『精神医学の実在と虚構』を読んで診断について久しぶりに考えてみた


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『精神医学の実在と虚構』というすごく重厚なタイトルの本ですが、読んでみてとてもおもしろかったので少し紹介します。

精神医学の実在と虚構
村井俊哉
2014-03-20


京都大学医学部精神科教授の村井俊哉先生の著作です。以前から村井先生の著作や翻訳の読者だったのですが、カプグラ症候群の患者さんを診察する機会があって調べていたらたまたまこの本に出会いました。

若かりし頃の論文を紹介しながら展開するという異色のスタイルです。研修医時代に自分が持っていた問題意識と重なる部分があったりして興味深く読みました。当時出版されていたらもっと問題が整理できていたのにと悔やみながら。

キーワードは『固有名』『確定記述』です。


固有名と確定記述

例えば、ここにあの『大泉洋』がいるとします。
大泉洋

『固有名』とは『大泉洋』

『確定記述』とは

日本の俳優、シンガーソングライター、マルチタレント。
CREATIVE OFFICE CUE(業務提携先はアミューズ)、演劇ユニットTEAM NACS、及び劇団イナダ組所属。
身長178cm。北海学園大学経済学部卒業。北海道江別市出身。
(Wikipedia)

日常的には、ある人物を特定するためにいちいち確定記述を参照して査定するのではなく、名前と顔をみて固有名=『大泉洋』であると即座に特定しています。 

カプグラ症候群とは、確定記述的には全く同じ人物であると認めているのにも関わらず、「あれは『大泉洋』ではなく別人だ」と確信するという、とても不思議な精神症状です。

確定記述と固有名が指し示すものは同じなのでしょうか?どうやら同じではないみたいです。

その理由として、、、僕たちはフィクションにおいて同じ固有名の人物をいともカンタンに別の確定記述で置き換えることができたりします。例えば、『実は外国人である大泉洋』『実は女である大泉洋』あるいはよくあるパラレルワールドものでの『別の世界から来た大泉洋』。

いくら確定記述をいじっても固有名が同じであれば別人であるとは考えられなくなってしまいます。

あるいは『大泉洋』と似たようなスペックの若い男性は複数いるでしょうが、あそこまで脚光を浴びたのは彼が『大泉洋』だからなわけです。

というわけで、固有名が指し示すのは確定記述では汲みつくせない何か『本質』のようなものではないかと。


固有名の性質は一般名詞にも通じる

自然種の場合は一般名詞でも固有名の不思議な性質が与えられます。

たとえば外見は虎そっくりだけど内部構造が全く違う爬虫類が発見されたとします。すると、その生物の呼称は『虎』ではなく『虎モドキ』とかになるでしょう。

というわけで、固有名は見えなくて記述しきれない内部構造・種・本質なんかを指し示すのではないか説をクリプキという哲学者が考えていたみたいです。 


伝統的診断と固有名

さて、『統合失調症』や『うつ病』など精神科の病名も自然種のようなものだし、内科や外科の病名よりも実体がみえにくいぶん、固有名の性質を強く帯びるようになります。

また、精神科の病名がどのように伝達されるかというと、先輩が後輩を患者さんのところへ連れて行って「これが『うつ病』だよ」と紹介します。これはまさに知らない人を紹介するやり方であって固有名の伝達方法そのものなわけです。

伝統的な精神科診断はとても固有名的なものだと言えます。 研修医時代、ベテランの先生が患者さんを指して「あれが『統合失調症』だよ」「あれが『うつ病』だよ」と固有名をポンっとあげて、主観的にとてもザックリと説明してくれるだけで、確定記述的にはあまり説明してくれなかったりしました。

極端な話、「父親が統合失調症なんだからあの子も統合失調症なんじゃないの?父親と同じ薬つかってみよう!」みたいなノリもしばしば。それはそれでけっこう当たってたりするんですが、ひねくれ者だった僕は「ホントかな?」と疑問を抱くことが多々ありました。

