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発達障害をもつ子どもが利用する療育施設の選び方


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療育に関する問題は昔からボンヤリと考えていたのですが、「アヴェロンの野生児」の療育について調べてみて、問題点がだいぶ明確になりました。

児童思春期外来を10年以上もやっていると、「発達障害の療育施設はどこがいいですか?」と質問されることが多くなってきたので、いろいろな療育施設を見学してみて感じたり調べたことをまとめてみようと思います。

放課後デイサービスなどなど療育施設がたくさん出現しているので、選び方に迷われるひとが多いようです。

一般的に、療育施設を選ぶにあたって、カリキュラムがどうだとか、スタッフの力量がどうだとか、わりとどうでもいいことが強調されがちだったりするので、もっと実用的な選び方を紹介できればと思います。


おすすめできない選び方

  • 家から遠い
  • 医療機関が運営している
  • 言語療法士や作業療法士など専門職が多い
  • 特別なメソッドを使っている
  • 親向けのプログラムを熱心にやっている
  • 高額な料金がかかる

おすすめな選び方

  • 家から近い
  • 送迎サービスあり
  • 子どもが雰囲気になじめそう
  • 親がひと休みできる
  • 料金がかからない


まずはアクセスと料金をチェック

療育は生活に密着している営みなので、なるべく家から近くて通いやすくて便利なところにしましょう。送迎サービスがあればなおよしです。

また、なるべくお金がかからないように、公的補助によって料金負担が少ないところを利用しましょう。

たとえば、有名な療育施設へ通うために片道2時間かけてせっせと通所して、やたらと高い料金を払っている熱心な親御さんがいますが、時間とお金がありあまっているひと以外はやめたほうがよいです。それなら、楽しいイベントに参加したり美味しいごはんを食べに行く方がよっぽどマシです。


とりあえず子どもがなじめそうかどうか

最も重要なのは、お子さんが療育施設になじめそうかどうかです。子どもは自分に似たタイプの子どもに接近して仲良くなるので、そのへんをチェックしておきます。

施設ごとにカラーが微妙に違うので、見学や体験をしてみて確かめましょう。

もしも、あまりなじめそうになくて、子どもが楽しくなさそうなら、気にせず他のところにも行ってみましょう。よさそうなら移籍すればOKです。

他の子どもたちと遊べるようになることが重要なので、有名な先生がいるとか、専門職がいるとか、特別なメソッドを使っているとかは、わりとどうでもよかったりします。

オトナのメンツよりも、子どものメンツを重視しましょう。


親にとって便利なところがいい

次に重要なのは、子どもを預けているあいだ、親が気をつかわずにひと休みできるかどうか、です。

極論を言うと、療育の効果がゼロでも、子どもを預けているあいだに親がゆっくり/レスパイトできていれば、それだけで状況がよくなったりします。ただでさえ障害をもつお子さんをもつ親は、教育に力が入りすぎてしまい疲れてしまうことが多いからです。

なので、親も参加しないといけないプログラムを押しつけてくるところはあまりおすすめできません。

親子が真剣に向き合いすぎると感情がもつれるし、お互いに消耗が激しくなって状況が悪化する場合がけっこう多いです。

せめてお子さんが療育施設を利用している間くらいは、子育てから解放されて、ひと息ついてゆっくり自分の時間を大切にしていただきたいと思います。



専門職が多いところは?

療育施設を選ぶときに、臨床心理士やら言語療法士やら作業療法士やら精神保健福祉士やら資格者がいるところを優先するひとがいますけど、これはあまり重要な要素ではありません。

発達障害の子どもの療育について実務経験があるかどうかと、資格をもっているかどうかは、ほとんど関係がないからです。

むしろ、事業所が宣伝効果のために、資格者が在籍していることをアピールするために、実務経験の乏しい資格者を急ごしらえで採用していることもあったりするのでかなり微妙です。

同じような理由で、特別なメソッドを使っているところは、他にアピールするものがなくて困っていたり、偏った考えを押しつけてくる場合があるので、あまりおすすめできません。特別なメソッドよりも当たり前の日常の積み重ねが重要だからです。


医療機関で療育を受ける意味はある?

