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俯瞰の過剰がまねく4つの問題


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灯台もと暗し

俯瞰の過剰がまねく4つの問題

「過剰な共感」は、対象との距離が近すぎてしまうことによって生じ、様々なデメリットを引き寄せます。

なので、対象との距離をとって状況を俯瞰して見ることによって、冷静かつ客観的に状況をとらえ、問題を整理し、見通しを立てることができるようになる、というメリットがあります。

ところが、「灯台もと暗し」という言葉の通り、過剰な俯瞰もまた様々なデメリットを引き寄せてしまうことを、とある奇妙な講演会を通じて考えました。

僕自身その傾向があるかもしれないので自戒をこめてまとめてみました。


① ナイーブな因果律を信じ過ぎてしまう

俯瞰してモノゴトを考えていると、たいていナイーブな因果律を信じるところに落ち着いてしまいます。そっちの方が楽だからでしょうか。

「ASDをもつひとは▲▲▲だから■■■すべき、そうすれば《良い結果》になる」みたいな。

さらに、

「必ず《良い結果》になるんだから、なにがなんでも■■■すべし!」

という独善からの、

「■■■したのに《悪い結果》になったのはオマエラのせいだ!」

という被害妄想にまで発展することさえあります。

しかし実際は、■■■の成否は現場の状況など様々な要素に左右されます。■■■したところで《悪い結果》になったりもするし、■■■しなくても《良い結果》になったりします。

実際の臨床現場は、素朴な因果律ではなくカオスに支配されているからです。

とくに発達障害はバリエーションが大きいので、理論を参照枠としながらも、現場で試行錯誤を繰り返して修正していく「工学的思考」が必要だったりします。


② 観察対象に与える影響を見落とす

いくら俯瞰していても、観察対象が人間である以上、純粋な観察は不可能です。観察すればするほど観察者は観察対象に影響を与えてしまいます。

極端な例だと、職場の上司との関係で悩むASDをもつ会社員に対して、ASDの研究者が「現在の職場はASDの特性にとって不適切なので、管理者は合理的配慮を行う必要がある」という意見書を作成しました。

そうすると、ASDをもつ会社員が意見書をふりかざして上司を責めたてるようになったため、今度はその上司がメンタルに不調をきたして精神科医に相談するようになった、という事例があったりします。

ASDの研究者は、情報収集によって職場の状況を把握しないまま持論を押しつけました。それによって、ASDをもつ会社員が攻撃的になってしまったのです。

観察者が自身の与える影響を自覚していないと、かえって事態が悪化してしまうことがあるので注意が必要です。

というのも、観察者のナイーブな因果律は、観察対象に影響を与え、新しい現実をつくりだします。それは時に、はなはだやっかいな現実だったりすることがあります。

このような現象を、社会学者アンソニー・ギデンズは「再帰性」と呼びました。ひと昔前の心理学ブームにおける過剰な再帰性については、斎藤環が「心理学化する社会」という本に書いています。


③ 個人の多様な可能性を見落とす

精神科の臨床をやっていると、とんでもなく重症のひとが急に回復して活き活きとするようになったり、長いあいだ(失礼ですが)廃人のような生活を送っていたひとが劇的に改善して驚かされることがあります。

薬が効いたとか、心理療法が効いたとか、そういった治療者の手柄ではなく、たまたま状況が変わったら良くなった、ということが多々あります。

特に、子どもは単に「成長する」ことで問題を乗り越えることができるようになったりするので、とてもエキサイティングです。

俯瞰することによって得られる硬直した理論は、そのような個人の多様な可能性を見落としてしまうリスクがあります。

信頼できるスタッフや同業者に相談したり、自分自身で点検することによって、定期的に診たてや治療方針を疑ったり、見直したり、再設定していく必要があります。


④ 多重化する俯瞰

「奇妙な講演会」でみられたように、俯瞰することはしばしば多重化していきます。

現実的な問題を解決することが目的であるハズなのに、いつの間にか俯瞰すること自体が目的になってしまいます。そして、俯瞰を繰り返すことによって、いつのまにか現実的な問題からますます遠ざかってしまいます。

ところが、生物学的に発達障害の原理が解明されない限り、いくら俯瞰をくり返してもキリがありません。

その結果、観察者は「現場のことを何もわからない・何もできないシニカルなひと」になってしまいます。


共感と俯瞰のあいだで

ASDをもつひとはベタベタした感情のもつれ合いが苦手なので、なるべく生身の自分をオモテに出さず、俯瞰するポジションをとることは、とりあえず効果的な対処行動だったりします。

