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高い開放性をディスプレイするには


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高い開放性をディスプレイするには

前回の「高い開放性の魅力と代償」では、パーソナリティ特性「ビッグ・ファイブ」のうち「開放性」は、若者にとって魅力的な特性であり、人気者になるためにはなんとしてでも身につけておきたい特性であることを説明しました。

ですが残念なことに、気質は遺伝的な要素の大きい才能なので、みなに等しく与えられているわけではありません。

素質的に開放性が高くないひとが手っ取り早く人気者になるためには、なんらかの方法で「高い開放性を身につけている」というシグナルを発しなくてはなりません。

つまり、安上がりでそこそこ信用できる「高い開放性のバッジ」をディスプレイする必要があります。


開放性と寄生虫

アメリカの心理学者ジェフリー・ミラーの著書「消費資本主義!」にとても興味深いことが書かれていたので紹介します。

重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域では、住人の開放性や外向性が低くなることがあるそうです。

好奇心旺盛で社交的なひと、ビッグ・ファイブにおける開放性や外向性の高いひとは、新たな病原体と接触して感染するリスクを負うことになりやすいので、子孫を残す確率が減ってしまうからです。

第二次大戦後、予防接種が世界的に普及した恩恵を受けることになった最初の世代であるベビーブーマーたちは、開放性や外向性が高い傾向があるためヒッピー文化・人種間の寛容・国際主義・リベラル思想が浸透したことや、逆に1970年代末からのエイズや性感染症の流行に直面した世代に、排外主義や右傾化が進んでいることにも関連しているかもれない説があったりして興味深いところです。

もしかしたら世界の調和と自由を促進するのは国際連合ではなく、感染症対策やワクチンの普及に貢献している国境なき医師団やビル&メリンダ・ゲイツ財団なのかもしれないとジェフリー・ミラーは推察します。


開放性と自傷行為

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それはさておき。奇妙なことに、重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域において、しばしばタトゥーやピアスなど身体を傷つけて装飾をほどこす文化があったりします。

なにゆえ、あえて感染リスクに身をさらすような行為をしてしまうのか、とても理解に苦しむところです。

一方で、このような自傷行為による装飾は、神聖なものであり社会的ステータスの証になっていたりします。

考えられる自傷行為のメリットとしては、病原菌におかされて病気になったり傷口が化膿したり変形したりすることなくキレイに治っている姿、つまり免疫力が強靭であり健康な個体であることを、これ見よがしにアピールしている説があります。


自傷行為とメンタルヘルス

感染症の危険がない社会においても、メンタルヘルスの問題から自傷行為をしてしまうひとがいます。自傷行為は周囲の人々を動揺させて注目を集める効果があり、集団の中で際立った存在になることができます。一時期、ファッションとしてのリストカットが流行したのも、このような儀式的行為の名残りなのかもしれません。

とはいえ、自傷行為をするひとはメンタルヘルスの問題を抱えていて、ハイリスクな最終手段に頼らざるを得ないほど追いつめられているのでサポートが必要なことには変わりありません。


寄生虫感染からミーム感染へ

ジェフリー・ミラーは、現代社会において寄生虫による重い感染症の恐怖がなくなった代わりに、エキセントリックでサイケデリックな文化によるミーム感染の恐怖は健在しているのではないかという興味深い指摘をしています。

ミーム/meme/模倣素とは、論者によっていろんな定義がありますが、ざっくり説明してみます。遺伝子が物理的に生物学的情報を担うのに対して、ミームは文化的情報を担うもので、旋律・観念・キャッチフレーズ・ファッションなど、マネすることで人間の脳から脳へ伝播して文化・慣習・技能を形成したりします。

