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前回からの続きです。


精神疾患という“シグナリング”

経済学のシグナリング理論によると、情報をもっている側が情報をもたない側に向けて、情報を開示することを“シグナリング”といいます。その観点から精神疾患、とりわけ発達障害をながめてみようという話です。

精神疾患をもっていることをディスプレイすることは人々の注目をひきつけるシグナリングになります。たとえば、健常者が活躍する姿をみてもたいして感動しませんが、精神疾患というハンディキャップを背負いながらもそれを克服して活躍するひとの姿はとても感動的で応援したくなってしまいます。これは、シグナリング効果のひとつといえるでしょう。

では、どの精神疾患をディスプレイすることが最も効果的なシグナリングになるでしょうか?

ひと昔前なら間違いなく分裂病(統合失調症)でしょう。1970年代は分裂病中心主義の時代で、分裂病は「人間の本質を示す特権的な狂気」として祀り上げられ、臨床と人文知の共通言語となり、芸術方面にも影響を及ぼしていたようです。

たとえば、斎藤環はデヴィッド・リンチの映画作品について、統合失調症の病理とからめて次のように論じています。
そこで起こることは,疑似フレームの増殖と相互浸透といった事態にほかならない。本来ならメタレベルがありえない象徴界が複数化=メタ化されることで,想像界のレイヤー構造が壊乱されてしまうこと。ありえないはずの「メタ言語」を獲得するとき,われわれの想像からはメタレベルが奪われ,かわりに幻覚的なリアリティを獲得しはじめるのだ。これこそが統合失調症的事態といわずして何と呼ぶべきだろうか。

斎藤環:デヴィッド・リンチ──強度の技法.日本病跡学雑誌(90),p.7-14,2015.
まったくもって理解不能であるものの「なんかすごそう」という感じで、やたらと強力なシグナリングであることだけは理解できます。かつて、分裂病/統合失調症の病理を難解な用語で語るひとが尊敬を集めていた時代があったわけです。



統合失調症から発達障害へ

さて、このようなトレンドは2003年にターニングポイントをむかえます。分裂病は「統合失調症」というキャッチーな病名に変更されたことを皮切りとして、内海の「分裂病の消滅」が出版され、発達障害者支援法が施行されて「発達障害」が障害として認定され、関心を集めるようになりました。



以降、発達障害の関連書籍が市場を席巻し、2018年には発達障害の精神病理シリーズが創刊され、今や発達障害は精神病理学の中心課題となりつつあります。健常者が書いた本よりも発達障害をもつ当事者が書いた本が売れたり、精神科医はこぞって発達障害の本を書くようになったので、めっきり統合失調症の本が話題にのぼることがなくなりました。

Google Trendsによると「統合失調症」と「発達障害」のインターネット検索数は、2010年には完全に逆転し、「発達障害」の検索数が上回るトレンドが続いて両者の差は拡大しています。


発達障害という“シグナリング”

ヴィトゲンシュタインやニコラ・テスラなど歴史的偉人、イーロン・マスクやピーター・ティールなどテック長者、シャーロック・ホームズやグレゴリー・ハウスなどTV・映画の主人公にいたるまで、発達障害の特性をもっている著名人は今や枚挙にいとまがありません。

また、ライアン・ゴズリング、ジム・キャリー、米津玄師、勝間和代など、自らの発達障害を積極的にカミングアウトする著名人が近年増加しています。発達障害の特性をもつことは、一般的には社会適応を困難とするハンディキャップであるからこそ、それを乗り越えて活躍することに大きな価値が生じています。ゆえに、シグナリングの価値を高めるコストとして非常に効果的であることが示されているのです。

また、発達障害の支援事業を展開している企業が東証一部上場を果たしたり、発達障害研究の権威が開業したクリニックで超高額自由診療がなされていたりと、発達障害の市場価値はインフレーションを起こしています。エラい先生に発達障害の診断をしてもらうためだけに33万円を支払うひとがいるのだから驚愕です。発達障害研究の権威は現代の預言者あるいはシャーマンにでもなってしまったのでしょうか。

ともかく、今や最も注目を集める精神疾患である発達障害が、最も効果的なハンディキャップ・コストに他ならず、“発達障害的シグナリング”の価値は高騰しているといえるのです。

次回は、映画作品における中心気質的/発達障害的シグナリングについてまとめていきます。