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2021年05月

学校の利用価値を考える


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これまでさんざん学校の問題点を指摘してきましたが、今回はそれでも学校の利用価値は断然高いですよ、という話をします。ぼくの考える学校の利用価値は以下のとおりです。
  • 圧倒的にリソースが豊富である
  • 動物的なスキルを学ぶことができる
  • 社会性を身につけることができる
  • 社会で生きぬくためのチュートリアル/リハーサルができる

圧倒的にリソースが豊富な学校

学校の利用価値が高いと考える最初の理由は、学校には大量のヒト・モノ・カネが投入されていて圧倒的にリソースが豊富であることです。国がみとめる資格をもった教師が毎日数時間も勉強を教えてくれたり、設備や教材を無料で提供してくれるような場所は他には見当たりません。学校を利用しないことは大きな損失であり、子どもにとって非常に不利な選択であることは間違いありません。

とはいえ、学校にはまだまだシステム上の問題点が多いとはいえ、昔よりはかなり改善されていることも確かです。仕事上、学校へ出向いたり学校の先生方と情報交換することがありますが、みなさん子どもに対する心配りが細やかで、教師の質はかなり向上しているようだし、教材もかなり工夫されて読みやすくなっているし、設備も進歩しています。今後もきっと、少しずつ改善されていくのではないかと期待しています。

そしてなによりも、圧倒的な人数の子どもたちが過ごす場所であることが重要です。子どもがたくさん集まっていること自体が(さまざまな問題の原因であると同時に)とても貴重な環境であるからです。以下、その理由について説明します。


動物的なスキルを学んで社会化される場所

というのも、そもそも学校は勉強を教わるだけの場所ではありません。勉強を教わるだけなら塾の先生の方が優秀だし断然効率がよいでしょう。

どちらかというと、学校は学問よりも動物的なスキルを学ぶ場所として重要です。とりあえず子どもの数が多いので子ども同士で、好きになったり・嫌いになったり、仲良くなったり・協力したり、ケンカしたり・仲直りしたり、いじめたり・いじめられたり、恋愛したり・フラれたり、などなど、さまざまな経験を積むことができます。

オトナが相手だとそのような経験を積むことはできません。どうしてもオトナは子どもに対して手加減をするし、基本的には子どもを保護してしまうものだからです。

一方、子ども同士の交流はガチンコのぶつかり合いです。もちろんトラブルも頻発しますが、それを自分たちだけで知恵をしぼって乗り越えるプロセスこそが貴重な経験となります。そんな経験を通じて、お互いの妥協点を見つけて利害を調整することを学び、社会性が培われていきます。

アメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、子どもはオトナに導かれるのではなくて、子ども同士の集団でもまれながら社会化されていく「集団社会化説」を提唱しています。


児童精神科の領域でも「子どもに対してオトナがどのように接するべきか」が盛んに論じられているばかりで、よく見落とされがちな視点です。もちろんそれも大切かもしれませんが、最も重要なのは「子ども同士の交流が生まれる環境というか生態系をオトナがいかに設定できるか」なわけです。

子どもは子ども同士の交流を通じて成長しているのにも関わらず、児童支援の専門家であるオトナが子どもを導いてあげたおかげで成長したんだ、治療やら療育のおかげなのだ、と錯覚しているひとってめちゃくちゃ多いんですよね。

最後にもう一点。


チュートリアル/リハーサルとしての学校

成人して社会に出てからが「本番」だとすると、学校は基本的なマニュアルやルールを学ぶ「チュートリアル」あるいは「リハーサル」の期間です。ちなみに人間のチュートリアルはやたらと長いんですよね。

本番が始まる前に、理不尽だったり悲しかったり辛かったりする経験も含めて、ひと通りさまざまな経験をしておいた方が有利です。社会に出てからひどい目にあっても立ち直りが早くなるからです。一般的に、中高年になってはじめて挫折するひとが立ち直るのはけっこう難しいのですが、子どもは成長していくぶん挫折からの立ち直りが圧倒的に早かったりします。

