第三回『臨床の記述研究会』に参加します。


カテゴリ:

話すことはどこか不潔だ。執筆は清潔だ。話すことは不潔、書くことは清潔。不潔というのは愛想を振りまくからだ。

(ドゥルーズ『アベセデール』Culture-教養/三浦哲哉訳・國分功一郎監修) 
ジル・ドゥルーズの「アベセデール」 (<DVD>)
ジル・ドゥルーズ
KADOKAWA/角川学芸出版
2015-09-18

 
というわけで、第三回『臨床の記述研究会』というものがあってチラシをつくりました。この機会に『記述すること』について考えてみたいと思います。
rinkiju2015a
日時 2015年11月14日(土)− 15日(日)
会場 淑徳大学池袋サテライト・キャンパス
参加費 4000円 
 
11月14日(土)
13:00-14:30「恋するあなたにあいたくて」古屋聡(山梨市立牧丘病院院長)
15:30-18:30 ベイトソンセミナー「知識の量を測ること」野村直樹(名古屋市立大学人間文化研究科教授)
11月15日(日)
9:20-10:50「小説を書くこと 世界の再構成」渡辺俊之(高崎健康福祉大学健康福祉学部教授)
11:10-12:40「訪問看護と看取りへ向けての語り」村上靖彦(大阪大学人間科学研究科教授)

触覚過敏から考える共通感覚


カテゴリ:

自閉症の感覚過敏と言えば聴覚過敏や視覚過敏。過去の記事でその対策としてのノイズキャンセリング・ヘッドフォンやアーレンレンズ・サングラスを紹介しました。


ですが、感覚過敏のなかでも見過ごされやすいのが皮膚感覚つまり「触覚」の過敏性ではないかと最近考えています。

というのも、自閉スペクトラムの患者さんのなかには、毎年夏になるとパニックになったり興奮して暴れること増えるひとがけっこういます。たいてい鎮静作用の強いお薬が漫然と処方されていたりするんですが、よくよく尋ねてみると真夏の暑さによって汗でカラダがベトベトする皮膚感覚がものすごく気持ち悪くて辛抱たまらないんだそうです。


触覚過敏とは

首まわりや脇など太い血管が走っている急所部位は特に触覚が敏感になっています。タートルネックのセーターのあの嫌な感じ。

また、触覚は他の感覚と違って全身にセンサーが分布していて、視覚や聴覚のように特定部位に限局していないので、触覚過敏は特定されにくく、見過ごされやすく、誤解されやすくなっています。聴覚過敏や視覚過敏は比較的対策が立てやすいのですが、触覚過敏はいかんともしがたいものがあります。

タートルネックのセーター、真夏のスーツ着用、満員電車で他人と密着、ベタベタとカラダを触られること、などなど耐え難い触覚は、時に精神面に重大な悪影響を及ぼします。

というわけで、自閉症の感覚過敏で最も重視されるべきは皮膚感覚=触覚の過敏じゃないかと思う今日この頃です。

対策としては、綿や麻の素材の衣服を着用したり、制汗デオドラントを使ってみるのがよいみたいで、夏を乗り切るためにもオススメです。500円ほどで手に入ります。

触覚の特異性

これを機会に触覚について考えてみました。そもそも原始的な生き物には触覚しか感覚がありませんし、赤ちゃんの触覚はあらかじめ他の感覚よりも発達しています。

触覚はもっとも原始的な感覚であり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚など他の感覚を組織する細胞は全て皮膚表面にある上皮細胞が起源となって進化したものだったりします。

また、皮膚は神経と性格が似て精神にダイレクトな影響を及ぼす臓器であると言われています。


触覚的に聴くこと

foot_pic (1)

例えば、ヘッドフォンで音楽を聴くことと、野外フェスで生演奏を大音量で聴くことは全く異なる体験であって、後者は聴覚のみならず全身の皮膚における触覚ないし体性感覚や内臓感覚からダイレクトに音を受けとっているため情報量が格段に大きくて感動的なわけです。


触覚的に視ること

「人は見た目が9割!」というしょーもない書籍がありますが、なにかと視覚情報によって物事を判断することが多いわけですが、熟練した画家や建築家などは触覚的に対象を捉えているとも考えられています。

