきこもりがクスリで改善こともあるんですか!?」と。

統合失調症には(特効薬ではないものの)治療薬はあるので、統合失調症による「ひきこもり」には薬物療法が有効です。

つまり、ひきこもりの定義では、あらかじめ統合失調症のひとは除外されていることになっているために、まるで「統合失調症によるひきこもり」は存在しないことになっていることが問題なわけです。

統合失調症は軽症化しているからそのうち無くなるんじゃないの?って、のんきなことを言う精神科医が多くなりましたが、そんなに急激に精神疾患の概念が変化するわけがありません。クリニックで軽症のケースばかりをみている精神科医と、救急で重症なケースをみている精神科医とでは、かなり温度差があったりします。


精神科医がひきこもりに関わるべきたったひとつの理由

その一方で、さらにややこしいことに、逆にもともと精神面が健全であっても、長期間ひきこもりの状態でいると、精神状態に不調をきたすことがあります。



もともとなのか、二次的なものなのか、にわかにはわかりにくい状態はあるのですが、生活の歴史をひもといて情報収集すれば、経験を積んだ精神科医であればだいたい判別できたりします。

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A  統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B  長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C  長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

まず、Aは完全に精神科医療マターなので、精神科医療でなんとかしないといけません。Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることが多いため、自分から治療を受ける可能性が低くなるので、場合によっては強制的な治療導入が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクがめちゃくちゃ高かったりするからです。

Bも医療的なサポートがあった方がよいので、精神科医療は責任の一端を担いつつ、さまざまな業種と協力してサポート体制をつくることが必要です。Aとは違って、ゆっくりと時間をかけて関わればよいケースです。

Cはひきこもっている本人への医療的なサポートは必要なかったりしますが、周囲のひとが困って相談に来る場合があります。

まとめると、(誰でも関わることができる)ひきこもりという問題に対して、精神科医が関わるべきたったひとつの理由は、統合失調症などの精神病を確実に診断して、ひきこもりから除外する必要があるからです。


ひきこもりの医療化と脱医療化

しかし、精神科医である斎藤環はAについては多くを語らず、もっぱらBについて饒舌に語っています。

これはおそらく、精神医学的に重症のケースが少なくて比較的のんびりした病院で勤務されていたのでしょう。精神科救急の実務経験をあまりお積みになられていないのかもしれません。

また、「ひきこもり」を精神科医として治療の対象であると定めながらも、その中身は精神科医じゃなくてもできることばかりを語っています。いったん医療のターゲットにしながらも、医療的な方法はほとんど使わない「医療化しつつ脱医療化する」という「ねじれ」があります。

とはいえ、たとえばかつて「うつ病」も社会的救済のために医療化されてきた歴史があったりするので、これは決して悪いプロセスではありません。




ひきこもり支援の建前と実際

しかし実際のところ、精神科医の多く(とくに精神科病院の勤務医)は主にAのケースに対して関わっています。BまたはCのケースに関わっているのは、(ぼくを含め)物好きな一部の精神科医でしかありません。

Aのケース、つまり統合失調症などの精神病をサポートするために、精神科医療にはさまざまなリソースとシステムが与えられ、精神科医には権限が与えられているので、役割としてやりがいがあるのは当然です。わざわざややこしくてねじれたBとかCのケースに関わりたいと思うひとは少なくなるし、精神科医でなくてもできることなので、当然のことながら民間業者が参入してくるわけです。

つまり、ひきこもりは建前として精神科医療がサポートするべきであると定められていても、実際には精神科医がほとんど関わっていないので、適切に診断されることなくABCの分類が曖昧でいっしょくたになったまま、精神医学的知識の乏しい行政機関や民間業者によってなんとなくサポートされている、という現状があったりします。

そのような状況で、斎藤環はひきこもりのひとは全肯定されるべきで「胸をはってスネをかじれ」と呼びかけていたりしますが、適切な精神医学的診断と治療がなされないまま、このような見解が独り歩きするのは非常に危険です。