ちょうど、病原菌に対するワクチンのようなもので、悪いものの一部を体内に取り込んで抵抗力をつける必要があります。

もちろん、ひどい目にあった子どもには手当てが必要であることは言うまでもありませんし、そのためのシステムを学校は準備しているので積極的に活用すべきです。危機的な状態からリカバリーするまでのプロセスを注意深くサポートするのは当然ですが、ひどい目にあうリスクをゼロにするために貴重なチャンスを根こそぎ奪わないようにした方がよいでしょう。

学校なんて必要ないし、別の手段がある、と考える前に、ちょっと立ち止まって学校の利用価値を検討してみるのもよいかもしれない、と思う今日このごろです。

学校という不可能な場所


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前回は学校の「聖性」とか「実利性」など存在価値が低下している、という話をしました。今回は、学校の「不可能性」についてまとめました。


学校という不可能な場所

統計的にみると、日本は諸外国にくらべてあまり学校にコストをかけていないようにみえます。新興国なみにひとクラスあたりの生徒数が多くて過密になっていて驚きます。

日本の学校は生徒数が多すぎる1

日本の学校は生徒数がやたらと多い

Twitter @tmaita77 舞田敏彦


そもそも、ひとりの担任教師が大人数のクラスで生徒ひとりひとりを把握して指導することなんて無理があります。できる、と思い込んでいるのが大きな勘違いのような。

学校が聖なる場所でも、役に立つ場所でもなくなった今、「聖性」や「実利性」の次は「不可能性」なんじゃないかなと。あるいは、もともと不可能だったことが明らかになってきたように思えます。

フィクションの世界では不可能が可能になっていたりします。たとえば、暗殺教室という漫画では、「殺せんせー」というナゾの生命体が無尽蔵な知識とマッハ20の超高速で移動できる運動能力を駆使してクラスの生徒全員にパーフェクトな教育を施していきます。








また、TVドラマ「女王の教室」では、パーフェクトな教師になろうとしてボロボロになりながら苦闘した結果、ダークサイドへ堕ちていく教師が描かれています。








さらに近年では、発達障害をもつ子どもに対して合理的配慮が求められるようになっているので、普通クラスの担任教師は多数の生徒をまとめつつ、少数の生徒に対する配慮を同時に求められるようになっているので、ますます負荷が増えています。うまいこと特別支援コーディネーターやスクールカウンセラーと連携できればいいのでしょうが、現実にはなかなか難しいようで担任教師が丸抱えしていて苦労されているケースがみられます。


学校は不登校を前提に成立している

子どもは自分と似たような特徴のある子どもと仲良くなって自然に集団をつくります。社会的動物である以上、そのような習性があります。そうすると、仲間と敵を区別する境界が必要になるので、「オレたちは同じだよね」「ヤツらとは違うよね」という確認行動を繰り返すようになります。

その際に、少数派の異端者/敵が存在することによって多数派の団結が強まることがあります。学校はしばしば、多数派の子どもにとっては居心地の良い場所だけど、少数派の子どもにとっては嫌な場所になってしまいます。

残念ながら、ヒトには他グループのメンバーに対して「心の理論」を鈍らせて、非人間化してしまう特性が備わっていることを社会心理学が明らかにしています。

しかも、子どもたちの世界には、教師やスクールカウンセラーはもちろんのこと、親でさえ介入することはしばしば困難となります。

子どもをもったことのあるひとはみんなご存知だと思われますが、子どもはびっくりするくらい親の言うことをききません。これは、基本的に子どもはオトナよりも同世代の魅力的な子どもに惹かれて従う習性があるからです。

いくらオトナが子どものことを理解している風を装って若づくりしてみたり、したり顔でスリ寄ってみても逆に気味悪がられるだけです。子どもから見るとダサいおっさん・おばはんなわけで、同世代のイケてる子どもたちの影響力には到底かないません。

というわけで、いったん子ども集団/学級における自分のポジションが悪化してしまうと、つらい状況がいつまでも継続してしまうことになりがちです。

しかも、家に帰ってネットにつながれば、いくらでも心地よい居場所が提供されていたりするので、ますます学校へ行く必要がなくなってしまいます。

したがって、数%の生徒が不登校を選択するのは今や当然の帰結であると考えられます。これは、不登校になってしまう子ども個人の問題というよりも、学校というシステムのエラーなわけです。

というわけで、さんざん学校の問題点を指摘してきましたが、次回は学校の利用価値はまだまだ高いですよ、という話をしようと思います。


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