ADHD的な映画『ザ・マスター』
唐突ですが映画『ザ・マスター』を紹介します。僕が大好きな映画監督のひとりであるポール・トーマス・アンダーソンの作品です。ADHD的な監督がADHD的な主人公をすえてADHD的な構成になっているADHD的な映画だと思うわけです。
ADHD的な主人公
主人公はおそらくは療育されずに成人したADHDをもったひとで、これでもかというくらいの無法者です。序盤から自らの欲望を制御できずに暴走を続けます。元は海軍の兵士で、軍の中にいたころはナントカなってたんでしょうが、退役後はいたるところでトラブルが絶えず、やがて社会に適応することがままならなくなります。そしてある時、たまたまカルト教団の教祖と出会うところから物語は展開します。主人公は教団のメソッドに傾倒し、カルト特有の擬似家族的な雰囲気の中に自分の居場所を見い出していきます。
というわけで、基本的には『それがどうした?』っていうめちゃくちゃどうでもいい個人的な物語にスポット当てちゃってます。
ADHD的な構成
ですが!あまりにも瑣末で個人的なエピソードがあまりにも美しく荘厳に撮影されていて、とても印象的なシーンの連続に仕上がっているので、ついつい各シーンがとても重要な意味をはらんでるのではないかと勘ぐってしまうのですが、そこには大した意味なんてなくてただ圧倒的な映像の強度だけが存在します。加えて、アドリブでいろいろ試していたらたまたまグッとくる映像が撮れたんで使っちゃいました感が満載で、各シーン前後の脈絡がゆるかったりするのも印象的です。
まとめると、いたって個人的なエピソードを圧巻の映像美で無造作に並べた映画なので、終わってみると『これは一体なんなんだ』感がハンパないのです。
過去の監督作品である『マグノリア』などは、複数の物語が並行して展開し、ラストシーンに向かって全てが収束していくという綿密に計算された構造だったのですが、問題作『 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降、明らかに違う次元の映画を撮るようになっています。
ADHD的な監督
この変遷は、監督自身のADHD的な認知行動特性が主人公への投影のみならず、作品自体にもに反映され始めたことによるものかもしれません。ADHD的な認知行動特性とは、本人が『今ここにある報酬』を何よりも優先してしまう結果、実行機能や時間感覚がまとまりがなくなっているように観察される、というものです。映画における『今ここにある報酬』とは『映像の強度』であって、それが何よりも優先された演出や編集がなされることによって『時間感覚』や映画における『実行機能』すなわち『物語の整合性やメッセージ性』に独特のひずみが生じています。
とはいえ、映画全体に通底するメッセージ性みたいなものは、うっすらと感じとることができます。
障害をもって社会から排除された無法者が、カルト教団に包摂されてメソッドを学び自分の居場所を獲得し、めでたしめでたしで終わる話ではありません。主人公は教団と決別し、ゆきずりの女性にメソッドを試したけど全然効果ねえよ!って、ふたりでそれを笑い飛ばすシーンで物語は終焉していきます。
マスターとは誰のこと?
当然のことながら誰もが題名の『マスター』はカルト教団の教祖を指していると考えるでしょうが、不思議と教祖を『マスター』と呼ぶことは最後までありませんでした。それどころか、教祖は妻にあらゆる欲望を厳格に管理されている憐れな存在であることが次第に明らかになっていきます。では、『マスター』とは一体何者なのか。
もしかすると、この映画は主人公が自らの欲望を制御することを『マスター』するまでのお話なのかもしれません。主人公のどうしようもない狼藉を執拗に撮影することで、ともすれば人間を突き放しているようにもみえるのですが、最終的には人間の自立と成長を否定していないところがそこはかとなく感動を呼ぶのだと思いました。