病院やクリニックなど医療機関で療育プログラムをやっているところもありますが、だいたい中途半端になりがちです。

某医療機関の療育は予約がいっぱいなので月に1回だけ通っています、というひとがたまにいますけど、子どもにとってはほとんど意味がありません。「療育やらせてます!」というアリバイ作りにすぎないので、やめたほうがいいと思われます。

療育の運営主体は医療機関だろうがNPOだろうがほとんど関係ありません。療育と医療は、近いようでめちゃくちゃ遠い営みなので、必ずしも医療機関で療育をやればよいわけではないからです。

とくに発達障害の支援は、医療機関で包括的にやれるものではありません。医療・教育・福祉・行政などなど複数の専門家による支援ネットワークの形成が重要で、医療はその一端を担うにすぎないからです。

というわけで、お子さんにとって楽しい療育になることを願っております。
子どもたち

「アヴェロンの野生児」後日談


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イタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が失敗に終わった後、ふたりがどうなったのか調べてみました。

イタール、その後

1806年、イタールはヴィクトールの療育を終結し、4年間にわたる療育の成果を内務大臣へ報告しました。報告書は政府によって出版され、世間から大絶賛されて富と名声を手に入れました。

医師としても教育者としても成功して時代の波に乗ったイタールは、「ろうあ学校」で他の生徒の教育にたずさわるようになりました。

聴力がわずかに残っている生徒に言葉を教えようとするだけでなく、聴力を回復させようと努力しました。言語学者ハーラン・レイン「手話の歴史」のなかで、当時「ろうあ学校」に在籍していた生徒が生々しく証言しています。

イタールが「ろうあ学校」の生徒たちに試した治療法の数々は想像のナナメ上を行っていました。耳に電気をあててみたり、首にヒルをくっつけてみたり、鼓膜に穴をあけてみたり、よくわからない液体を耳に注いでみたり、水ぶくれのできる溶液にひたしたガーゼを耳に巻いてみたり、もぐさを使用してみたり、耳の後ろを金槌で叩いて頭蓋骨を割ってみたり、白熱させた金属片をあててみたりなどなど、にわかには信じがたい人体実験を繰り返していたようです。

そのようなむちゃくちゃな試みはすべて失敗に終わり、ひどい副作用という災厄を生徒たちにもたらしました。その一方で、イタールはこのような実験を通して「耳管カテーテル」を開発し、耳鼻咽喉科学の先駆的な業績を上げることができました。
イタール耳管カテーテル
治療に失敗したイタールは、医学でダメなら教育だ、というわけで、発話訓練を強行します。膨大な時間をかけて個別教育をほどこしますが、これもほとんど成果はありませんでした。

わずかに発話できる生徒が手話社会に溶け込むにつれて発話できなくなる様子を観察したイタールは、失敗の原因は手話であると考えるようになります。そして、自分の生徒を隔離して教育しようと考え、同じ過ちを繰り返そうとします。


ヴィクトール、その後

大成功したイタールとは対照的に、野生児ブームは去り、ヴィクトールに対して関心を抱くひとはほとんどいなくなりました。

1811年、成人したヴィクトールは「ろうあ学校」を退去することになり、政府からの援助を受けてゲラン夫人と生活することになりました。ひとめにふれないように生活するよう通達されていたそうです。

これ以降、ヴィクトールの公式な記録はほとんどありません。ヴァージニア大学教授で詩人・歴史家であるロジャー・シャタックの著作に少しだけ記載がありました。
1816年、30歳近くになったヴィクトールの様子を、考古学者のヴィレーがこう記述しています。
今日でもこの人間はひどい姿であり、半ば野性で、あんなに話し方を教える試みがなされたのに、相も変わらず話すことが覚えられないままでいる。
ヴィクトールは変化のないまま、ひきこもり状態でひっそりと過ごしていたようです。

 