あるいは、ケースカンファレンスで診断が統合失調症かどうかが議論になった際、別の病名である可能性を提示してその根拠をいくら積み上げてみても、雰囲気のあるベテラン精神科医がひと言「この子は統合失調症やったんやなぁ〜」と姜尚中バリの甘いヴォイスでささやくだけで議論がひっくり返って終了してしまうことがあったりしました。あの先生が言うのだからまぁ間違いないし、君はまだまだ青いなぁと、あぁそうですかと。


操作的診断と確定記述

一方で、確定記述的な精神科診断法も存在します。操作的診断と呼ばれるものです。

例えば、アメリカ精神医学会から出版されているマニュアル『DSM』

うつ病の診断基準(DSM-Ⅳ)

以下の症状のうち、少なくとも1つある。
1.抑うつ気分
2.興味または喜びの喪失
さらに、以下の症状を併せて、合計で5つ以上が認められる。
3.食欲の減退あるいは増加、体重の減少あるいは増加
4.不眠あるいは睡眠過多
5.精神運動性の焦燥または制止(沈滞)
6.易疲労感または気力の減退
7.無価値感または過剰(不適切)な罪責感
8.思考力や集中力の減退または決断困難
9.死についての反復思考、自殺念慮、自殺企図
 
羅列された症状の記述、何個中何個当てはまればOKというデジタル感。 まさに確定記述です。


ふたつの診断方法について

というわけで、精神科の診断方法には伝統的かつ固有名的な診断と操作的かつ確定記述的な診断のふたつがあるわけです。

その昔はDSMを使ってプレゼンしようものならご高齢の先生からブチ切れられたものです。 なんでそこまで発作的に憤怒するのか当時はワケがわからなかったのですが、おそらく伝統的診断を信奉する彼にとって、まるっきり異文化の操作的診断は『本質』を捉えておらず、とうてい受け入れられなかったのかもしれません。 

余談ですが逆に、伝統的診断でプレゼンして中堅どころの先生(某市民病院精神科部長)にブチ切れられて「コレ読んどけ!」ってDSMの本を投げつけられたこともありました。 若造のくせに『本質』を捉えた気になってるんじゃねー、ちゃんと記述しとけってことです。どっちやねんと。


伝統的診断に対するアンビバレンツ

これまで正しいと思われていたことがどうやら嘘くせえぞと考えがちな団塊ジュニアの特徴でしょうか、僕と同世代の精神科医たちはエライ先生の伝統的診断は嘘くさいと考えることがありました。

それと同時に、なにかしら伝統的診断のワケのわからない魅力もうっすら感じとっていたわけで、操作的診断を祭り上げることもできない中途半端な状態にいたように思います。

伝統的診断の魅力はなんといってもその速度にあります。患者さんをひと目みるだけで直観的に診断して治療方針を組み立てるのはまさに名人芸です。

一方、操作的診断は面倒くさくて時間がかかってしまうので日常業務中には実施が困難だったりします。実際は両者をその都度併用することになっていたりすることが多いのかもしれません。 

村井先生は若い頃から、伝統的診断を絶対的に礼賛するでも批判するでもなく、かといって両者を安易に折衷するでもなく、ちゃんと相対化して分析の対象にしていたところがスゴイなあと思うわけです。


方法論的自覚について

伝統的診断と操作的診断、固有名による診断と確定記述による診断をどう使い分ければよいのか。この本によると、必要なのは『方法論的自覚』であると。自覚もなしに伝統的診断を行うのはカプグラ症候群みたいなものだと。

しかしながら「水は低きに流る」わけでして、診察室は密室だし、歳とるごとに立場上ツッコまれにくくなるので自覚する機会がなくなったりします。往年は精緻な診断をされていた敏腕精神科医もだんだん低コストの自覚なき安易な直観診断へと劣化していくのが自然な成り行きだと思います。

なのでそうならないためにも、容赦なくツッコミを入れてくれるひとたちが集う勉強会で定期的にケースカンファレンスをやっていこうと思う次第です。

ソフトスキルとライフスキルトレーニング


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先にご案内した発達障害の就労支援の講演会
で、梅永雄二さんの講演を聴きました。
キーワードは『ソフトスキル』と『ライフスキルトレーニング』です。
発達障害のある人は、子どもの時から様々なトラブルにさらされます。
虐待・いじめ・孤立・不登校・ひきこもり・非行などなど