俯瞰することによって得られた理論に固執して正当性を主張するのではなく、「しょせんこの世はカオスだからワケわかんないよ」という一種の脱力感をもちあわせることによって、ちょうどよいバランスがとれるようになるのではないかと思います。

治療者側がそのような姿勢で診療に臨むことによって、患者さん側にも良い影響が与えられるのではないかと考えています。

ポール・トーマス・アンダーソンの中心気質的な映画


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前回エントリー『中心気質は破綻しやすいか』の続きです。


それにしても、安永浩とポール・トーマス・アンダーソンというありえない組合せ。
Paul-Thomas-Anderson

ポール・トーマス・アンダーソンとは

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は近年最も注目を集めている映画監督のひとりです。
9人同胞中第7子。父はローカルTVで大人気のタレント。
1970年ロサンゼルス生まれ、80年代に青春を謳歌し、90年代に映画監督としてデビュー。
故郷はカリフォルニア州ハリウッド近くのサンフェルナンド・バレー。


生育歴とキャリア

物心ついた頃から8ミリフィルムに親しみ、10歳ころにビデオカメラを手にとってからは撮影に没頭。勉強には興味が持てなかった。高校生の頃から自主映画の製作を開始。名門ニューヨーク大学の映画学科に入学するもののすぐにドロップアウト。ターミネーターみたいな作品をつくりたいヤツは帰れと言われて帰ったみたいな。

タランティーノらと同じいわゆるVCR世代。映画館や映画学校で学ばず、大量のビデオで映画を吸収して勉強。膨大な映画の知識量を背景として作中にはマニアックなオマージュを連発、PTA本人はそれを公言してはばかりません。
先人のマネはりっぱな創作。なのにマネを嫌うひとが多い。楽しんで映画を撮ろうとしないんだ、バカげてるよ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
これは中心気質者の感性と言えるでしょう。
感覚それ自身を大切にする価値観であり、社会規範に従うことや、自己評価を高めることに価値を置くのではなく、体験そのものの楽しさや高揚感に価値を置く。 



 

PTAの中心気質親和性について

中心気質者の病跡学については、斎藤環が西原理恵子・北野武・石原慎太郎・勝新太郎についてそれぞれ秀逸な論考を残していますので、それを参考にPTAの中心気質親和性を確認していきます。

18歳時に制作した短編映画『The Dirk Diggler Story』は、有名子役の没落ぶりを紹介する情報番組のモキュメンタリーです。
浮き沈みの激しいめちゃくちゃな人生に魅力を感じる。麻薬に溺れて没落していく女優とか。悲しみを感じるとともに倒錯的でもあったがおかしかった。病んだ形でユーモアを見出していた。バレーでは珍しくない、変わり者の巣窟。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
中心気質者の特徴「近景における喜劇、遠景における悲劇(斎藤環)」を、PTAはこよなく愛したと言えます。

その後、テレビ番組、ミュージックビデオなどの製作助手として働き始め、23歳、短編「シガレッツ&コーヒー(1992)」が注目されたことからチャンスを掴み、26歳、初の長編「ハードエイト(1996)」を完成させる。


フィルモグラフィ

★27歳「ブギー・ナイツ(1997)」
 興行的・批評的に大成功
★29歳「マグノリア(1999)」
 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
★32歳「パンチドランク・ラブ(2002)」
 カンヌ映画祭監督賞受賞
★37歳「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)」
 ベルリン国際映画祭監督賞・アカデミー賞2部門受賞 
★42歳「ザ・マスター(2012)」
 ヴェネチア映画祭監督賞受賞 
★44歳「インヒアレント・ヴァイス(2014)」 
若干27歳で監督したブギー・ナイツが大ヒット。その後も寡作ながら高評価を重ねる。その後、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドからキューブリックを思わせる重厚な映画を撮って新境地を切り開き、ザ・マスターの時点で三大映画祭の監督賞を全て受賞という快挙を達成。現代映画の若き巨匠という地位を確立しました。


極めて個人的な映画

出世作「ブギー・ナイツ」大ヒットの同じ年、父が他界。父の芸名を冠する制作会社「グーラーディ・フィルム」を地元に設立。「ブギー・ナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」3作品はすべてその近所で撮影され、父の死など身近に起こったことを題材としています。