セザンヌはまるで目が見えない人のように絵画を描きました。まるで物体をまさぐったようにして描かれた静物画。それぞれの物体は様々に異なる視点から捉えられていて、形態に独特の歪みを生じています。その結果、物体の存在感が異様に際立ち、見る者に迫ってくるという効果が生じています。
Paul_Cézanne_188
ガウディは、まるで地べたを這いずりまわるような形態をした触覚的な建物を創作しました。
彼を視覚優位の発達障害という観点から分析している本があります。それによると彼のビジョンは「実際に目の前のものを見る機能と、いまだないものを映像で具体化できる機能〈中略〉その両方の機能をさしている」とありますが、それってつまり完成形にあらかじめ触れていたんだと思うんです。それだけでなく、無秩序で膨大な触覚的な感覚を統合して秩序をつくりだしたことろが凄まじいわけですが。


ビル・ヴィオラの映像作品みると、否応なく触覚が呼び起こされます。ここまでくるともう視覚的な映像表現というよりは、人間がどのように世界を認識しているのかとか人間がどのように構成されていくのか、という次元が表現されているいっても過言ではありません。 


共通感覚

中村雄二郎『共通感覚論』によると、大勢の人が共有する社会的な常識や判断は、ひとりひとりの様々な感覚の束(共通感覚)から生まれてくるそうです。
ここでも触覚の重要性が指摘されています。というのも、視覚は優秀だけどけっこうダマサれやすいからです。
waterfall
見た目はこぎれいでこざっぱりしてるんだけど、よくよく考えてみると、笑顔や演出がなんとな〜くうさんくさい!という共通感覚が多くの人々の間で共有された結果生じるダイナミズムによって、次々と化けの皮が剥がされていく現象があちこちで起こっている昨今、触覚的に物事を吟味することの重要度が増してるような気がします。

共通感覚の精神病理学

かつてブランケンブルクは統合失調症の仕組みを「共通感覚=自明性の喪失」として説明しました。統合失調症の患者さんは共通感覚を喪失しているがゆえに、抽象的な問題や理論を取り扱うことは得意であっても、あたりまえの日常生活を送ることが苦手であると。

近年、むしろこれは自閉スペクトラム症の仕組みなのではないかと言われています。自閉スペクトラム症を理解するためには、視覚的に性急な知識を身につけるよりも、触覚的に鈍重であっても確実な知識を身につけていくことが重要ではないかと思う今日この頃です。

ポール・トーマス・アンダーソンの中心気質的な映画


カテゴリ:

前回エントリー『中心気質は破綻しやすいか』の続きです。


それにしても、安永浩とポール・トーマス・アンダーソンというありえない組合せ。
Paul-Thomas-Anderson

ポール・トーマス・アンダーソンとは

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は近年最も注目を集めている映画監督のひとりです。
9人同胞中第7子。父はローカルTVで大人気のタレント。
1970年ロサンゼルス生まれ、80年代に青春を謳歌し、90年代に映画監督としてデビュー。
故郷はカリフォルニア州ハリウッド近くのサンフェルナンド・バレー。


生育歴とキャリア

物心ついた頃から8ミリフィルムに親しみ、10歳ころにビデオカメラを手にとってからは撮影に没頭。勉強には興味が持てなかった。高校生の頃から自主映画の製作を開始。名門ニューヨーク大学の映画学科に入学するもののすぐにドロップアウト。ターミネーターみたいな作品をつくりたいヤツは帰れと言われて帰ったみたいな。

タランティーノらと同じいわゆるVCR世代。映画館や映画学校で学ばず、大量のビデオで映画を吸収して勉強。膨大な映画の知識量を背景として作中にはマニアックなオマージュを連発、PTA本人はそれを公言してはばかりません。
先人のマネはりっぱな創作。なのにマネを嫌うひとが多い。楽しんで映画を撮ろうとしないんだ、バカげてるよ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
これは中心気質者の感性と言えるでしょう。
感覚それ自身を大切にする価値観であり、社会規範に従うことや、自己評価を高めることに価値を置くのではなく、体験そのものの楽しさや高揚感に価値を置く。 



 

PTAの中心気質親和性について

中心気質者の病跡学については、斎藤環が西原理恵子・北野武・石原慎太郎・勝新太郎についてそれぞれ秀逸な論考を残していますので、それを参考にPTAの中心気質親和性を確認していきます。