大人になってからも同様です。
ニート・フリーター・いじめ・うつ・休職・退職・ひきこもり・子どもへの虐待・犯罪・ホームレスなどなど
さすがに範囲が広すぎるだろ!ってツッコミたくなります。ですが、個々でみると例外もあるでしょうが、集団でみると発達障害のある人の方が上記の問題を抱えている確率は高くなると思います。
 
米国の障害児教育で重視されている項目
   * 身だしなみ
   * 健康管理
   * 住居
   * 余暇
   * 対人関係
   * 地域参加
   * 教育・就労
   * お金の管理
   * 法律
生活に密着したライフスキルは、日本ではおろそかにされがちかも。
 
発達障害のある人の退職理由
仕事そのもののパフォーマンス(ハードスキル)ではなく、
そのほとんどが『ソフトスキル』
『ソフトスキル』とは仕事以外の能力で、主にコミュニケーションや対人関係スキルのこと。日常生活や余暇活動をうまくやる能力も含む。休憩時間をいかに過ごすかってとても大事。
このへんは、パフォーマンスそれ自体が低下するうつ病などの精神疾患とはいくぶん事情が異なってきます。

ソーシャル・スキル・トレーニングSSTから『ライフ・スキル・トレーニングLST』
統合失調症のひとにSSTは有効だが、発達障害のひとがSSTを受けて安易に対人関係つくろうとすると訪問販売なんかにボラれて困ったりする。
まあ、統合失調症のひともかなりボラれてますので一概に言えませんが。。。ただ両者を比較するとどちらかといえば、統合失調症のひとはシステムを根底から疑うことがありますが、発達障害のひとはシステムに安易に乗っかりがちです。

発達障害のひとにSSTをすることは、目の不自由な人に視る訓練をするくらい無意味なのではないか。それよりも、障害を持ち合わせていても生活しやすくなるような工夫をしていくべきではないかという発想です。
先で上げた障害児教育の項目つまりライフスキルをつけましょうと。モヤっとした『社会性』をターゲットにするのはめんどくさいんで、サクサクとライフハックしましょうと。

例えば、自分ができるようになるのではなく、障害を補うツールを利用したり、困った時は他人を頼るスキルを身につけることが大切。
感覚過敏をなくそう!とかわけわかんなくて、『ノイズキャンセリングヘッドホン』『アーレンレンズサングラス』が便利なので使おうと。その他、ゾーニングとしての壁際、窓際、個室の利用。




あるいはトレーニングすべきは当事者ではなく周囲のひと。発達障害のある人専門の自動車教習所に関わった時は、威圧的なスタッフにはやめてもらった。
って、わりと過激なことをおっしゃってました。
 

ADHD的な映画『ザ・マスター』


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唐突ですが映画『ザ・マスター』を紹介します。僕が大好きな映画監督のひとりであるポール・トーマス・アンダーソンの作品です。ADHD的な監督がADHD的な主人公をすえてADHD的な構成になっているADHD的な映画だと思うわけです。


ADHD的な主人公

主人公はおそらくは療育されずに成人したADHDをもったひとで、これでもかというくらいの無法者です。序盤から自らの欲望を制御できずに暴走を続けます。元は海軍の兵士で、軍の中にいたころはナントカなってたんでしょうが、退役後はいたるところでトラブルが絶えず、やがて社会に適応することがままならなくなります。 

そしてある時、たまたまカルト教団の教祖と出会うところから物語は展開します。主人公は教団のメソッドに傾倒し、カルト特有の擬似家族的な雰囲気の中に自分の居場所を見い出していきます。

というわけで、基本的には『それがどうした?』っていうめちゃくちゃどうでもいい個人的な物語にスポット当てちゃってます。


ADHD的な構成

ですが!あまりにも瑣末で個人的なエピソードがあまりにも美しく荘厳に撮影されていて、とても印象的なシーンの連続に仕上がっているので、ついつい各シーンがとても重要な意味をはらんでるのではないかと勘ぐってしまうのですが、そこには大した意味なんてなくてただ圧倒的な映像の強度だけが存在します。


