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ピアジェとフロイトの発達論について/滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その2


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滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その2
というわけで、今回はひさしぶりにこの本を紹介していきます。

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27


第1部の理論編のうち第4〜6章、滝川の発達論について、ぼくなりに考えをまとめてみました。とりあえず、滝川はピアジェとフロイトの発達論をミックスしていますが、ピアジェはともかくフロイトはまずいでしょ、という話です。
第4章 「精神発達」をどうとらえるか
第5章 ピアジェの発達論
第6章 フロイトの発達論

滝川一廣2分法

滝川は人間の発達を「認識の発達」と「関係の発達」の2つにわけて表現しました。
  • 認識の発達 いわゆる知識と理解。意味や約束を「知ること」 
  • 関係の発達 いわゆる社会性。集団の中で人間と「関わること」

滝川一廣2分法

知的障害をもつひとは認識の発達が遅れていて、自閉スペクトラム症/ASDのひとは関係の発達が遅れているとシンプルに説明しています。

この2分法はとてもわかりやすくて便利なので、ぼくもASDの講義をするときに利用させていただいております。

しかし問題なのは、滝川は「認識の発達」をピアジェの発達論に、「関係の発達」をフロイトの発達論にそれぞれ対応させて説明しているところです。ピアジェはともかく、フロイトにしたのは大失敗です。

なぜなら、フロイトの発達論は実際の乳幼児を対象にした研究ではないし、理論的に間違っていることが明白で、もはや見向きされなくなっている理論だからです。ひと昔前は、教員採用試験や看護師の国家試験に出題されることがあったのですが、今はもうほとんど出題されなくなっています。

なので、この本では「関係の発達」がどのようになされていくのか、という説明がわかりにくくなっています。


フロイトの色眼鏡

高齢の精神科医はフロイト精神分析の洗礼を受けている率が高いのですが、若い精神科医はあまり影響を受けなくなっています。あまりも役に立たないばかりか有害なことすら多いからです。

フロイトの発達論で特徴的なのは、親子関係に対する異常な執着です。フロイトに影響を受けた精神科医は幼少期の親子関係について根掘り葉掘り聞くクセがあって、親子関係が子どもの将来に決定的な影響をおよぼすという信念をもっています。しかも、だいたいネガティブな内容の予言になっていて、まるで「呪い」とか「占い」のたぐいみたいになりがちです。

さらに、親と子の格差を強調するあまり、どうしても親が加害者で子が被害者であるという発想にかたよってしまいます。

確かに、虐待が発生している極端な親子関係であれば、子どもに大きな影響をおよぼすことは明白ですが、一般的に親の影響力は児童期以降だんだん小さくなり、思春期に入るとほとんど影響力を行使できなくなります。

自分の子ども時代を思い出してみると明らかですが、児童期以降はだんだん親よりも友人や恋人から大きな影響を受けるようになります。せいぜい5コ上の先輩や10コ上の有名人に憧れることはあっても、30コ上のおっさんに憧れることはほとんどありません。


フロイトの発達論はパンチがきいてる

フロイトの発達論/心理性的発達理論
  • 口唇期 Orale Phase   0~1歳頃
  • 肛門期 Anale Phase   1~3歳頃
  • 男根期 Phallishe Phase   3~6歳頃
  • 潜在期 Latente Phase   6~12歳頃
  • 性器期 Genitale Phase    12歳頃~

それぞれ、授乳している口唇期、トイレット・トレーニングしている肛門期、性器に関心があつまる男根期。それぞれの時期にトラブルが起こると、甘えん坊、ドけち、マザコン/ファザコンになっちゃうというパンチのきいた説です。

はじめて教わったときは「なにかのギャグ?」と思って笑いをこらえるのに必死でした。こうしてひさしぶりに眺めてみると、なかなか壮観で感動すら覚えます。しかし、この枠組がおおマジメに正しいとされていた時代がつい最近まであったわけです。


語られない潜在期

聡明な滝川は、さすがにフロイトの発達段階説は古めかしい決定論であり現代社会にはなじまないと批判していますが、最終的にはフロイト理論をしっかり受け入れてしまっています。

フロイトの発達論がダメなところを端的に示しているのは、6歳から12歳頃までの「潜在期」を軽視しているところです。その名のとおり「潜在期」はあまり動きのない時期とされていますが、この時期は、子どもが社会化をはじめるもっとも重要な時期であり、もっともダイナミックな変化に富む時期であることは臨床経験からも明白です。