たとえば、かなり重い統合失調症をわずらっているひとが、適切な医療を受けることなく状況が悪化しているなか、ひたすら“ひきこもり”としてサポートされて「胸をはってスネをかじれ」をやり続けた結果、とりかえしがつかなくなってしまっている事例はめずらしくありません。

というわけで今回は、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端にシンプルな図式について、精神病のケースを除外するという前提なしに斎藤環の見解が流通してしまっているのは問題ですよ、という話でした。

次回はひきこもり支援をしている民間業者について考えていきたいと思います。



ひきこもりのデメリット「孤独は健康に悪い」


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前回までは、ひきこもりのメリットをあげてきました。当然のことながら、ひきこもりにメリットがあるからといって支援しなくていいわけではないので、今回はひきこもりのデメリットをあげてみます。

「孤独の科学」という書籍を紹介します。孤独感が心身に与える影響を科学的アプローチによって明らかにしています。

孤独の科学

孤独の科学---人はなぜ寂しくなるのか
ウィリアム・パトリック
2010-01-20

原題は「Lonliness: Human Nature and the Need for Social Connection」つまり、社会的つながりは重要で社会的ひきこもりはリスクが高いということが書かれています。

結論からいうと、ひきこもりによる孤独感は健康被害を引き起こします。精神はもちろんのこと身体の健康をそこない、正常な判断力が失われ、社会的な成功から遠ざかって、あらゆる不幸の源になるそうです。

loneliness

若かりし頃、一時的に孤独な状態に身を置くことは大切だったりします。周りの人に邪魔されずに好きなことに没頭する時期はあるでしょう。実際に、若者の孤独感はそれほど健康面に影響をおよぼさないこともありますが、孤独感が長期化したり高齢化するにつれて多大な健康被害をもたらすことが明らかになっています。


孤独担当大臣?

日本では、孤独は個人の問題であるとされていますが、英国では政府が対策に乗り出しています。

というのも、孤独による健康被害は1日にタバコ15本を吸うのと同等であり、イギリスの国家経済に与える社会的損失は年間4.7兆円ともいわれています。

複数の団体が運営するウェブサイト「孤独を終わらせるキャンペーン」には、孤独感に悩む人に向けた対処法が掲載されています。

英国のメイ首相は、2018年1月18日に「孤独担当大臣」というポストを新設しました。スポーツ・市民社会担当国務次官を務める英国保守党のトレーシー・エリザベス・アンネ・クラウチ氏を任命し、孤独解消のために全省庁をあげて戦略を練っているようです。将来は「孤独省」が新設されるかもしれません。

精神疾患の背景に孤独の問題がひそんでいるケースはけっこう多くて、心理療法や薬物療法よりも居場所がみつかることで症状が改善するケースは少なからず経験しています。


孤独感が健康に与える影響

まず、孤独が身体に与える影響は深刻です。循環器系、呼吸器系、消化器系、免疫系などなど、全身の臓器にトラブルが起こるリスクが高まるようです。身体に悪いことをしていなくても、孤独を感じるだけで病気になって死ぬ確率が高まるという恐ろしい話です。

次に、精神に与える影響は多彩です。
  • アルコールなどに依存しやすくなります。孤独をうめるために依存症になります。
  • 過食になったり、性的にだらしなくなる。口さみしいのは本当にさみしいのです。
  • 自制心がきかなくなり、判断力がにぶります。
  • 楽観的になれなくなり、リスクのあることに挑戦できなくなります。
  • ブラックな状況を変えることなくひたすら耐えるようになります。
  • 他人にSOSをだせなくなって、ますますひとを遠ざけるようになります。
  • 他人の意見をうのみにしたり迷信深くなったりします。
どれも生きていく上で決定的なデメリットになるでしょう。

依存症のひと、過食してしまうひと、性的にだらしないひと、自制心のきかないひと、ひどい状況を変えるために何も行動せずにズルズル現状を維持しているひと、うさんくさい他人の言われるがままにカモられているひとたち、などなど。