加えて、アドリブでいろいろ試していたらたまたまグッとくる映像が撮れたんで使っちゃいました感が満載で、各シーン前後の脈絡がゆるかったりするのも印象的です。


まとめると、いたって個人的なエピソードを圧巻の映像美で無造作に並べた映画なので、終わってみると『これは一体なんなんだ』感がハンパないのです。

過去の監督作品である『マグノリア』などは、複数の物語が並行して展開し、ラストシーンに向かって全てが収束していくという綿密に計算された構造だったのですが、問題作『 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降、明らかに違う次元の映画を撮るようになっています。


ADHD的な監督

この変遷は、監督自身のADHD的な認知行動特性が主人公への投影のみならず、作品自体にもに反映され始めたことによるものかもしれません。
ADHD的な認知行動特性とは、本人が『今ここにある報酬』を何よりも優先してしまう結果、実行機能や時間感覚がまとまりがなくなっているように観察される、というものです。

映画における『今ここにある報酬』とは『映像の強度』であって、それが何よりも優先された演出や編集がなされることによって『時間感覚』や映画における『実行機能』すなわち『物語の整合性やメッセージ性』に独特のひずみが生じています。


とはいえ、映画全体に通底するメッセージ性みたいなものは、うっすらと感じとることができます。

障害をもって社会から排除された無法者が、カルト教団に包摂されてメソッドを学び自分の居場所を獲得し、めでたしめでたしで終わる話ではありません。主人公は教団と決別し、ゆきずりの女性にメソッドを試したけど全然効果ねえよ!って、ふたりでそれを笑い飛ばすシーンで物語は終焉していきます。


マスターとは誰のこと?

当然のことながら誰もが題名の『マスター』はカルト教団の教祖を指していると考えるでしょうが、不思議と教祖を『マスター』と呼ぶことは最後までありませんでした。それどころか、教祖は妻にあらゆる欲望を厳格に管理されている憐れな存在であることが次第に明らかになっていきます。

では、『マスター』とは一体何者なのか。

もしかすると、この映画は主人公が自らの欲望を制御することを『マスター』するまでのお話なのかもしれません。主人公のどうしようもない狼藉を執拗に撮影することで、ともすれば人間を突き放しているようにもみえるのですが、最終的には人間の自立と成長を否定していないところがそこはかとなく感動を呼ぶのだと思いました。
 

システムをゆさぶる解決志向ブリーフセラピー


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パズル


子どもの診察でよく遭遇する『不登校・ひきこもり』についてのレクチャーを準備しています。



不登校・ひきこもりの特徴

不登校やひきこもりの臨床では、問題の原因を特定して治療すれば終了!という素朴な因果律では解決できない場合が多くあります。というのも、ある問題の原因を特定しようとする行為によってますます問題がこじれていくことになったりするからです。

ここでの因果律はグルグル回転していて、悪循環に至る『不登校・ひきこもりシステム』が完成されています。もちろん、そんなシステムをつくろうだなんて誰ひとり意図してないのにも関わらずできあがってしまうのが不思議なところです。


不登校・ひきこもりシステム

『システム』といえば一般的には超便利というイメージがありますが、実はけっこうやっかいな面もあったりします。というのも、システムはいったん完成してしまうと中にいる構成メンバーの意志では止められなくなってしまう場合があるからです。しかもシステムは透明なので外からみてもよくわかりません。こうしてシステムは安定して維持されていきます。


システムを改変するためのプログラム

システムを改変するにはシステム外部からのアプローチが必須となります。不登校・ひきこもりシステムの中にいる人は素朴な因果律を採用していて、外の人にもソレを求める傾向があります。外の人が安易にソレを採用してしまうと悪循環のシステムに組み込まれてしまうので、あらかじめ中の人とは別の思考プログラムを身につけておく必要があります。

例えば、解決志向ブリーフセラピー。素朴な医学モデルとはかけ離れた思考プログラムなので、上記システムに干渉する際には役に立つ場合が多いようです。軽薄そうにみえてわりと奥が深い感じがするのも好感がもてます。そして、伝達性が高いのがウリみたいなので、さわりだけ伝達してみようと思います。