高い開放性のシグナルに信頼性をもたせるには、それなりのシグナリング・コストを払わなくてはなりません(高い開放性の魅力と代償)。なじみやすいポップでほっこりしたミームではなく、ギョッとして思わず眉をひそめるようなドぎついミームにさらされなくてはいけません。
tokyodandy
たとえば独断と偏見でリストアップしてみると、フェデリコ・フェリーニ、デヴィット・リンチ、ダーレン・アロノフスキー、ポン・ジュノ、園子温、ニルヴァーナ、レディオヘッド、ビョーク、シガー・ロス、ゆらゆら帝国、電気グルーヴ、フジロック・フェスティバル、ドストエフスキー、カフカ、トマス・ピンチョン、三島由紀夫、寺山修司、筒井康隆、町田康、阿部和重、伊藤計劃、つげ義春、荒木飛呂彦、古谷実、望月峯太郎、花沢健吾、ヴィレッジ・ヴァンガード、フランシス・ベーコン、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ。そして精神分析、精神病理学、精神分裂病→統合失調症。

高い開放性をディスプレイしてシグナルを発するためには、かつてタトゥーやピアスで伝染病のリスクに身体をさらすことで免疫系の強靭さをアピールしたように、ミーム感染のリスクに精神をさらすことでメンタルの強靭さをアピールしているのではないかと。

つまり、「こんなにヤバいモノを大量摂取しているのに健全な精神を保っているオレ、最強」なわけです。このへんのひねくれた思索がジェフリー・ミラーの真骨頂です。

というわけで、次回は開放性、クリエイティビティ、統合失調症の関係についてまとめてみたいと思います。

共感のダークサイド


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ダークサイド・ムーン
いいことずくめのようにみえる共感にもダークサイドがあるようです。



共感の時代?

共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること
フランス・ドゥ・ヴァール
紀伊國屋書店
2010-04-22





動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは、チンパンジー社会でも観察できる共感能力が、ヒト社会において薄れているのではないかと危惧しています。「競争こそが進化の本質であり人間のあるべき姿である」という『利己的な遺伝子』に開き直って利益のみを追求する「強欲なアメリカ的資本主義」を「共感欠如の病理」として批判しました。

あまりピンとこないんですが、これは現代においてリアリティーのある指摘でしょうか?

むしろ今や「共感」は絶対的な善であり神聖なモノとして祭り上げられているのではないでしょうか?たとえば、【これはひどい】というタグのついた共感を呼びおこすエピソードは、インターネットを通じて世の中を席巻しています。

そもそも『共感するロボットを設計すること』でみてきたように、「共感」はひとつの「機能」であって、それ自体はニュートラルなものです。使い方次第で良い面も悪い面もあらわれてくることがあるので、そこに価値観を持ち込む必要はありません。

また、「共感欠如の病理」があるのと同時に「共感過剰の病理」も存在していて、精神科臨床ではどちらかといえば後者の方がやっかいな問題だったりします。


精神科医の仕事は共感すること?

一般的に、精神科医は「共感」することが仕事だと思われています。確かに共感することは診療の第一歩として重要ですが、それだけでやっていけるわけではありません。

むしろ逆に、共感能力はあらかじめ誰にでも備わっているものなので、精神科医になってからは共感のスイッチをオフにするトレーニングが必要になったりします。

よく「患者さんに影響されて“うつ”になったりしませんか?」と心配されたりするんですが、共感をずっとオンのままにしていたら身がもちません。いつまでも患者さんに共感しすぎて右往左往ふりまわされている医師は一人前であるとみとめられることはありません。

患者さんに共感しすぎてしまうと冷静さを失って客観的にみれなくなるため適切な判断ができなくなるリスクが高まるからです。なので、医師は自分の家族が病気になったら別の医師に診てもらいます。たとえば、かつて天才と呼ばれていた高名な精神科医は、妻が精神科疾患を発症していることに気づくことができませんでした。研修医でも診断できるほどに病状が進んでいたにもかかわらず、です。

加えて、精神科疾患には境界性人格障害、解離性障害、依存症などなど「安易に共感されることで悪化する病態」がたくさんあります。

また、メランコリー親和型性格や過剰適応といわれるひとたちは、他人に対して過剰に共感してしまうことで消耗し、病状が悪化することがあります。

つまり、医師と患者さんの関係のみならず、患者さん自身にとっても「過剰な共感」によって失われるものは大きいわけです。


共感によって失われるもの

反共感論/Against Empathy というおもしろい本があります。共感を無条件に称揚する風潮に対するアンチテーゼなのですが、安易にサイコパスを称揚したりする本ではありません。共感のダークサイドをまとめつつ、バランスのよい批判を展開しています。
もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。

しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

反共感論―社会はいかに判断を誤るか
ポール・ブルーム
白揚社
2018-02-02


以前とりあげたように、共感には大きくわけて情動的共感と認知的共感というふたつの異なるシステムがあります(共感のバランス)。

認知的共感のダークサイドとして、
「認知的共感」は、善きことをなす能力として過大評価されている。つまると ころ、他者の欲望や動機を正確に読み取る能力は、上首尾の〔警察に捕まっていない〕サイコパスの特徴でもあり、残虐な行為や他者の搾取に利用し得る。
と、軽く触れていますが、この本で問題としているのはおもに「情動的共感」についてです。

共感の機能には「限局性」という特徴があります。同時に共感できる相手はせいぜい数人で、たくさんのひとたちに対して同時に共感することはできません。つまり、共感はスポット・ライト的に作用するので、視野が狭くなってしまい、しばしば道徳的な判断を間違えることになります。

たとえば、最近みた映画『デッドプール2』と『万引き家族』。どちらもすばらしい作品なのですが、共感のスポットライト作用が存分に発揮されています。

『デッドプール2』では、虐待を受けていた14歳の少年を救うために、とある組織の構成員を主人公たちが殺しまくります。

『万引き家族』では、これまた虐待を受けていた4歳の女の子を救うひとたちが、犯罪を繰り返していたりします。

どちらとも虐待されている子どもが登場して、あまりにもかわいそうな場面をみせつけられるので、観客は思わず感情移入してしまいます。その結果、子どもを救う側のひとたちが悪に手を染めることは、もはやどうでもいいことのように思えてしまいます。

現実でもこのような事態は枚挙にいとまがありません。冷静に考えるとこれはとても危険なことで、過度な共感は道徳的な判断をするときには有害であることが指摘されています。


共感に抵抗することがむつかしい理由

著者のポール・ブルームは、共感に抵抗するために「理性の力」を重視しています。しかしこれはとても困難な道のりです。

『共感の起源としての群れ/共感を媒介するオキシトシン』でみてきたように、共感という機能は生物が群れをつくる能力から脈々と受け継がれていて、脳の報酬系はいまだに共感ベースで作動しています。つまり、共感にもとづいて行動を起こすことで脳はキモチイイというシグナルを発してしまうのです。

さらに、ツイッター等のSNSを介して共感を瞬時に増幅・拡散させることがインターネットによって可能になっています。

情動的共感は扁桃体を介して作動することに関連して、反共感論の訳者である高橋洋氏は、『ツイッターはインターネットの扁桃体』と指摘しています。

このように、脳から社会インフラのレベルまで浸透している共感というシステムに対抗することは難しいのではないかと思ってしまいます。なにか別のシステムを想定することで、乗り越え可能なのかどうか、これから考えていきたいです。

ところで、他人に共感することが苦手な自閉スペクトラム症のひとは、ルールに沿って公平な判断をするため、普通のひとよりも道徳的である場合が多いことが知られています。

案外その辺がヒントになるかも知れません。

直観像素質と言語能力の相乗り


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直観像素質者とは

直観像とは,像が心の中といった場所ではなく目の前に定位し,文字通り目に見えるという主観的印象を伴って現れる心的視覚イメージの一種である。
つまり、パッと目にした映像を鮮明に記憶できる能力です。子どもの頃はけっこうこの能力を持っているのですが、発達にともなって失われるという説があって、それを生涯もっているひとのことを直観像素質者といいます。

ちなみに、酒鬼薔薇聖斗こと少年Aを精神鑑定した中井久夫は、彼を直観像素質者と鑑定しました。


テンプル・グランディンの視覚型思考

 私の場合はGoogle画像検索のように 具体的な画像が次々と浮かんでくるんです
「靴」という言葉が発せられると 50年代60年代の靴がたくさん 私の脳内に浮かぶんです

