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2021年07月

芸術作品における「誇示的精密性」というシグナル


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前回からの続きです。


映像作家として、松本人志とポール・トーマス・アンダーソンには大きな差が生じてしまったのはなぜなのか、ということをニワシドリの芸術作品と進化心理学の知見を参考にしながら考えてみました。

ニワシドリは、オーストラリアやニューギニアに生息する体長20−40センチの鳥で、とても興味深い習性をもっていることが特徴です。
ニワシドリ
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

ニワシドリの<芸術>作品

ニワシドリのオスは繁殖期になるとメスを惹きつけて求愛するために、花びらや木の実・葉っぱ・昆虫の殻・ガラスやプラスチックなどなど、カラフルで光沢のあるものをせっせと拾い集めて組み合わせて、非常に手の混んだ構造物「あずまや」を作成します。

ニワシドリの作品
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

この<作品>を制作してディスプレイするためには膨大な投資がなされていて、彼らの<作品>は人間の眼から見てもきめ細やかで美しく、技巧的であるとさえ感じます。

そのクオリティーは年齢や経験が増すにつれて複雑・細密・豪華になる傾向があり、<作品>の完成度は個体の身体能力や社会的地位を反映しています。そのため、人間の手によって<作品>を豪華にすると優位なオスから襲撃を受けてしまいます。常に仲間から監視されていて、実力がないと<作品>を維持することができないようになっているのです。


また、若い未熟なオスは上位オスの作品を観察して学習するなど、「文化の継承」が行われている形跡があります。つまり、技巧的な芸術には生物学的な基盤があるという例証になっています。



「適応度標示」というシグナリング

ニワシドリに限らず、ほとんどの動物種には個体の性質や特性を他個体が知覚できるように示すなんらかのシグナルを有しています。優良な遺伝子・健康状態・社会的地位を反映する生物学的特徴を広告としてディスプレイすることは「適応度標示」と呼ばれています。

たとえば、クジャクの羽・グッピーの尾びれ・ライオンのたてがみ・ナイチンゲールの歌声、そしてニワシドリの<作品>は、個体の資質を反映するシグナルであり、仲間や配偶者を魅了したり、競合相手を牽制したり、仲間の支援を引き出したりする効果があります。

このような「適応度標示」というシグナルは、拡大解釈することによって人間の文化や消費行動に応用することが可能です。

たとえば、

  • 高級品をみせびらかす
  • 芸術的才能を発揮する
  • 専門的な知識を披露する
  • モラルの高さをアピールする
などです。人間社会においてこれらをディスプレイすることは、
お金持ちで芸術的才能や教養のあるモラリストという「優れた資質」を保有していることを知らしめるシグナルとなるわけです。

ここで問題なのは、これらのシグナルはフェイクが比較的カンタンであることです。

たとえば、
  • 高級品をムリして購入したりレンタルしたりする
  • わざわざ難解な芸術作品を収集して理解のあるフリをする
  • 読めもしない難解な書籍をドデカい本棚に並べる
  • 「親切なことをやりました」とSNSで報告する
このように、「優れた資質」は捏造することができます。
とすると、シグナルとしては信頼性できないものとなってしまうのではないでしょうか。

ところがどっこい、実力に見合わない<作品>をつくってしまったニワシドリが優位なオスから攻撃されてしまうように、シグナルを受けとる側もそうやすやすとだまされるわけではありません。「適応度標示」の捏造は厳しいチェックにさらされています。

たとえば、
  • 金銭的コストをかけただけの豪奢な装飾はかえって下品になる
  • 付け焼き刃の知識や技術を披露しても熟練者からすぐに見抜かれる
  • 首尾一貫していない言動が明らかになったとたんに偽善者と呼ばれる
「適応度標示」をうわべだけで捏造することはできたとしても、バレたときには一挙に信用を損なうという莫大なコストを背負っているため、かなり危ない橋を渡っているといえるでしょう。


誇示的精密性

進化心理学者のジェフリー・ミラーによると、芸術作品においてシグナルが価値を帯びるためには、実質的な価値のある直接的なディスプレイよりも、精神的な価値のある婉曲的なディスプレイであることが望ましいと論じています。つまり、作品の制作過程にかかる時間や注意の集中、リスク選好などの投資が評価の対象となりやすくなっています。



とりわけ「誇示的精密性」、つまり技巧が凝らされて精密にしつらえてあるかどうかが、シグナルの要素として重要であるとされています。この傾向は、20世紀モダニズム・ミニマリズム・技術フェティシズムに関連していて、エンジニアリングや効率性への選好など、自閉スペクトラム症/ASD特性に通底するものであったりします。

たとえばガラス細工の切子は、わざわざ加工しにくいガラスを採用して精密に加工することで、職人の技を見せつけています。

「誇示的精密性」が価値を持つがゆえに、本来の機能そっちのけで精密さを競うようになります。たとえば、今では安価で性能の良い電波時計が流通しているにも関わらず、職人がわざわざ手作業で制作した複雑な機械式時計が高値で取引されていたりします。
patekphilippe