素直に変化するイタール

頑固な口話主義者だったイタールは、アリベールという生徒との出会いを通して、ろう者の教育には手話が必要であると考えを改めます。

アリベールはイタールの熱血指導を受け、髪が白くなるくらい努力したにも関わらず、ほとんど成果がありませんでした。しかし、手話を学んでからは素晴らしい学業成績をおさめて教師になりました。

イタールは「ろうあ学校」という手話社会の中心にいながら、言語習得には手話社会が重要であることに気づくのに16年もかかったというわけです。

こうしてみると、イタールはひとつの原理に並々ならぬこだわりを抱いて、忖度ゼロで猪突猛進するタイプでありながら、自分の間違いを認める素直さをあわせもっていたり、治療はヘタだけどマニアックな医療器具を開発するなど非凡な才能を発揮したり、素晴らしい研究業績を残していたり、基本的に孤独を好んで生涯独身を貫いていたりなどなど、自閉スペクトラム症/ASDの特徴があったのかもしれません。

一方で、ASD研究で著名なウタ・フリスはじめ「アヴェロンの野生児=ASD説」が有力だったりします。
そして、ASDをもつひと同士はお互いを理解しやすいという「類似性仮説」があります。

つまり、イタールとヴィクトールはASDの特性をもつ者同士だったので、うまくコラボレーションできたのかもしれません。あるいは、全然うまくいっていないことに無自覚なまま実験を継続できたのかもしれません。

そう考えると、実験が終了してからふたりが一切の関わりを断っていることも、ある程度うなずけます。


イタール、ヴィクトールを語る?

1828年、50歳になったイタールは、とある知的障害者の療育についての報告書のなかで、
長期間繰り返しスピーチの訓練を続ければ、それ相応の話す能力を身につけるようになるかどうかを決定するためには、医者は非常に慎重でなくてはならない。
(中略)
私がこのことを付記するのは、私がこの点で以前に過ちを犯したからである。
と警鐘を鳴らしています。これはヴィクトールのことについて語っているのかもしれません。

結局のところ、年老いてからのイタールは「ヴィクトールは知的障害であり療育不可能である」と診断したピネル(当時55歳)の見解に近づいています。

ちなみに、この報告書が提出された頃には、ほとんど話題になることもないままヴィクトールは亡くなっていました。

ヴィクトールは思春期以降、30歳年上の養母以外の人間とほとんど関わることなく、自然豊かな故郷に帰ることもなく、パリ市街地のど真ん中で、推定年齢40歳の短い人生を終えていました。

社会的に大成功したイタールの華やかな人生とはとても対称的で、イタールがヴィクトール/勝利者という名を与えていたことは、もはや皮肉としか言いようがありません。


誤診と失敗から始まった物語

アヴェロンの野生児という神話は、若かりしころのイタールの誤診と失敗から始まりました。

イタールは若さと情熱をもって不可能なことにチャレンジしたからこそヒーローになりました。その物語は美談であり、伝説であり、神話となりました。そして、児童精神科臨床と障害児教育の原点となって歴史を切りひらきました。

しかしながら、ヒーローが活躍する華やかな側面ばかりに目を向けていても、得られる知見は少なかったりします。というのも現実には、児童精神科臨床も療育も、華やかさとは無縁の地道な日常の積み重ねと継続性が重要であって、そもそもヒーローなんていらないわけです。

なので、歴史の背景とか負の側面に目を向ける視点をもって、現代の療育について考えてみるといろいろな問題点が浮き彫りになったり、改善点がみえてきたりするのではないかと思っている今日このごろです。

「アヴェロンの野生児」はどのような環境で療育されたのか


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救世主のように登場したイタール

前回は「アヴェロンの野生児」の物語が始まるまでの経緯をまとめました。
 
南フランスの田舎で保護された「アヴェロンの野生児」と呼ばれた少年は、人間社会にふれるようになってから変化しつつあるその姿を博物学者ボナテールが詳細に記録していました。

当時流行した考え方にもとづいて「教育によって野生児を文明人へと導くことができるかも」と期待され、特別な教育を受けるためにパリへ移送されることになりました。

せっかく慣れはじめた環境を奪って呼び寄せておきながら、ろうあ教育の第一人者であるシカールと、精神医学の第一人者であるピネルは、少年の療育を早々とあきらめてしまったので、少年は学校内でネグレクト状態になっていました。