天才的頭脳をもったASDとして有名なテンプル・グランディンの視覚的思考は、どうやら直観像素質のことを言っているようです。


直観像記憶と言語のトレードオフ仮説

直観像素質は直観像記憶とか映像記憶とも言われていて、人間の子どもだけでなく、チンパンジーの子どもにもこの能力があることが、京都大学霊長類研究所の実験によって明らかになっています。
チンパンジーの子どもはすべて直観像記憶をもっている。ということは,種全体としてみて,チンパンジーのほうが人間よりも,瞬時に細部を記憶する能力において優れていると考えられる。


直観像素質を持っていた方が自然界で生き延びる上で有利だったんでしょうが、それならばなぜこの能力が失われていったのでしょうか。

生の映像データをいったん表象(アイコン)としてとらえて、さらに象徴(シンボル)にまとめる作業、すなわち言語を操作する能力にとって変わられたのではないか、という「直観像と言語のトレードオフ仮説」という回答があります。

例えば、5,000,000,000Bの動画が5,000,000Bの画像へ、さらに5,000Bの文章へとデータが圧縮されていきます。これによって情報処理が格段に効率よくなって、パターン認識など抽象的な思考ができるようになるでしょう。

PCであればアプリをインストールしてカンタンにできることなのですが、生物には構造的な制約があるので100万年以上かかって進化しないといけないし、メモリー増設してふたつの能力を両立させるのではなく、ひとつの能力を犠牲にしなければ新しい能力を手に入れることができなかったようです。


読書する脳

運動性言語中枢は脳にある「話す」ための構造があって、その部位を障害されると運動性失語症になります。

一方で、学習障害のなかに読字障害(ディスクレシア)がありますが、「読む」ための構造、つまり読字中枢なるものは脳のどこを探しても見当たりません。

読字中枢が障害されたからディスクレシアになった、という単純な話ではありません。
脳には読字専用の遺伝子もなければ、生物学的構造物も存在しない。それどころか、文字を読むためには、本来、物体認識やその名称の検索など、他の作業のために設計され、遺伝子にもプログラムされている古くからの脳領域を接続し、新しい回路を形成することを、一人一人の脳が学ばねばならないのだ。
プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?
メアリアン・ウルフ
インターシフト
2008-10-02


つまり、人間ははじめから読書できるように設計されていないので、生まれた後で新しいネットワークを自動的に作動させるシステムを発達させないといけないのです。


ニューロン・リサイクリング仮説

フランスの脳科学者スタニスラス・ドゥアンヌは、この読字中枢を「レターボックス」と名づけ、形態を認識する脳の部位を読字能力に再利用するという「ニューロン・リサイクリング仮説」を提唱しました。
レターボックスは,脳の可塑性の高い部位に発生し,そこに定着する。読字能力を鍛えない場合,レターボックスができるはずだった場所には,他の視覚認知(道具,家,顔など)が進出する。
これは京都大学霊長類研究所の「直観像記憶と言語のトレードオフ仮説」と似たようなことを言っています。


文字には自然が組み込まれている

私たちが読字という超人的能力を持っているのは、文字を読むように進化したからではなく、表記が人間の目にうまく合うように進化したからだ。
ひとの目、驚異の進化: 4つの凄い視覚能力があるわけ
マーク チャンギージー
インターシフト
2012-10-20





アメリカの理論神経生物学者
マーク・チャンギージーは、まさに逆転の発想で、ニューロン・リサイクリング前の(自然に適応していた)形態を認識する脳の部位≒直観像素質に合わせて、人工物である文字の方が進化し、ひとが読み取りやすい形態をとるようになった、つまり、文字には自然が組み込まれている、と考えました。

それを証明する方法がめちゃくちゃエキサイティングで、自然界の形態を認識する特徴と、あらゆる文字の形態を認識する特徴が一致していることを証明するために、それぞれを要素に分解して頻度分析を行いました。すると、両者の出現パターンが完全に一致しているというわけです。
エレメント
ここから導き出されるのは、自然が淘汰されるように文化も淘汰される、そのインターフェイスとして脳が介在しているというコンセプトです。そう考えると、どちらの能力が原始的か先進的かではなく、いずれも相対的なものであると理解できるようになります。