解決志向ブリーフセラピー

解決志向ブリーフセラピーはプラグマティズムという哲学にもとづいています。ざっくり言うと「役に立てばそれでいい」という考え方です。目的を達成するために利用できる手段は積極的に利用していきます。医療福祉の分野では、ともすれば手段そのものが目的化してしまうという現象が起きがちだったりするので有効です。


原則
  1. うまくいってるならそれを変えるな
  2. 一度うまくいったらまたそれをせよ
  3. うまくいかないのであればなにか別のことをせよ 
  • クライエントの病理のせいにしない
  • 教条主義的にならないように
  • 何でもいいからやってみて試行錯誤を重ねる
  • 失敗はアーカイブしておいて繰り返さないように

変化とは
  • 変化は絶えず起こる・必然である 
  • 小さな変化は大きな変化を生み出す 
  • 変化は瞬間に起こる 
  • 変化は変化のための方法を知らなくても起こる 

治療的変化が起きる条件
  1. 治療者含む2人以上の人間が接触している
  2. 治療者がサービス業に徹していること 
  3. 治療者が変化について体験的に知っている 
  4. 治療者が問題について知っている
    ・問題は『ない』あるいは人と人との間に『つくられている』 
    ・受診していること自体はひとつの問題である
  5. 治療者はクライエントに対して常に敬意を払っている 
    ・クライエントの中には問題はない 
    ・クライエントは変化に必要な能力とリソースを持っている 
    ・クライアントはその問題についての専門家である
    ・良い変化の方向はクライエントが知っている  

『問題モード』から『解決モード』へ
 問題の解決ではなく解決の構築を目指す
 率先して治療者が解決モードに入る


解決モードの条件
  • どうなりたいのだろうか?
  • よくなったらどうなっているだろうか?
  • なにが好き/得意だろうか?
  • すでに起こっている変化/できていることはなにか?
  • なにを利用できるだろうか? 


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講演会のお誘いを受けました。おもしろそうなので行こうと思います。
めちゃくちゃ広い会場を借りてるので、たくさん参加できるみたいです。
ご興味のある方はぜひご参加ください。ネットからの申し込みもできます。

1 日 時
2014年8月20日水曜日 14:00~16:30

2 場 所
兵庫県看護協会 ハーモニーホール

3 講 師
◆宇都宮大学 教育学博士 梅永雄二
◆関西学院大学 総合支援センター コーディネーター 鈴木ひみこ
◆社会福祉法人すいせい 副理事長 岸田耕二

4 定 員  500名

5 対 象
当事者・保護者および当事者団体、企業・就労先企業関係者、医療機関関係者
教育機関関係者、地域支援機関関係者、関係行政機関 等

6 申込み
ちらしのフォームからFAXでお申込みいただくか、下記のアドレスからお申込みください。
申込みアドレス http://goo.gl/IE9YmE


近年、「発達障害」という言葉は社会の中でも浸透し、障害者雇用の中でも発達障害のある方が活躍できる場面が非常に増えてきました。一方で発達障害の傾向はあるものの、診断の無い方(グレーゾーン群)に対する就労支援や進路選択については、まだまだ課題も多く、困惑されている当事者の方々や支援機関の方々が多くいるかと思います。

そんな状況をふまえて「発達障害のある方」「グレーゾーン群の方」に向けて、今我々が出来ること、考えていることを共有できればと思い、本講演会を企画いたしました。

この講演会を通して、様々な立場の方々が一つでも多く、何かの「気付き」を得ていただければ幸いです。

『グレーゾーン』の人たちは臨床上しばしば問題になります。典型的な人たちは典型的な治療法や対処法が有効だからです。おまけに、グレーゾーンの人たちは他の疾患もグレーゾーンだったりしてややこしいのです。


生活歴が荒んでいることに注目するのもいいのですが、さしあたってどの診断を採用するかはリソースで決まります。診断はあくまでも仮説なので、援助者の人口や制度が豊富な診断名を優先して採用すべきかと思います。今どき「人格障害」と診断したところで誰も助けてくれませんから。

その点、最近の発達障害に対するリソース増加は著しいですね。これには賛否両論ありますが、就労支援を導入することによってメキメキと改善する発達障害の方がいらっしゃる事実がありますので、見逃せない動向だと思います。

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