潜在期の6年間は、口唇・肛門・男根期よりも長期間であるにもかかわらず、あまり語られていません。それを踏襲した滝川も潜在期の記述がもっとも薄くなってしまっています。

親よりも子ども同士の相互作用が重要であることは以前の記事でも紹介しています。



ピアジェの発達論は意識高い系のASD

一方、ピアジェの理論は発達認知研究のベースになっています。滝川の「認識の発達」にほぼ対応しているといってよいでしょう。ASDをもつひとにも保たれているので、ASD的な発達の側面であるといえます。

ピアジェの発達論/認知発達段階説
  • 感覚運動期  0~2歳
  • 前操作期   2~7歳
  • 具体的操作期 7~12歳
  • 形式的操作期 12歳~成人まで

外の世界に対して、感覚や運動によって相互作用を始める「感覚運動期」、自分と外の世界との境界を認識する「前操作期」し、具体的なものを取り扱う「具体的操作期」、抽象的なものを頭の中で演算できる「形式的操作期」。

生物学者からスタートしたピアジェは「生物の本質は世界に対して能動的に働きかけて変革することである」というコンセプトをもっていたようで、活動性とか能動性への信仰がみられます。

ピアジェは「生物は大きな進化の流れの中にある」という受動的なダーウィンのコンセプトには賛同せず、主体的かつ能動的に活動して環境に適応していくことが発達であるというコンセプトを重視しました。つまり、とっても前向きな意識高い系なのです。


意識高い系による意識高い系のための理論

生涯で観た映画はたったの4本!というピアジェ自身、かなりのワーカホリックでバカンスなしで研究に没頭していたカタブツだったらしく、意識高い系の科学者でASDに親和性の高いひとだったのかもしれません。

ピアジェの発達論は意識高い系のASDっぽいエリート層にウケて、戦後日本における教育指導要領に取り入れられてきました。そのため、ASDに親和性の高い制度設計がなされてきたのかもしれません。

ピアジェの発達論は、まるで子どもを機械に見立てている風にもみえるので「子どもの笑顔がみあたらない」と批判されていました。ですが、それは逆にASDをもつのひとの発達の側面をうまくとらえているともいえるでしょう。

他にも、ピアジェは子どもの能力を低く見積もりすぎているという批判もあって大幅に見直されているところなので、あくまでも参考程度にして個別のケースに当てはめないようにする必要があります。


「関係(社会性)の発達」を説明する理論は?

それでは、タテ軸「認識の発達」はピアジェの発達論をベースにするとして、ヨコ軸「関係の発達」はフロイトの発達論に代わってどんな理論をベースにすべきでしょうか?

というわけで、次回はロビン・ダンバーの社会脳仮説とかマキャベリ的知性についてまとめていきます。


「アヴェロンの野生児」は児童精神医学の原点なのか


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前回は、滝川一廣「子どものための精神医学」を紹介しました。


滝川が著書の中で「児童精神医学の歴史的出発点」であり「最初の臨床」として「アヴェロンの野生児」という物語を紹介しています。もともと個人的に野生児について興味があったのでこれを機会に調べてみました。
アヴェロンの野生児

原点としての「アヴェロンの野生児」

1800年の秋、パリでふたりの若者が出会いました。ひとりは新進気鋭の若手医師イタール。もうひとりは森にすてられて野生で育ち、人間らしさを失ってしまった「アヴェロンの野生児」と呼ばれる少年。

精神医学の第一人者であり、鎖につながれた精神障害者を解放したことで有名なピネルが「アヴェロンの野生児」を診察しました。

ピネルの診断は、生まれつきの「知的障害」であり、治療不可能かつ教育不可能、つまり療育不可能というものでした。その根拠はとてもシンプルで、当時彼が診療していた劣悪な環境の施設に長期間入所している子どもたちと同じような症状がみられていたからです。

