カテゴリ:


前回からの続きです。ここからいよいよイタールの療育が始まります。


快進撃からの作戦放棄

1801年1月、新世紀の始まりとともにイタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が開始されました。 

イタールは若くて情熱があったことと、もともとド素人の外科医だったことが逆によかったのでしょう。ヴィクトールに根気よく関わり、数々の独創的な療育方法を編み出し、療育開始数ヶ月で少しだけ言葉の理解ができるようになるなど、快進撃を続けていました。

しかし、言葉の習得に限界がみえはじめ、1805年にはほとんど療育をあきらめていたようです。

1806年5月、イタールはヴィクトールの療育を終結しています。

療育の「プロセス」は素晴らしかったのですが、「成果」はほとんどありませんでした。また、最初の目標を修正することなく突き進んだ挙句の果てに作戦を放棄するという最悪の展開になりました。

イタールは自らの成果についてこう語ります。
この少年の肉体的道徳的な能力とはこんなものであったから、彼は彼の属する種族の最低、いや最も下等なケモノの中でも最下位に位置するものであった。彼が植物と違っていたのは、彼には動くことができ、音を出すことができただけ、ただそれだけだったとさえ言える。そのケモノ以下だった時とヴィクトールの現在の状態の間にはものすごい距離がある。
アヴェロンの野生児―禁じられた実験
ロジャー・シャタック
1982-03





ヴィクトールが「ケモノ以下」にみえたのは、ネグレクト状態になっていたためなのですが、それにしてもイタールはヴィクトールの能力を低く見積もりすぎています。
 


言語習得における臨界期/敏感期

ヴィクトールに言語取得の限界があったのはなぜでしょうか。現在では、言語習得に必要な臨界期/敏感期(※)があることが知られています。

臨界期/敏感期とは
たとえば、アヒルが生まれて初めて目にした動くモノを親と認識したり、幼い小鳥が求愛のさえずりを親鳥から学んだりと、期間限定でしか学習できない種に固有な習性がることが知られています。このような、ある行動学習が可能になる一定期間のことを「臨界期/敏感期」と呼んでいます。

人間の言語習得にも臨界期/敏感期があると考えられていて、諸説ありますがだいたい2歳から12歳のあいだではないかといわれているので、ヴィクトールの療育開始は遅すぎたのかもしれません。

しかしながら、イタールの療育はとても奇妙な環境で行われていることから、むしろ治療者側の要因を検討して「失敗から学ぶ」ことが重要でしょう。


イタールの療育が失敗した5つの理由

① 哲学にハマっていたこと 

イタールは哲学者コンディヤックを信奉するあまり、目の前の患者をより良い方向へ変化させることよりも、コンディヤックの学説が正しいことを証明することに執着していました。

信心深い治療者にありがちなことなのですが、エラい先生の治療理論が正しいことを証明するために患者の治療にたずさわってレポートを作成し、エラい先生の目の前で発表してほめてもらうという浅ましい儀式は、今でも精神科医療の領域ではめずらしくなかったりします。

しかも、イタールはヴィクトールの処遇について全権を掌握した事実上の養父という強力な立場にあって、ヴィクトールには選択肢がなかった状況のなかで、自分が信じる思想に染め上げようとしたわけで、とても罪深い行為だと思うわけです。

② リソースを活用しなかったこと

コンディヤックの学説に従って、ヴィクトールはまっさらな白紙「空白の石版」であり「ケモノ以下」と想定されていました。それによって、彼がもともと持っていた能力が低く見積もられることになりました。

ヴィクトールはロデーズにいたころにはすでにある種の社会性をみにつけていて、高い動作性知能をもっていることが記録されており、ジェスチャーをはじめとして動作言語を使えるようになっていました。

しかも、療育の場所は「パリ国立ろう学校」であり、動作言語を発展させて手話を学ばせるには絶好の場所でした。

しかし、イタールはあくまでもオリジナリティにこだわり、ヴィクトールの能力や療育環境のリソースを有効活用することができませんでした。

③ 子どもと交流させなかったこと

イタールは、他の子どもたちと関わることをさせずに隔離実験を行いました。子どもというまっさらな白紙「空白の石版」に教師が書き込んで「立派な大人」へ導くことができる、と思っていたがゆえの失敗です。