とあるタイプのASDやディスクレシアを矯正すべき能力の欠如とか障害ではなく、とある能力の偏位とか能力間のアンバランスなどの多様性として理解しやすくなるでしょう。


動作性IQと言語性IQのトレードオフ

知能検査をして知能指数IQを測定すると、動作性と言語性2つのIQが測定できます。ざっくり言うと、

動作性IQは、目で見て手を動かす能力
言語性IQは、耳で聞いて言葉を使う能力

最近は、言語性-動作性の2分法ではなくて、動作性IQを知覚統合と処理速度、言語性IQを言語理解と作業記憶に分ける4分法で解釈することが推奨されていますが、実際にはどちらかに偏るケースが多いので、ひとまずざっくりと理解する上では2分法がまだまだ有用だったりします。

学校教育はまだまだ言語性IQが重視される傾向があるので、言語性知能が優位なひとが有利になって、動作性知能が優位なひとは不利だったりします。一方で製造業の現場であれば、口ばっかりで手が遅いひとよりも黙々と手を動かすひとの方が有利だったりします。

つまりは結局のところ環境次第なので、知能検査の細かい項目についてアレコレ議論するよりも、さっさと環境を変えてしまった方が早く問題を解決できたりします。

IQってホントは何なんだ?
村上 宣寛
日経BP社
2007-08-09






「イエ」の呪縛について


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イングルハートの価値マップ

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国民性による価値観の違いをマッピングして俯瞰すると何がみえてくるのか?

アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートは、全世界の人々の価値観をプロットするために、ふたつの文化的な対立軸を設定し、大規模なアンケート調査を行いました。

縦軸は、「伝統的価値 Traditional Values」と「世俗ー合理的価値 Secular-Rational Values」。
伝統的価値というのはたとえば権威や伝統的な家族の価値観を尊重し、宗教/親子関係を重要視する一方で、離婚/妊娠中絶/安楽死/自殺を否定するような価値観。世俗ー合理的価値というのはこれらにとらわれない価値観が想定されている。

横軸は、「生存価値 Survival Values」vs「自己表現価値 Self Expression Values」。
生存価値というのは生きて行くのに精一杯であること、自己表現価値は生きていく経済的な力はあるのでその上で自己表現に重きを置く、LGBTに代表されるような多様な生き方を認める価値観といったニュアンス。
まとめると、
左下が「生きていくだけでせいいっぱいの、掟や慣習でがんじがらめになった閉鎖社会(伽藍)」、右上が、「ひとびとが自由に“自己実現”できる開放社会(バザール)」です。
産業が発展して生活水準が向上するごとに、左下から右上へ価値観が変化しますが、地理や宗教や文化圏にかなり影響されていることがわかります。

日本はムラ社会だ、とよく批判されますが、イスラムやアフリカはもちろん、ヨーロッパ・カトリック圏の方がよほどムラ社会だったりして、大したことないのがわかります。

日本人の特徴は、儒教文化圏の中でも世俗合理的価値観が異様に突出していることです。ただ、地縁血縁などの伝統にとらわれないわりには、自己表現が控えめであることがもうひとつの特徴といえるでしょう。それでは、日本人の自己表現を阻むものはなんなのでしょうか?


「イエ」という概念

「イエ」とは、家という建物(ハコモノ)を基礎的単位とした、労働の組織化を起源とする生活保障の単位のことです。起源は家族経営の会社で、けっこう柔軟で拡張性が高かったみたいで、優秀だったら血縁のないひとを養子縁組によって迎え入れたり、血縁があっても役目を終えたひとを隠居させたりと、変幻自在な組織でした。

集団としての秩序だけでなく、そこには情愛があってそれによって構成員を結束させるわけです。

具体的には、学校とか会社とか団体など、家庭のしがらみは持ち込まないけど、たまたま一緒になったメンバーによって構成されて仲間意識・共同体意識が生じます。


アンビバレントな「イエ」

戦後日本の会社は、新卒一括採用・年功序列・終身雇用で、社会保障まで担っていたりします。会社がセーフティーネットを担っているのは、自殺率と失業率の相関していることから明らかです。
失業率と自殺率の推移
共同体の本来の機能は安全保障システムなので、安心を与える代わりにメンバーを拘束します。