18歳時に制作した短編映画『The Dirk Diggler Story』は、有名子役の没落ぶりを紹介する情報番組のモキュメンタリーです。
浮き沈みの激しいめちゃくちゃな人生に魅力を感じる。麻薬に溺れて没落していく女優とか。悲しみを感じるとともに倒錯的でもあったがおかしかった。病んだ形でユーモアを見出していた。バレーでは珍しくない、変わり者の巣窟。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
中心気質者の特徴「近景における喜劇、遠景における悲劇(斎藤環)」を、PTAはこよなく愛したと言えます。

その後、テレビ番組、ミュージックビデオなどの製作助手として働き始め、23歳、短編「シガレッツ&コーヒー(1992)」が注目されたことからチャンスを掴み、26歳、初の長編「ハードエイト(1996)」を完成させる。


フィルモグラフィ

★27歳「ブギー・ナイツ(1997)」
 興行的・批評的に大成功
★29歳「マグノリア(1999)」
 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
★32歳「パンチドランク・ラブ(2002)」
 カンヌ映画祭監督賞受賞
★37歳「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)」
 ベルリン国際映画祭監督賞・アカデミー賞2部門受賞 
★42歳「ザ・マスター(2012)」
 ヴェネチア映画祭監督賞受賞 
★44歳「インヒアレント・ヴァイス(2014)」 
若干27歳で監督したブギー・ナイツが大ヒット。その後も寡作ながら高評価を重ねる。その後、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドからキューブリックを思わせる重厚な映画を撮って新境地を切り開き、ザ・マスターの時点で三大映画祭の監督賞を全て受賞という快挙を達成。現代映画の若き巨匠という地位を確立しました。


極めて個人的な映画

出世作「ブギー・ナイツ」大ヒットの同じ年、父が他界。父の芸名を冠する制作会社「グーラーディ・フィルム」を地元に設立。「ブギー・ナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」3作品はすべてその近所で撮影され、父の死など身近に起こったことを題材としています。

映画のエンドクレジットは撮影中に亡くなったりした関係者に捧げるものですが、「マグノリア」のエンドクレジットは「faとeaに捧ぐ」として同棲中の恋人と父に捧げています。メイキング映像では、当時同棲していたフィオナアップルとイチャイチャしている光景を大胆にも披露しています。
表裏のないあけすけな印象、その作品の確固としたリアリティ、作品としばしば交錯するかにみえるその生の軌跡
「語り得ないこと」の暴力性−北野武の「顔」


PTAの演出

演出場面では、派手な身振り手振りで縦横無尽に動きまわるPTAの姿が記録されています。
That Moment - The Making of Magnolia documentary
 
好奇心が旺盛で飽きっぽく、優れた身体能力とイマジネーションを持ち、動物的直感で「現在」を生きる。過剰なまでのサービス精神と万人を魅了する愛嬌を発揮しながら、暗鬱で暴力的な作品を作らずにはいられない。

PTAと仲間たち

PTAは仲間と遊んだりふざけたりしている時に偶然生まれたアドリブを脚本に盛り込みます。お気に入りの俳優を何度も起用して、それぞれの持ち味をいかに出すか腐心します。

PTAは役者に対して、ストーリーを動かすための演技ではなく、その時間を生きる人物そのものを表現するための演技を要求します。しばしば俳優の名前がそのまま登場人物の名前になっていたりするほどです。
気に入った役者のために役を用意して、エネルギーが尽きないよう楽しませる。父親のようなまなざしで。それが監督だ。できるだけ多くの役者に活躍してもらいたい。僕はただ楽しい雰囲気を振りまくだけ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
役者個人の魅力を最大限に引き出すことに成功していて、実際に多くの役者がPTA作品で評価されてスターになり、次の作品で再集結しています。PTA作品には、中心気質者同士の交流が生み出す独特の魅力が満ち溢れています。