そのようなひとに対して世間は冷たかったりします。自業自得であると断じられて、支援の優先度は下がってしまいがちです。その結果、さらに孤独感を強めるという悪循環におちいります。

また、基本的に福祉的な支援は自分で申請しないとやってもらえないことがほとんどなので、本当に支援が必要なひとほど支援されていないことが多かったりします。

このような傾向のあるひとに対しては、表面にある問題そのものよりも、背景にある孤独感について想像をめぐらせてみることが重要だったりします。

なので、支援者は「気にかけているよ」という社会的なシグナルを送り続けることから始めなければなりません。


倫理を科学的に規定すること

孤独という個人的かつ主観的な感覚を科学で規定していいのかという問題があります。

いちいち科学的に証明されるまでもなく、孤独で困っているひとを助けることは倫理的にあたりまえなことだと言うひともいるでしょう。

福祉の領域では「どんなひとにも手を差し伸べなくてはいけない」という無条件に規定された倫理観があります。しかし、これを維持することはけっこう過酷なことです。言うは易く行うは難し。

現場でこれを忠実に守る聖職者のような支援者は、自分自身の尊厳を失ったり倫理的でない状況に自分自身が追い込まれることがあるからです。


また、いかに正当性のありそうな倫理的判断でも、まちがった事実認識の上に立っていたとしたら、それは倫理的ではありません。

聖職者のような高い志をもった特別なひとだけではなく、普通にだらしないひとでも支援者をやっていくには、科学的に納得感のある根拠を示して倫理を規定していくことが重要です。

特に医療は科学の末席なので、科学的な事実認識に基づいて倫理的判断がなされるべきであると思う今日この頃です。

ひきこもりのメリットその3「欲望を他人に利用されない」


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ひきこもりのメリットについてまとめてきました。



今回は、3つめのメリットをかなり偏った視点から考えてみようと思います。


欲求と欲望

限りない要望

欲求と欲望は似たような言葉ですが定義が違います。

動物的な欲求(睡眠欲・食欲・性欲)は、いったん満たされればとりあえず解消されます。

一方で、人間の社会的な欲望には限りがありません。友だちをつくりたい、目立ちたい、注目を集めたい、高い地位につきたい、尊敬されたい、評価されたい、チヤホヤされたい、他人がうらやむモノを手に入れたい、自慢したい、他人を支配したい、などなど。

ひきこもり状態が長期化しているひとは欲望をもたなくなります。欲望をあきらめているか、もしくは、興味を失っているようにみえます。誰にも会いたくないし、他人の評価なんてどうでもいいようにみえたりします。

まるで徳の高い修行僧のように世俗を離れてストイックな生活をして「ありがたい」雰囲気を身にまとっていることもめずらしくありません。


欲望は他人の欲望?

ジャック・ラカンという精神分析の巨匠がこう言いました。要するに「他人の欲望するものをひとは欲望する」ということです。

ひきこもり専門家の精神科医である斎藤環はジャック・ラカンを紹介しつつ、「ひきこもり状態にあるひとは他人と接触しなくなるため自分の欲望を見失ってしまう」という問題を指摘しました。

そのため、ひきこもりの支援においては、欲望をもたらしてくれる「第三者」と接触することを重視しています。

これは臨床上はとても有効です。とりあえずアカの他人つまり「第三者」である支援者が定期的に接触して対話を続けることで、ひきこもり状態が解消されていくことがあるからです。


「第三者」ってどんなひと?

でも、なんとなく腑に落ちないのがこの「第三者」という存在です。

斎藤は「第三者」について、
  1. 親のように愛情と熱意をもって接触する者ではなく
  2. 利害関係のある者でもなく
対等でフラットに対話が続けられる存在であるとしています。

実際には、そんなひとはいるわけがありません。一時的にそんな存在になれることがあるかもしれませんが、たいていは長続きしません。

というのも、支援者も人間だからです。時には情熱を抱いてしまうし、あらかじめ利害関係が存在しているか、後になって必ず生じてしまうからです。

とりあえずの指針としては役に立つこともありますが、臨床現場はなにかとカオスなので理論を信奉するだけではうまくいきません。


なぜ欲望をもたなくなるのか?