心理学者のジュディス・リッチ・ハリスは、行動遺伝学や進化心理学の膨大な知見から、子どもは子ども集団に所属して集団活動を通じて社会性を身につけていくという「集団社会化説」を提唱しています。


彼女の著作には「ろう学校」における言語習得において興味深いエピソードが紹介されています。

子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
ジュディス・リッチ・ハリス
2017-08-24


1980年代の南米ニカラグアで「ろう」の子どもたちに手話教育が始まったときの様子です。一堂に集められた子どもたちは会った瞬間からお互い身振り手振りで意思を伝え始めたのです。
子どもたちは瞬く間に自分たちの間で共通語をつくり上げてしまいました。一種の混合手話のようなもので、完全な言語体系とはいえないまでも、共通する文法らしきものもあり、何よりも意思疎通を図るにはもってこいでした。それ以降、子どもたちは独自の手話をつくりつづけています。その言語は単なる指差しや身振りの体系ではない、それはすでに完全な自然言語へと発展したのです。
環境設定をするだけで自律的にプロトコルが生成されて言語学習が始まったという事例です。

子どもにとって言語は、単なるコミュニケーションのツールではなく、仲間集団における「会員証」であり、集団の文化や規範を形成して仲間意識を育むことと密接に関わっています。ゆえに、言語習得や社会性の獲得には親や教師よりも仲間集団の存在が不可欠であるとされています。

イタールは言語習得のために仲間集団を利用することなく、ただ教師として言語の知識を伝えることしかできなかったことに無理があったのかもしれません。

ただし、ヴィクトールは自閉スペクトラム症だったのではないかという説があり、集団に入れなかった可能性はありますが、それはまた別の機会に検討しようと思います。

④ 思春期の問題に向き合わなかったこと 

ヴィクトールは、第二次性徴が現れたころから興奮して感情を爆発させたりと手に負えない状態になることがあり、たびたび療育が中断されました。これに対してイタールはなんと「瀉血」を行うことで対処していました。

ヴィクトールが女性に興味を示しながらも、どうしていいかわからずに困っている様子を観察したイタールは、ヴィクトールが性的衝動のために苦しんでいると考え、どうするべきか悩みます。
われわれの野生児は、この欲求を教えられたら、他の欲求と同じように、自由にまた公然と満たそうとして、言語道断なみだらな行為に及ぶのではないかと、心配せずにはいられませんでした。

私は、そうした結果を招くのではないかという恐怖におびえ、思いとどまらなければなりませんでした。また、他の多くの場合と同じように、思いもかけない障害の前に希望が消えてゆくのを、あきらめて眺めていなければなりませんでした。

閣下、以上が、「アヴェロンの野生児」の感情能力の系統に生じた初変化のいきさつでございます。この部門によって、生徒の四年間にわたる発達に関する全事実が完了したことになります。

新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)
報告書の最後が「思春期の問題に向き合うことができなかった」というエピソードで終わっているのが興味深いところです。

思春期の問題は仲間と共に乗り越えていくものなので、仲間のいないヴィクトールには非常に困難な課題だったことでしょう。最終的には養父であるイタールがなんらかの対処をしなければならなかったのに、逃げたままで報告を済ませてしまったようです。

⑤結局は見捨てたこと 

イタールはヴィクトールの療育だけを専属で行っていたわけではありません。気胸に関する医学論文を投稿したり、パリの中心街にクリニックを開業したりと精力的に活動していました。

ヴィクトールの療育に行き詰まった頃にはすでに他のことに関心が移っていて、ヴィクトールのために開発した手法を用いて、少しだけ聴力の残っている「ろうあ学校」の生徒たちを訓練して論文を作成していました。

また、4年間の療育を終結して以降、イタールがヴィクトールのことを語ったり会いに行ったりした記録は残っていません。

ヴィクトールは「ろう学校」のすぐ近所に引っ越してゲラン夫人と暮らしていたのに、一切の関係がなくなったことに驚きます。

その後イタールとヴィクトールはどうなったのか、後日談をまとめてみたいと思います。