安永は中心気質者同士の交流こそが精神療法のかなめだとしています。
精神療法の“中心”を貫いているのは、純度の高い「中心気質的交流」なのだ。これが技術や理論武装とうまくかみあい,相互に高めあうように持って行けた時に,最大限の結果が自然と出てくる。その辺を見通す感性と技術こそが真の“技術”なのだ。
「夏・随想――中心気質幻想」
PTA作品を鑑賞することで、中心気質者ないし我々の中心気質的な側面が活性化され精神療法的な作用をもたらします。そのような表現が優れた映像作品として世の中に広く受け入れられているという事態は興味深いと思います。


PTA作品の胡散臭さ

いかさま師・セックスインストラクター・ツーショットダイヤル業者・伝道師・山師・カルト教団の教祖などなど、PTA作品にはだいたい毎回、胡散臭いキャラクターが登場し、彼らのカリスマ性には常に秘密と嘘が内包されています。

自分は「ほんもの」ではない、つまり正当性も根拠もないことをうすうす気づいているがゆえに、彼らの虚妄は肥大化し、やがて破綻へと導かれていきます。

無邪気に「ほんもの」を偽装する彼らの虚妄がどんどん肥大化していく光景を、カメラが距離をおいて冷静かつ客観的に記録しているというズレ感がPTA作品の醍醐味と言えるでしょう。

いったい彼らの虚妄はいつ暴かれるのか?破綻への予感が蔓延するなか、破綻へのカウントダウンを見届けたいという欲望によって観客のテンションは維持されます。PTA作品は長丁場なのですが、あまり時間を感じさせないのはこのためです。

彼らの嘘は少しずつ綻び、やがて「ほんもの」性を保てなくなったその瞬間、「中心気質型破綻」がおとずれます。盛大に破綻する光景はロングテイクでカメラにきっちり記録され、PTAの非凡な演出力はここにおいて極まります。


PTA作品から導かれる治療論的視点

さて、破綻した者はその後どうなるのか?

いくら惨めになっていても、ほとんどの場合は最終的に救われています。破綻する光景を冷静に記録することは人間を突き放しているようにもみえますが、PTAは時にセンチメンタルと言えるほど登場人物に接近し、あたたかいまなざしを注ぎます。

PTAはその中心気質親和性によって中心気質的な仲間達と交流して中心気質的な登場人物を演出し、彼らの『内在する欠陥』を承認し擁護しています。それは危機に瀕している中心気質者≒発達障害者に対峙した治療者がとる精神療法的態度に通底するかもしれません。

インヒアレント・ヴァイス(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2015-08-19

中心気質は破綻しやすいか


カテゴリ:

映画監督ポール・トーマス・アンダーソンと中心気質の関連について、病跡学会というマニアックな学会で発表したのでブログにまとめておきます。


中心気質とは

気質(きしつ temperament)とは、先天的にもっている刺激などに反応する行動の傾向です。これに対して「性格」は、先天的な「気質」に経験や環境の影響によって後天的に形成される行動の傾向です。 

その昔、クレッチマーという精神科医が精神疾患に関連した3つの気質分類(分裂気質・循環気質・粘着気質)を提唱しました。その後、安永浩という精神科医が粘着気質を「中心気質」という概念へ発展的に変更することを提案しました。粘着気質は他の気質に比べてネガティブなものだったのですが、中心気質はかなり拡大されてポジティブなものになっています。

気質はエビデンス的には意味がないということで、気質について考えるのは流行りませんが、生来の気質を吟味して今後の行動傾向を予測することは精神科臨床上、大切だったりするので知っておいて損はないということで3つの気質をざっと解説します。


分裂気質/芥川龍之介

芥川龍之介
敏感で鈍感、突飛で頑固。俗っぽいことよりも抽象的な理論や芸術を好み、孤独を愛し、自分だけの世界をつくりあげるひとです。変人っぽい学者や芸術家のイメージでしょう。 


循環気質/田中角栄

田中角栄
円滑で柔軟、温厚で社交的。現実的なことを好み、精力的で陽気なムードメーカーで、人間関係をうまく調整して組織をつくりあげるひとです。政治家や実業家のイメージでしょう。


中心気質/長嶋茂雄

長嶋茂雄
粘着気質は質実剛健な軍人のイメージですが、今回とりあげた中心気質とは、ふつうにのびのびと育った子どものイメージです。以下は安永による説明です。
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
e0d750fd.g
<中心気質>という概念について 安永浩
子どもはみな中心気質なのですが、そのまま成人する場合と循環気質や分裂気質に変化していく場合があります。その場合でも中心気質的な側面をいくらか残していたりします。