そもそも、「欲望をもたらす他者と接触しなくなることで二次的に欲望をもてなくなる」という説明は、ひきこもりの持続要因に過ぎません。

この点について、評論家の岡田斗司夫が、哲学者の内田樹との対談のなかでリアリティのある説明をしています。
いま、若い男子が一番嫌なことっていうのは、誰かにいいように利用されるっていうことなんですよ。利用されたり、いいようにされたり。

だから草食系になっちゃうのはなぜかというと、欲望というものを持ってしまったり、それが他人にばれたら、巧みに利用されてしまうと思っているから。

欲望を逆手にとって操られるのが怖いから、欲望に背を向けようとしているんですね。欲望というのを意識したくないし、できれば持ちたくない。

そうすると女の子のほうはイライラしてくる。欲望あるでしょ、と。
他者と接触しなくなった結果、欲望をもたなくなるその前に、積極的に欲望から背を向けているというわけです。

これは、欲望を見透かされた瞬間に負けが決定するゲームがあちこちで展開されていて、ストレートに欲望を表に出してしまうひとはカモにされるルールが存在している状況では、とても合理的な行動と言えます。

たとえば、ひきこもりがちだった自閉スペクトラム症をもつひとが、なまじソーシャルスキルを身につけて社会に出てしまったがゆえに、詐欺にひっかかってしまう悲劇はめずらしくありません。


[理想の自分]ー[現在の自分]=[利益]

日本は世界的には豊かな国なのに幸福度が低いようです。これは、自分よりもキラキラ幸福なひとがメディアに露出していることが一因です。上をみあげることで欲望に火がともされて、今の自分に満足することができずに、夢・やりがい・自己実現を求めてしまうようになります。

そして、欲望を達成した[理想の自分]と[現在の自分]の「差分」が、かけはなれていればいるほど大きな利益を発生させることができる仕組みがあちこちに存在しています。

美容・健康・ダイエット・ギャンブル・アイドル・SNS・自己啓発・やりがい搾取・情報商材・スピリチュアル、などなど。さまざまな産業がそんな欲望に狙いをさだめています。いったん欲望に火をともすことさえできればあとは勝手に利益を生み出すことができます。

さらに、それを持続可能にするシステムとして消費者金融が機能しています。闇金ウシジマくんの世界です。



うっかり欲望をもってしまったがゆえの「代償」はウシジマくんによってキッチリと回収されます。[理想の自分]から[現在の自分]へ反転する瞬間のカタルシスに向かって物語は進行します。

  

手を差しのべておいて出しぬく

そして極めつけがコレです。肥大した欲望のせいでお金を巻き上げられてスッカラカンになるだけならまだしも、「手を差しのべておいて出しぬく」裏切り行為には耐えがたいものがあります。

その昔、精神病理学では、分裂気質/シゾイド性格のひとに対してコレをやると、統合失調症を発症してしまう説が素朴に信じられていました。

でも冷静に考えれば、シゾイド性格でなくてもコレをやられたらメンタルやられることくらい誰でもわかることです。

例えば、曲がったことが大嫌いで原理原則にこだわる自閉スペクトラム症/ASDのひともたいそう深く傷つくことでしょう。

また、PTSDが長引く原因のほとんどがコレだったりします。大災害そのものよりも裏切り行為の方がひとを深く傷つけます。

依存症の原因にもなるでしょう。裏切られて傷ついてポッカリあいた穴を埋めるためです。アルコールとか薬物は、そのような経験を一時的に忘れさせてくれるからです。


まとめ

というわけで、肥大した欲望を抱いていることが他人にバレてしまうことはリスクになることがあります。ゆえに、ひきこもりのメリットその3は「欲望を他人に利用されない」です。得るものは減ってしまいますが、失うものがなくなるのでとりあえず安心です。

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