イタールは師であるピネルの診断を否定し、少年に「勝利者/victor」という意味の「ヴィクトール」という名を与え、療育に取り組むことになりました。

その結果、ヴィクトールはジェスチャーや文字の理解が少しだけできるようになり、親しみの感情を示すようになるなど、一定の成果をあげることができたそうです。

師であるピネルの診断をつくがえし、野生児が人間性/社会性を身につけることができた、という痛快かつ感動的な物語です。

イタールの方法論は脈々と引き継がれ、障害児教育からモンテッソーリ教育まで幅広く応用されるようになりました。めでたしめでたし。


神話としての「アヴェロンの野生児」

確かに、イタールの情熱には胸を打つ感動があります。医師としてその姿勢から学ぶものが大きいのですが、これは200年前の神話にすぎません。

イタールの功績は現代の療育の礎になっているのならば、逆にイタールの療育に不足している部分や不適切な部分を再検討することで、現代の療育の問題点や改善策がみえてくるかもしれません。

というわけで、資料をもとによくよく冷静になってこの物語を眺めてみたいと思います。

まずは、古典として不動の地位を得て今も読まれているイタールの有名な著作です。内務大臣への報告書が生のまま記録されているのですが、公文書とは思えないほどに情熱的かつロマンティックな思弁にあふれています。
たとえば、イタールの治療目標
  1. 彼がいま送っている生活をもっと快適なものにして、とりわけ、彼が抜け出したばかりの生活にもっと近づけることによって、彼を社会生活に結びつけること。

  2. 非常に強い刺激によって、時には魂を激しくゆさぶる感動によって、神経の感受性を目覚めさせること。

  3. 彼に新しい欲求を生じさせ、周囲の存在との関係を増すようにさせて、彼の観念の範囲を拡大すること。

  4. どうしてもそうしないではいられないという必要性によって模倣訓練をさせ、彼を話しことばの使用に導くこと

  5. しばらくの間、非常に単純な精神作用を身体的欲求の対象に働かせ、その後、その適用をもっぱら教育課題にふり向けさせること
ざっくり要約すると、
  1. 社会生活ができる
  2. 神経の感受性を目覚めさせる
  3. 観念の範囲を拡大する
  4. 話しことばを使う
  5. 教育課題に集中させる
めちゃくちゃ抽象的で検証不能です。具体的な目標は「4. 話しことばを使う」しかありません。


コンディヤックの考え方

なぜこんなことになっているかというと、とあるタイプの青年にありがちな「哲学」にかぶれているからです。

イタールは当時流行していた聖職者でもある哲学者コンディヤックを信奉していました。コンディヤックの考え方は、「人間はまっさらな状態で生まれてきて、さまざまな感覚が目覚めることによって、観念とか認識とか思考、つまり人間の心が形成されていく」というもので、やたらと「感覚」を推してくるのが特徴です。

今なら「ナニそれ?ナニ教?」という感じですが、とくに根拠のない説であるにもかかわらず、当時は広く信じられていました。その他にもルソーの「自然状態の人間は無垢で清らかで尊い存在である」説など、いわゆる「空白の石版」説がフツーに信じられていました。

現在はスティーブン・ピンカーはじめ、さまざまな研究者が膨大なエビデンスによって「空白の石版」説を徹底的に論破しています。

なぜ、根拠のない「空白の石版」説が世の中を席巻したのかというと、たまたま時代の気分というか空気にマッチしていたからです。


革命後、花の都パリ

当時は社会システムが大きく変わってゆく激動の時代で、1789年にフランス革命が始まって絶対王政が崩壊し、1799年のクーデターによってナポレオンが権力を掌握しつつありました。

身分制度で運命が決まってしまう硬直した社会システムが溶けて流動的になり始めたちょうどその頃、「生まれではなく環境こそが人間の運命を決める」という考え方は、社会改革運動をすすめることを正当化するツールとして便利だったわけです。

しかし「空白の石版」説はまったく根拠がないのが弱点でした。それを証明するためには禁断の実験をしないといけません。

たとえば、
  1. 生まれたばかりの赤ちゃんを社会から隔離する
  2. その結果、社会性が身につかない人間になる
  3. 教育によって社会性を身につけさせる
とてもじゃないけど、そんな実験をすることが許されるはずもありません。

そのような時代に、「空白の石版」説を証明する実験材料そのものである「野生児」が発見されたという事件は大ニュースになりました。

野生児は一躍有名人となり、発見以来半年にわたって新聞にとりあげられ、野生児を主人公とした喜劇が上演されて好評を博し、政府からの命令でパリに移送され、彼をひと目見ようと集まった野次馬たちの歓声と熱狂に包まれました。