安永の預言

安永浩は1980年『境界例と社会病理』という論考において、興味深い指摘をしています。
現代文明は中心気質においてもっとも直接的な圧迫を負荷し、これを破綻に追いこむような形になる
 
また、臨床的直観によって境界例(の一部)は『中心気質型破綻』を思わせる 
分裂病の症状論
安永 浩
1987-07



境界性人格障害はもはや注目されなくなりましたが、中心気質者が活躍する場がなくなって生きにくいご時世になる、すなわち精神科の門を叩くことが増えているという預言は、臨床経験からすると確かに実現していると思ったので大変興味深いと思いました。

当クリニックは児童思春期外来に力を入れていて比較的若い患者さんが多いためかもしれませんが、成人の患者さんの中にも中心気質的な傾向のあるひとが多いと感じています。

中心気質について論じるひとはとても少ないのですが、先輩の精神科医が先日出版した著作には中心気質についての論考が載っています。


 
安永の預言から30年後の2011年、杉林は「<中心>をめぐる考察」において、中心気質と東浩紀の動物化するポストモダンとの関連を指摘した上で、近年とみに増加の一途をたどっている「いわゆる発達障害」の多くが中心気質性を色濃く備えている、と指摘しています。 


中心気質と発達障害の関連

先ほどの
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
という記述はADHD(注意欠陥多動性障害)的
(危険に対して)発作様のパニック、もしくは爆発的な怒り、という形をとりやすいだろう。

ほとんど人を人とも思わないようなところがあり得る。(中略)要するに人でも物でも同じなのである。
という記述はASD(自閉スペクトラム症)的
成長がいびつである場合、あるいは挫折の結果をこうむる場合、等々において、かなり特徴ある「中心気質周辺」的な人格をつくり得る
16dea974.g
という記述は、発達障害における二次障害を思わせます。

このように、中心気質の特性は“発達障害”の特性(ADHDやASD)に類似します。児童精神科領域では「ADHD気質」なるものが言われていますが、それはそのまま中心気質だったりします。そもそも発達障害の症状は基本的には「発達の停滞」によるものであり、中心気質の定義にも共通します。

境界例ではなく、1980年当時はあまり存在が知られていなかったいわゆる“発達障害”の領域にこそ中心気質型破綻が生じているのではないでしょうか。

いまだ臨床的有用性が十分検討されていない中心気質という概念を再検討することは、発達障害の理解を深めることに寄与するかもしれないと考えました。


「ほんもの」を選びとる能力

安永は先の論考で個人病理と社会病理の関連について、もうひとつ興味深い指摘をしています。
現代において要請されるのは、均一化(あるいは相対化)された、一様におなじになってしまった価値系から各個人がそのそのつど「ほんもの」を選びとる能力である。
「ほんもの」を選びとる能力とはなにか?
 
安永によると、いったん「ほんもの」を選びとった(気になった)としても、絶えず価値観が流動化している現代においては「ほんもの」性を損なわない範囲内で柔軟に変身する能力が要請されるし、また一方で、いまだ「ほんもの」を選びとっていないひとにとっては「ほんものでないことの強制」つまり「本来必然性のない強制」がゆるく課せられることになると。例えば「みんながやることだから○○しろ!」という形で。
この葛藤自体には切実さがなく、隠微に人間本来の健康性をうらぎり、しかも自覚さえし難い。一様単調な「妥協の平和」を形成する。
分裂気質者ならば平和を歓迎して「ほんもの」でなくてもいいと割り切るでしょうし、循環気質者であれば相手にあわせて柔軟な変わり身が可能でしょう。

この状況において深刻な破綻を呈するのはやはり中心気質者なのです。


中心気質型破綻

中心気質者の特性として、
  • 弱い微細な刺激では不満足
  • その代わり至適量に達した刺激への直観的鋭敏、感覚的陶酔はもっとも高度にして純粋
  • よくも悪くも明暗・強弱のはっきりした体験様式をとる 
したがって、一様単調な『妥協の平和』は、直接に耐えがたい圧力となって中心気質者を破綻に追いこむことになります。破綻の典型的様式は、発作的爆発や意識そのものの消し去りであり、嗜癖問題の重大化や意識変容嗜好にもつながったりします。