そんなグダグダな状況を打開すべく、たまたま近くにいてシカールと知り合った若手医師イタールが少年の療育に関わることになりました。

こうしてイタールによる伝説的な療育が始まるのですが、どのような環境設定で行われていたのか調べてみると、とても奇妙な構造になっていて興味深いのでまとめてみました。

というのも、「誰が、どんな治療法を行ったのか」という技術的な側面よりも、「どんな設備のあるところで、どのようなスタッフがいて、どのくらいの頻度と時間をかけて治療を行ったのか」というリソース的な側面のほうが治療効果にとって重要だったりするからです。


疑似家族の形成

1800年12月31日、イタールは「パリ国立ろうあ学校」の医師として着任し、住み込みで少年に関わることになりました。若い医師が住み込みで教育した、となると質素な当直室なんかを想像してしまいますがとんでもない。診察室はもちろんのこと居間・寝室・書斎・応接室・個人用の図書室などなど、改修された校舎の2フロアにまたがる部分を占有するという破格の待遇だったようです。さすが国家プロジェクトです。

イタールは近所の陸軍病院の常勤医でもあるので、午前中は出勤して午後からヴィクトールの授業を行っていました。

少年にヴィクトールという名を授け、少年に関する一切を任されることになったイタールは、事実上の養父になったと言えます。

また、世話役としてゲラン夫人が正式に雇用されて事実上の養母となり、ヴィクトールはゲラン夫妻と食卓を囲むことになり、時にはイタールも参加していたそうです。

このような疑似家族的な環境ができあがり、ふたりの大人から献身的なサポートを受けるようになり、ネグレクト状態にあったヴィクトールはみるみる元気になっていきました。
野性の少年の疑似家族

奇妙な構造

ヴィクトールとイタールが生活している場所は「ろうあ学校」なので、生徒や職員は手話をつかって生活しています。学校内で手話を使えないのはヴィクトールとイタールくらいです。

手話をつかえないイタールはヴィクトールに手話を教えることはなく、あくまで発話できるようになることに強くこだわりました。

そのためかどうかは不明ですが、イタールはヴィクトールと他の生徒を交流させなかったようです。11〜12歳くらいの少年が同世代の子どもたちと交流できなかったことは、その後の発達に大きく影響をおよぼしたことでしょう。

ともかく、手話をつかう文化をもつ社会のなかに、手話をつかえない疑似家族がぽつんと生活することになり、両者がほとんど交わることのない隔離された環境下で、ヴィクトールはひたすら社会化を促すための特別な授業を受けることになりました。

このような奇妙な環境設定は実社会ではありえないので、まさに隔離実験のための構造であると言えるでしょう。


映画「野性の少年」には表現されていない構造

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フランソワ・トリュフォー 
ジャン=ピエール・カルゴル



イタールによるヴィクトールの療育は、フランソワ・トリュフォー監督によって1969年に映画化されています。なかなかリアリティのある演出で当時の雰囲気を感じることができますが、このような奇妙な環境設定であることはあまり感じられません。

映画はヴィクトールの輝かしい未来を想像させるラストシーンで終わっているのですが、現実はそうではありませんでした。

イタールの思う方向になかなか進歩しなヴィクトールに対して苛立ちをつのらせます。
かわいそうに。私の苦労も水の泡となってしまい、お前の努力も実を結ばなかったのだから。お前の森に戻り、また原始生活を味わいなさい。それとも、新しい欲求のために社会から離れられないというのなら、社会の無用者という不幸を贖うがいい。そして、ピセトール(精神科病院)に行って、悲惨と苦痛の中で死ぬがよい。
新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)より
このように脅したり、なだめすかしたり、泣いたり笑ったりいろいろと頑張るわけですが、療育開始から約5年間が経過しても、ヴィクトールはほとんど言葉を使えるようにはなりませんでした。

1806年、ついにイタールは絶望して療育を中断してしまいます。次回は、イタールの療育はなぜ失敗したのか、その要因についてまとめてみようと思います。


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