映画のエンドクレジットは撮影中に亡くなったりした関係者に捧げるものですが、「マグノリア」のエンドクレジットは「faとeaに捧ぐ」として同棲中の恋人と父に捧げています。メイキング映像では、当時同棲していたフィオナアップルとイチャイチャしている光景を大胆にも披露しています。
表裏のないあけすけな印象、その作品の確固としたリアリティ、作品としばしば交錯するかにみえるその生の軌跡
「語り得ないこと」の暴力性−北野武の「顔」


PTAの演出

演出場面では、派手な身振り手振りで縦横無尽に動きまわるPTAの姿が記録されています。
That Moment - The Making of Magnolia documentary
 
好奇心が旺盛で飽きっぽく、優れた身体能力とイマジネーションを持ち、動物的直感で「現在」を生きる。過剰なまでのサービス精神と万人を魅了する愛嬌を発揮しながら、暗鬱で暴力的な作品を作らずにはいられない。

PTAと仲間たち

PTAは仲間と遊んだりふざけたりしている時に偶然生まれたアドリブを脚本に盛り込みます。お気に入りの俳優を何度も起用して、それぞれの持ち味をいかに出すか腐心します。

PTAは役者に対して、ストーリーを動かすための演技ではなく、その時間を生きる人物そのものを表現するための演技を要求します。しばしば俳優の名前がそのまま登場人物の名前になっていたりするほどです。
気に入った役者のために役を用意して、エネルギーが尽きないよう楽しませる。父親のようなまなざしで。それが監督だ。できるだけ多くの役者に活躍してもらいたい。僕はただ楽しい雰囲気を振りまくだけ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
役者個人の魅力を最大限に引き出すことに成功していて、実際に多くの役者がPTA作品で評価されてスターになり、次の作品で再集結しています。PTA作品には、中心気質者同士の交流が生み出す独特の魅力が満ち溢れています。

安永は中心気質者同士の交流こそが精神療法のかなめだとしています。
精神療法の“中心”を貫いているのは、純度の高い「中心気質的交流」なのだ。これが技術や理論武装とうまくかみあい,相互に高めあうように持って行けた時に,最大限の結果が自然と出てくる。その辺を見通す感性と技術こそが真の“技術”なのだ。
「夏・随想――中心気質幻想」
PTA作品を鑑賞することで、中心気質者ないし我々の中心気質的な側面が活性化され精神療法的な作用をもたらします。そのような表現が優れた映像作品として世の中に広く受け入れられているという事態は興味深いと思います。


PTA作品の胡散臭さ

いかさま師・セックスインストラクター・ツーショットダイヤル業者・伝道師・山師・カルト教団の教祖などなど、PTA作品にはだいたい毎回、胡散臭いキャラクターが登場し、彼らのカリスマ性には常に秘密と嘘が内包されています。

自分は「ほんもの」ではない、つまり正当性も根拠もないことをうすうす気づいているがゆえに、彼らの虚妄は肥大化し、やがて破綻へと導かれていきます。

無邪気に「ほんもの」を偽装する彼らの虚妄がどんどん肥大化していく光景を、カメラが距離をおいて冷静かつ客観的に記録しているというズレ感がPTA作品の醍醐味と言えるでしょう。

いったい彼らの虚妄はいつ暴かれるのか?破綻への予感が蔓延するなか、破綻へのカウントダウンを見届けたいという欲望によって観客のテンションは維持されます。PTA作品は長丁場なのですが、あまり時間を感じさせないのはこのためです。

彼らの嘘は少しずつ綻び、やがて「ほんもの」性を保てなくなったその瞬間、「中心気質型破綻」がおとずれます。盛大に破綻する光景はロングテイクでカメラにきっちり記録され、PTAの非凡な演出力はここにおいて極まります。


PTA作品から導かれる治療論的視点

さて、破綻した者はその後どうなるのか?

いくら惨めになっていても、ほとんどの場合は最終的に救われています。破綻する光景を冷静に記録することは人間を突き放しているようにもみえますが、PTAは時にセンチメンタルと言えるほど登場人物に接近し、あたたかいまなざしを注ぎます。

PTAはその中心気質親和性によって中心気質的な仲間達と交流して中心気質的な登場人物を演出し、彼らの『内在する欠陥』を承認し擁護しています。それは危機に瀕している中心気質者≒発達障害者に対峙した治療者がとる精神療法的態度に通底するかもしれません。

インヒアレント・ヴァイス(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2015-08-19

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