僕なりの解釈では、本当はみんな「ほんもの」じゃないと知っている=胡散臭い状況、つまり正当性のないルールに従って、内に募る不満に耐え、周囲との軋轢を来さないよう自重することが求めらる状況に長時間さらされ続けた結果、中心気質者あるいは我々の中心気質的側面は、ソレを我慢できずに「ほんもの」の空気をぶち壊したくなってしまうわけです。

これはまさに、発達障害者の不適応状況にも多く見受けられる光景ではないでしょうか。

そのような、“中心気質型破綻” がとても顕著に表現されている映画といえば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の作品だと思うわけです。つづく。。。



自閉スペクトラム症と猿山の関係


カテゴリ:
saruyama
出典 宝島社

精神科クリニックには自閉スペクトラム症の方が多く受診されます。学校や職場での人間関係がうまくいかないことが悩みの中心であることがほとんどです。しかしながら一方で、明らかに自閉スペクトラム症をもっているのに学校や職場でうまくやっている人もいます。

同じくらいの自閉スペクトラム症をもっている人がいたとして、精神科を受診する人と受診しない人がいるのはナゼか?両者の命運をわけるのはナニか?を考えてみました。


学校では

平和なクラスだと自閉スペクトラム症のひとはあまり目立ちません。守るべきルールがわかりやすくて、問題が起きても周囲が暖かくフォローする余裕があったりするためだと思われます。ところが学級崩壊が起こると途端に居心地が悪くなります。例えば、態度と声のデカい生徒(およびその保護者)が幅を利かせていて、教師(および校長)さえも口出しができなくなってしまっている状況など。


職場では

システムが整っていて役割が明文化されている職場だと自閉スペクトラム症のひとは比較的居心地がよいみたいです。ところが、あちこちに暗黙のルールが仕込まれている職場は途端に居心地が悪くなります。例えば、態度と声のデカい古株のパートさんが管理職を差し置いて幅を利かせている状況など。


猿山的なヒエラルキー

このようなヒエラルキー構造は猿山的と言えるでしょう。猿も人間と同様にヒエラルキーを形成しますが、人間と違って理念を必要としません。単に力の強いものが弱いものを圧倒してのし上がっていきます。このような集団では、柔軟な身の振り方ができる器用なひとはやっていけますが、自閉スペクトラム症をもっているひとは『炭坑のカナリヤ』のごとく真っ先にしんどくなってクリニックを訪れることになります。


自閉スペクトラム症をもっている人は猿山での生存率が低い?

猿山で生き延びるためには、言葉で明確に定められているルールや理念ではなく、言葉で書かれていない暗黙のルールを機敏に感じとって、地雷を踏まないようにうまく立ち回らなくてはなりません。しかしながら自閉スペクトラム症をもっている人はしばしばそれが苦手で、おもいっきり地雷を踏んでしまいます。

というのも、彼らは『書かれていないものは存在しない』と考えてしまいがちだからです。しかし残念ながら、『肝心なことは書かれていない』ことがしばしばです。 

というわけで、まじめにコツコツ勉強して知識と技術を習得して専門職になったにも関わらず、現場では全然使い物にならなかった!という悲劇があちこちで繰り返されるわけです。


猿山化しやすい環境

個人的な印象としては、公的機関や大企業よりも中小企業、特に教育や医療福祉系の職場が猿山化しやすい傾向がある今日この頃だと思います。もともと権威があったんでガバナンス不要だったんだけど、権威が急速に失墜したから代わりに猿山的構造が台頭しているのかもしれません。

このトレンドはしばらく続くでしょうから、いちいち目くじらを立てるよりも、猿山的構造を弄びつつサバイバル術を身につけることが重要です。

例えば、とある猿山で『経営者の愛人らしきひとが資格もないのに出しゃばっているのが理不尽で許せません!』ってものすごく憤慨しているひとに対しては、『性愛関係は階級を飛び越えるために利用できる最も強力な手段のひとつなので、それによって社会が流動化しているんだよ』と説明しながら、めんどくさいひと対策としてのご機嫌をとりつつ距離をとる方法をレクチャーしたりしています。

このページのトップヘ

見出し画像
×