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2021年04月

あらためて学校の存在価値を考えてみる


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某不登校youtuberが「中学校に行かない宣言」をして話題になっているので、不登校のお子さんをサポートする立場から、あらためて学校について考えをまとめてみました。

よく指摘されているように、学校というシステムにはさまざまな矛盾や欠陥があるのは事実です。ぼく自身もド田舎の公立中学校でめちゃくちゃ体罰を受けていて、殴られて鼻血が出るのは日常茶飯事で、鼓膜が破れたこともあったりして苦い思い出があります。なぜ自分よりアタマの悪い教師に勉強を教わらないといけないのだろうかと疑問を感じていたので、教師たちのほとんどをバカにしていて態度が悪かったので殴られても仕方がないし、殴られ慣れたおかげで度胸がついたから個人的には良い面もあったのかなと思ったりもしますが、それはともかく。

だからといって学校へ行かなくてもフリースクールやホームスクーリングでええやん、という話は極端すぎます。まるで、「蜂の巣を破壊したら蜂は自由になるからハッピーやん!」みたいなアタマの悪さを感じてしまいます。

というわけで、学校の歴史をひもときながら、学校というシステムの功罪について考えてみました。


学校 ≒ 軍隊説!?

某不登校youtuberによると、学校に行く価値がないのは「学校にいる子どもたちがロボットみたい」だからだということでした。まるで軍隊のような一律の教育がなされているという、学校への批判としてよくあるパターンです。

そもそも、国民を兵士にして軍隊をつくるためには義務教育が必須です。字を読めなかったり、集団行動ができなかったり、命令に従わない兵士に武器を渡すことなんて到底できません。それこそ、ロボットのようにちゃんと命令どおり動いてくれないと困ります。

なので、学校システムは軍隊をつくるためには必要不可欠だったわけだし、軍隊のシステムを模倣してつくられていていたのは常識でしょう。

ただしWW2以降、諸外国は次々と方針転換をしているようですが、なぜか日本は戦後もなお軍隊っぽい教育の痕跡が色濃く残っているようです。たしかに、小学生のときに炎天下のなか半日かけてひたすら行進の練習をさせられたことは不条理としかいいようがありませんが、兵士としては必要だったんだなと納得することができます。

というわけで、“日本の学校は今も「徴兵訓練」をやっている” という過激なコラムがあります。


それによると、
  • 学年は中隊、クラスは小隊、班は分隊、遠足は行軍演習?
  • 号令・朝礼・掃除・給仕・行進など、集団行動の徹底?
  • 校舎は兵舎?ランドセルは西洋式軍用背嚢から派生?

ランドセルは軍隊の装備かも説
とまあ、少々突飛で妄想的なのでは?という内容ではありますが、実感としては一理あるかも、と感じてしまいます。

「神聖な場所」としての学校

最近はそうでもないみたいですが、学校の教科書や通知表・卒業文集や卒業アルバムをなんとなく捨てられないひとが多いようです。これは墓石を蹴り倒すことができないのと同じように、ただの紙切れとか石ではなく宗教的な意味あいのある聖なるモノだからです。

その昔、学校は「聖なる場所」でした。教師はまるで聖職者のように畏敬の念を抱かれる存在であり、不登校なんてとんでもない背信行為であるとされていたわけです。
聖職者
たとえば、聖職者と同様に教師は性犯罪を起こす確率が一般人口よりも高いことが知られています。これは、子どもと濃密に接することが多いサービス業である以上、ある程度は仕方のないことではあるのですが、建前上聖職者たちは決して間違ったことをするハズがないし、あってはならないことになっています。

その他、体罰・いじめ・自殺・不正・事故などなど学校にまつわる不都合な真実はたくさんあるものの、聖なる場所だからオールオッケーということになっていました。現在はあばかれて可視化されるようになっていますが、聖性には矛盾をおおいかくす力があったわけです。


学校の黄金時代/学校の実利性

1947年の学校教育法公布によって中学校が義務化され、もう戦争は終わってしまったのに軍隊っぽい教育が徹底されていました。やがて高度経済成長期をむかえ、そのような教育を受けた若者たちが農村から都市部へ大量に流入していきます。

軍隊っぽい教育を受けた子どもたちは兵士になることはなかったものの、大量の工場労働者になっていくわけです。
労働者
そして、学校教育によって鍛えられた知識・勤勉さ・従順さ・協調性などは、立派な工場労働者になるためにはとても重要なスキルとして役に立ったことでしょう。何も持たざる若者にとっては唯一の武器となったのかもしれません。

しかも、当時の労働市場は新卒一括採用・年功序列・終身雇用というルールなので、実質的な能力以上に従順さや協調性によってリターンを最大化させることできたわけです。

つまり、学校の聖性は実利性へとスライドしていきました。ちょっと時代遅れの軍隊っぽい教育が高度経済成長期を支えてくれたのでラッキーだった、といっても過言ではないかもしれません。

実際に、1970sは日本史上不登校が最も少なかった時代で、まさに学校は黄金時代をむかえていたわけです。

もちろん、ぼくも経験したように、この当時の学校では体罰はあたりまえで、いじめや事故も今よりずっと多かったことでしょう。ブラック企業もあたりまえだったわけですが、とにかく儲かっていたのでオールオッケーだったわけです。豊かさにはさまざまな矛盾をおおいかくす力があるからです。


学校の実利性とその衰退

ところが、やがて高度経済成長は終焉をむかえ、高度消費社会・情報化社会への変化がはじまります。サービス産業が台頭し、いかに顧客のニーズをキャッチして臨機応変かつ柔軟に立ち回るか、が重視されるようになります。このへんのスキルは学校では教えてくれないので、社会から要求されるスキルと学校で学ぶスキルとの乖離が大きくなっていきます。