たとえば、勤務医は当直があったりするので、病院内で夕食をいただいて風呂に入って寝たりと、「生活」します。なので病院はまさに「イエ」だったりして、独特のしがらみが生じてしまうわけです。

となると、みんな学校や会社が大好きで大嫌い。グチりながらしがみつくアンビバレントな存在なのです。職場のことをけたたましくグチるひとほどなかなか辞めずに永いこと居座っている現象ってよくあると思います。


「イエ」の呪縛

日本人は、英語圏やプロテスタント圏ほど個人主義を徹底して叩き込まれていないので、ひとりで生きていく術を知らないから不安になりがちです。なので、戦後性急に解体された
地縁血縁の代わりに「イエ」の存続を重視するようになったようです。

イエの安全保障感は頼もしいのですが、時に、仕事や職責よりも会社に所属することがアイデンティティになったり、時には法律よりも会社独自の規則を優先したりすることで、不祥事の温床になってしまったりと、なにかと機能不全が目立つようになっている昨今です。

精神科クリニックの外来には、転職したり独立したりする能力があるのにも関わらず、「イエ」の呪縛にとらわれていて苦しんでいるひとがたくさん来るので不思議だなと思っていろいろ調べてみました。

(日本人)
橘玲
幻冬舎
2014-08-07


「傲慢な援助」を読む


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「THE WHITE MAN'S BURDEN」William Easterly 著 東洋経済新報社


傲慢な援助
ウィリアム・イースタリー
東洋経済新報社
2009-09-04



面白い本を読んだのでご紹介します。「貧困問題と開発経済学」という精神科医療とあまり関係がなさそうなジャンルの本ですが、援助者として学ぶところが大きかったので。

本書の問題提起はこうです。

第一の悲劇「貧困が存在すること」は雄弁に語られるが、
第二の悲劇「多額の援助が貧しい人々に届かないこと」は語られなのはなぜか。
貧しい国では薬が流通しにくいのに、
先進国ではベストセラーがあまねく流通するのはなぜか。


著者紹介

1957年,ウェスト・バージニア州に生まれる.1985年,MITで経済学博士号(Ph. D.)取得.世界銀行に入行.1985-87年には西アフリカ,コロンビアの融資担当エコノミストとして,以降2001年まで調査局のシニアアドバイザーとして世界各地を飛び回り,数多くの会議やセミナーに出席し,多数の論文を書くなど,「経済成長分析」の専門家として精力的に活動.2001年世界銀行を退職.現在はニューヨーク大学経済学部教授.そのほかブルッキングス・インスティテューションの非常勤シニアフェローも務める.


プランナー vs サーチャー

本書では、プランナーとサーチャーというふたつの援助者像が対照的に提示されます。カール・ポパーの二分法「ユートピア的社会工学(革命)vs 段階的民主改革(改革)」に近いものだそうです。


プランナー

  • 壮大なユートピア的計画を喧伝する
  • 人々の期待を高めるが、その実現に責任を負わない
  • 善意に満ちており、他人にも善意を強要する
  • モチベーションは与えない
  • 自分は問題に対する答えを全て知っている
  • それに従えば問題は解決すると思っている
  • 一方的にできもしない解決策を押し付ける

サーチャー

  • 必要な人に必要なサービスを届けるだけ
  • 個別の行動に対して各々が責任を負う
  • うまくまわる仕組みを考える 
  • 成果をあげれば得をするインセンティブを与える
  • 問題は多元的・複雑であると理解している
  • 事前に答えは分からないと認めている 
  • 試行錯誤を繰り返して解決策を探る

もうおわかりのように、プランナーはヤバいからサーチャーであるべきだと言うことで、プランナーがどうヤバいかと言うと、
  • 左派は国家主導の貧困との戦いが好き・右派は慈善精神に基づく帝国主義が好き、というわけで両陣営から支持されやすい。
  • プランナーはわかりやすい物語で感情に訴えるので支持されやすく、主人公気分にひたることができる。
  • プランナーは貧しい人々に関心があるのではなく、自分たちの虚栄心を満たすことに関心がある。
  • プランナーにはフィードバックとアカウンタビリティが必要ないからラク。


貧困の罠

貧困こそが諸悪の根源!なので、なんとしてでも援助しなくてはならないのか?