また、最近完結した劇場版エヴァンゲリオン・シリーズでは、ストーリーとはそれほど関係のない機械設備の緻密な描写がこれでもかと繰り返されて圧倒されます。庵野秀明監督はじめ製作者たちが精密性に対して並々ならぬこだわりがあることを感じることができます。


とりわけ、最新作のシン・エヴァンゲリオンでは、各カットの画面構成を絵コンテではなくCGによって行うプリヴィズ Previsualizationという手法を用いたり、生身の役者に演技をさせてモーションキャプチャーを活用したりと、実写よりもリアルで細密なアニメーションを実現するために、通常のアニメ制作よりも莫大な投資をしています。その結果、映像作品の完成度は極めて高く興行的にも大成功をおさめています。

つまり、「誇示的精密性」というシグナリングは芸術作品において非常に重要であることがわかります。

さて、前回の記事で紹介したように、ポール・トーマス・アンダーソンと松本人志の映画作品には、“発達障害的シグナリング”という共通点があるものの、残念ながら松本人志の映画作品には「誇示的精密性」は感じられません。その点において、両者の間には埋められることのない差異が生じています。

というわけで次回は、ポール・トーマス・アンダーソンの映画作品における“発達障害的シグナリング”と「誇示的精密性」の関係についてまとめていきます。


松本人志とポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害シグナリング”


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前回の続きです。

今や最も注目を集める精神疾患である「発達障害」の特性は“発達障害的シグナリング”として、映像作品においてディスプレイされることで視聴者に強烈なインパクトを与えます。



そのような“発達障害的シグナリング”が満載な映像作品をつくりあげるふたりの映像作家を取り上げてみます。松本人志とポール・トーマス・アンダーソンです。


松本人志の映像作品における“発達障害的シグナリング”

松本人志は今やゴールデンタイムのバラエティ番組やワイドショーの顔になっていますが、かつては「わけのわからない人物」が登場する不条理なコントやマニアックな番組を制作していました。たとえば、松本人志の映像作品「働くおっさん人形」「働くおっさん劇場」では、発達障害らしき特性をもったおじさんたちが登場します。

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なかでも断トツで印象的なキャラクターである野見隆明さんは、俳優として映画「さや侍」の主役に抜擢されます。

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彼のたたずまいや演技(?)はとても味わい深く、笑いだけでなく哀愁や感動すら喚起させます。発達障害の特性は、良くも悪くも強烈な印象を与えるので、お笑い芸人のキッチュな一発芸から芸術作品まで幅広く応用されているのかもしれません。


ポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害的シグナリング”

一方、映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの作品にも発達障害的な人物が数多く登場し、その特異な行動様式をまざまざと見せつけられます。



たとえば、映画「ブギー・ナイツ」では、わざわざ劇中劇において、あえてコント風のチープかつマヌケな映像を挿入していたりします。この方向を先鋭化させていけば、キッチュなおバカ映画として終わってしまう可能性があったかもしれないくらい、際どいことをやっています。

松本人志とポール・トーマス・アンダーソンは、まだ発達障害の概念が定着していない1990年代から“発達障害的シグナリング”をいち早く作品に取り入れてきた映像作家として注目しています。両者には作風における共通点があるし、かなり近いところにいたのではないかと思われます。

そのためか、松本人志はポール・トーマス・アンダーソンに対して敵対心を燃やしているようで、監督作品「パンチドランク・ラブ」を酷評しています。
結局、(ポール・トーマス・アンダーソンは)映画監督として基礎ができてないんじゃないかと思うんですね。たとえばピカソは、一見グチャグチャの絵を描いているように見えますけど、本当はちゃんとした絵を描ける力があって、それをあえて崩して、下手に見える絵を描いている。なのに、この監督は、その基礎がわからずに、下手な部分だけを真似してるから、つじつまがあわなくてグチャグチャなんですよ。遊んだ映画をつくりたいのなら、もっとちゃんとした映画を何本か撮ってから、その上で遊びなさい、と言いたい。( ~中略~) この監督の映画は要注意です。ブラックリスト入りですね。こいつの映画は今後見ないほうがいいです。
松本人志「シネマ坊主2」
シネマ坊主2
松本 人志
日経BP出版センター
2005-06-23


もはや近親憎悪としかいいようがありません。これは2005年の記事ですが、その後もふたりはそれぞれ映画制作を続けます。

その結果はご存知の通り、松本人志の映画作品はどれもこれも全く評価されませんでした。一方で、ポール・トーマス・アンダーソンは2007年の映画作品「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で新境地を切り開き、数々の映画賞を受賞して高く評価され、興行的にも大成功をおさめます。

なにが両者の命運をわけたのでしょうか?なぜ、ポール・トーマス・アンダーソンは、“発達障害的シグナリング”を芸術の域に高めることができたのでしょうか?

次回、「誇示的精密性」という観点から説明してみようと思います。


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