学校の聖性だけでなく、学校の実利性がともに衰退していくにつれ、隠蔽されていた矛盾が次々とあばかれるようになりました。そして、「学校に行く意味あるの?」と考えるひとの割合が増えていきます。実際に、1980sから不登校が急増していくわけです。
燃え尽きた社畜
そして、1990sバブル崩壊以降、社会のルールは決定的に変わっていきます。従順さと協調性でひたすら会社に尽くしていてもリターンが得られずに報われなくなったので、「ブラック企業」が流行語になったり、かつて会社に奉公していた企業戦士たちは「社畜」と呼ばれてバカにされるようになったり、「うつ病」が労災認定されて損害賠償請求されるようになりました。
聖性も実利性ともに失ってしまった学校にはもはや存在価値がないということで、いじめや体罰など悪の温床である学校を解体せよ!という過激な学校解体論までが出てくる始末です。

学校解体論を唱えるひとたちを観察してみると、純粋でナイーブな研究者が多いようで、極端な理想論にしがみついているようにみえるし、実務経験の不足も相まって、あまり現実がみえていないように感じてしまいます。学校さえなくなれば、さまざまな矛盾や暴力が解決すると本気で考えているのでしょうか?

ともかく、そのような理想論は某youtuberが支持される土壌になってしまうし、そこで発せられる極端なメッセージは多くのひとには有害となり得ることを自覚した方がよいでしょう。

というわけで次回は、学校の「聖性」とか「実利性」など存在価値が下がったらどうのるのか、考えてみようと思います。


心理社会的サポートのやっかいな問題


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前回は心理社会的資源は見えにくいがゆえにサポートされにくい、という話をしました。


今回は、心理社会的資源が欠乏している「メンタルヘルスが悪化して孤立しているひと」はかわいそうだからサポートしてあげなくっちゃ!ってことなんですが、ここには大きな落とし穴がポッカリあいている、という話をまとめていきます。

心理社会的サポートは無力感を高める

「排斥と受容の行動科学」という書籍に興味深い実験が紹介されています。

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)




ニューヨークの大学生を対象として、人前でスピーチをするためのアドバイスを受けた後の心理状態がどう変化したかを調べる実験です。

サポートは無力感を高める

「〇〇したらいいよ」と、あからさまでわかりやすいストレートなサポートを受けたひとは無力感にさいなまれて大きな心理的苦痛を感じていました。なんとサポートが無いひとよりも心理状態が悪化したのです。

一方、「あなたは問題ないけど、〇〇するというやり方が良いみたいだよ」という、すこしわかりにくい間接的なサポートを受けたひとはあまり無力感にさいなまれることはありませんでしたが、サポートを受けないひとと大差のない心理状態のままでした。

いわゆる「わかりやすい・あからさまなサポート」はマウンティングみたいなもので、サポートを受ける側の無力感を高めてしまうようです。

そして、サポートを受ける前よりも心理状態が改善したのは、「あなたには問題はないけど、わたしには〇〇するというやり方が必要かもしれません」という遠回しでまわりくどくてめちゃくちゃ間接的なサポートを受けたときでした。自分を下げて相手を上げる、みたいな手法ですね。

ところが問題は、この手法をとることでサポートを受けたひとの心理状態は改善したものの、逆にサポートする側のひとが無力感にさいなまれて心理状態が悪化してしまったのです。


自尊心のトレードオフ

本当に誠実な対人援助職のひとはパッとしない影のある不幸そうなひとが多いという話をしましたが、それが実証されているみたいです。


実際、精神科クリニックには対人援助職のひとがたくさん受診されています。なにかしら心にスキマを抱えているひとが多いのかもしれません。

ひねくれた見方ですが、本来はとても過酷な仕事であるにもかかわらず心理カウンセラーなどの対人援助職がしばしば人気になりがちなのは、サポートが必要なひとにマウンティングすることで手っ取り早く自尊心を高めたいという欲求があるからかもしれません。

これは、SNSで尊敬を集めるキラキラしたひとの姿を目にすることで自分の自尊心が低下してメンタルヘルスが悪化してしまうことや、世間から非難されて尊敬を失ったひとを寄ってたかって攻撃して炎上させることで自分の自尊心を少しでも回復させようとする行為に通じるかもしれません。「ひとの不幸は蜜の味」ということでしょうか。

そうすると、自尊心にはトレードオフがあって、自尊心の総量というパイはあらかじめ決まっていて、それをどのように配分していくかの問題のように見えてきます。


支援者を支援すること

実際に、患者さんを直接サポートするよりも、患者さんの支援者をサポートすることで、結果的に患者さんが回復することは臨床現場ではめずらしくありません。

わかりやすい例でいうと、子どものメンタルヘルスの問題が起こったときに、まず最前線でがんばっている母親に負担が集中して疲弊していきます。そうすると、余裕のなくなった母親が感情的になって子どもに対して押しつけがましいサポートを繰り返すようになるので、ますます状況が悪化してしまう悪循環が生じてしまいます。

こんなとき、父親が母親と一緒になって子どもに対して感情的になってしまうと、もう目も当てられない悲惨な状況になりがちです。

なので、父親は子どもから一歩距離をとって、母親をサポートする側にまわってバックアップに徹することで、母親に心理的余裕が生じて状況が好転することが多かったりします。父親は思春期の子どもにはたいして役に立たないと思われがちですが、意外と鍵を握っている存在のようです。

というわけで、情熱的に手厚くサポートされているのになぜか状況が全然改善しないケースは、サポートをする側のひとをサポートするところから始めてみる必要があると思う今日この頃です。

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