実際には、外国援助と貧困国の成長には相関がなく、貧困国も自力で成長できることが明らかになっています。成長できない場合の要因は貧困よりもその国の政治体制だったりするので、民主化して自由市場化すれば成長しやすかったりします。


プランニングできない市場

信頼にもとづいて交換し、互いが利益を得る「市場」という発明は、自然発生的なものであり、トップダウンで自由市場を導入することはできません。赤の他人に対する信頼度と経済成長率は相関します。貧しい国ほど特定の部族や親族が富や権限を独占し、属人的で限られたネットワークしか構築されず発展しにくいのです。また、所有権によってインセンティブが生じ、市場は有効に機能するようになります。


プランナーは悪いひとたちと結びつきやすい?

民族紛争・天然資源産出・不平等な農業社会では民主主義が成立しにくいと言われています。民衆の教育水準が低い場合、民主主義が成立しても恐ろしい政府が生まれることがあります。たとえばポピュリズム。本来の政治的目的以外の利己的な計略のために政治家が憎悪を煽り、民衆をチェスの駒のように扱って分断し、内紛が起こって民主主義が成立しにくくなって経済は停滞しやくなります。悪い政府への援助収入は腐敗したインサイダーを潤し、かえって民主化を遠ざけるため、原則は非介入にすべきであるという考えです。


富者に市場あり、貧者に官僚あり

貧者はニーズを伝えることがなかなかできないので、援助機関がニーズを決定し官僚が執行します。官僚は貧者よりも援助者を満足させようとしますが、プランナーは「壮大な計画」でないと満足しないため、成果を上げることよりも目標を設定することで評価されて、成果は見えにくくなります。成果を可視化して外部からの評価を受け入れ、外部に対する説明責任を負うべきです。


自国の発展は自前の発想で

援助なしに成長したかつての日本は、自前のサーチャーだったそうです。近年の経済成長国ベスト10はそれぞれ独自のシステムで成長・外国援助はゼロか微小ですが、その一方で、ワースト10はマイナス成長なのに外国からの援助は莫大です。これが、欧米の偉大なる指導のおかげだと言うのはあまりにも滑稽過ぎます。


成功の必要条件

  • フィードバックとアカウンタビリティを得るために市場を活用したこと。
  • ユートピア的目標を掲げてそれをみんなの責任にする最悪のシステムをやめること。
  • 具体的成果を目標とし、それぞれの目標に対してそれぞれの担当者が責任を持つこと。
  • 他国に対する思い上がった信念をすてて謙虚に、過度な干渉をしないこと。
  • 援助の目的は、個人の生活をよくすることであって、政府や社会を変革することではないと知ること。


まとめ

賢明で偉大なる指導者が描いたヴィジョンによってなされる施策はどうやらうまく機能しないことにみんな気づき始めています。自由な市場が機能して経済成長を促す場をつくることこそが成功の条件であり、そのための制度やインフラを整えることが援助者の役割であると。


精神科医療にあてはめてみると

医療福祉系において、過剰に意識の高いひとは「プランナー的援助者」になりがちです。プランナー的援助者は患者さんや周囲のひとを依存させがちで、しばしば患者さんの自由を制限して管理的になってしまいます。このような状況においては、患者さんのための資源が援助者の承認欲求を満足させるために浪費されてしまいます。

サーチャー的な援助者は、患者さんの可塑性と成長を信頼しています。自由度を高めて試行錯誤を重ね、成長を促します。また、問題を多元的にとらえて試行錯誤を重ねて解決を指向する、つまり問題をシステムとしてとらえる解決志向ブリーフセラピーに通じる考え方です。

基本的にはこれが望ましい援助者像だと思いますが、サーチャー的な援助者は黒子みたいなものなので地味でパッとしなかったりするので、たとえ間違った方を向いていてもわかりやすくて頼りがいのあるプランナー的な援助へと流れてしまいがちなのではないかと思う今日この頃です。


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