そして、いよいよイタールによる禁断の実験が始まるわけですが、、、その前に、ふたりの専門家が野生児に関わっていました。それがとても興味深いのでまとめていきます。


滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その1


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とある団塊世代の児童精神科医

ぼくは精神科医になったときから児童精神科領域に興味があったので、有名な児童精神科医の話を聴きに行ったりしていました。たまたまなのか、団塊世代とその周辺の児童精神科医がよく目立っていたので何人か観察していました。

その結果、独断と偏見で申しわけないのですが、団塊世代の児童精神科医の特徴が3つほどあって、、、
  1. あつかましくてあつくるしい
  2. うさんくさくてカルトっぽい
  3. 思いこみがはげしくてロジカルじゃない
たまたまぼくの行動範囲にそんなひとが多かっただけだと思うのですが、そんなわけで当時のぼくは児童精神科領域から距離をとろうかな、と思うようになったりしていました。

そんな中、ひときわ異彩を放っていたのが滝川一廣先生でした。

滝川先生は団塊世代ど真ん中なのにとても聡明だったので興味をもちました。最初の印象は、声が小さくてナニしゃべってるのかわからないひとでしたが、よくよく耳をすまして聴いてみると、シャープでロジカルかつ独創的な発想をもったひとだったので、著作を読み漁るようになっていました。

児童思春期の臨床に携わるようになってから、はじめのうちはよく参照しながら取り組んでいました。それから10年ほど経て、自分なりのスタイルで診療をするようになってからはあまり参照することもなくなっていましたが、いつも頭の片隅には滝川先生の言葉が残っていたように思います。

ある研究会で滝川先生とちょこちょこお話させていただくようになって、「子どものための精神医学」を献本いただいたので、感想をまとめてみようと思います。

ほぼ10年ぶりに滝川先生の著作を読んでみて、とてもなつかしくなりました。とにかく、これは児童精神科臨床の到達点のひとつであり金字塔です。

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27







とても素晴らしい本なので批判するひとは誰もいないと思いますが、よりいっそう理解を深めるために、ここはあえて批判的な読み方をしてみたいと思います。 

滝川先生は団塊世代の児童精神科医としてはおそらく最も優秀なひとなので、団塊世代の児童精神科医が枠組みにしているパラダイムをロジカルにまとめることができています。

それはとても素晴らしいことなのですが、それゆえにそのパラダイムにとらわれてしまっているのではないか、という批判が可能になります。


本書の構成 

かわいらしい表紙に油断してはいけません。読みやすい文体で書かれているものの、かなり読み応えのある専門的な教科書です。450ページの厚みのある本で、以下のように4部構成になっています。
第1部 はじめに知っておきたいこと 
第2部 育つ側のむずかしさ 
第3部 育てる側のむずかしさ 
第4部 社会に出てゆくむずかしさ 
第1部は「理論編」で、発達に関する知識や学説の歴史について考古学的にまとめられています。このへんの古いパラダイムについてまとめることができる優秀な書き手はもうあまり残っていないので、資料としてとても貴重だと思いました。

第2・3・4部は「実践編」で、おもに発達障害の「むずかしさ」について書かれています。発達障害をもつ個人・とりまく家族・そして社会、それぞれのレベルで「むずかしさ」についてとりあげています。

医学書なので当然といえば当然なのですが、ざっくりいうと悲観論からのパターナリズムです。

つまり、発達障害をもつ個人はとても苦労するし、家族もつらい状況に追い込まれるし、社会に出ていくことはとてもむずかしいことなので、専門家の支援が必要である、という流れになりがちです。

まだ発達障害の概念が浸透していなかった時代には重要な考え方であることに間違いありあません。ですが、発達障害の概念が浸透してむしろ過剰診断や過剰処遇が問題となりつつある現在においてもなお妥当かどうか、検討の余地があります。

とくに発達障害は正常から重症までなめらかに連続する概念なので、悲観的な視点にかたよることは本人のもっている能力を過小評価したり可能性を狭めてしまうことになることがあるので要注意です。

また、「昔は良かった」けれども現代社会の変化によって発達障害をもつひとが苦しむようになった、というノスタルジックな説明がよく目につきます。

はたして本当に、昔の社会は発達障害をもつひとにとって幸せな社会だったのでしょうか?もしもそうだったとしたら、その代わりに不幸になっていたひとたちはどんなひとたちなのでしょうか?

これからいろいろ考えてみたいと思います。


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