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滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その1


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とある団塊世代の児童精神科医

ぼくは精神科医になったときから児童精神科領域に興味があったので、有名な児童精神科医の話を聴きに行ったりしていました。たまたまなのか、団塊世代とその周辺の児童精神科医がよく目立っていたので何人か観察していました。

その結果、独断と偏見で申しわけないのですが、団塊世代の児童精神科医の特徴が3つほどあって、、、
  1. あつかましくてあつくるしい
  2. うさんくさくてカルトっぽい
  3. 思いこみがはげしくてロジカルじゃない
たまたまぼくの行動範囲にそんなひとが多かっただけだと思うのですが、そんなわけで当時のぼくは児童精神科領域から距離をとろうかな、と思うようになったりしていました。

そんな中、ひときわ異彩を放っていたのが滝川一廣先生でした。

滝川先生は団塊世代ど真ん中なのにとても聡明だったので興味をもちました。最初の印象は、声が小さくてナニしゃべってるのかわからないひとでしたが、よくよく耳をすまして聴いてみると、シャープでロジカルかつ独創的な発想をもったひとだったので、著作を読み漁るようになっていました。

児童思春期の臨床に携わるようになってから、はじめのうちはよく参照しながら取り組んでいました。それから10年ほど経て、自分なりのスタイルで診療をするようになってからはあまり参照することもなくなっていましたが、いつも頭の片隅には滝川先生の言葉が残っていたように思います。

ある研究会で滝川先生とちょこちょこお話させていただくようになって、「子どものための精神医学」を献本いただいたので、感想をまとめてみようと思います。

ほぼ10年ぶりに滝川先生の著作を読んでみて、とてもなつかしくなりました。とにかく、これは児童精神科臨床の到達点のひとつであり金字塔です。

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27







とても素晴らしい本なので批判するひとは誰もいないと思いますが、よりいっそう理解を深めるために、ここはあえて批判的な読み方をしてみたいと思います。 

滝川先生は団塊世代の児童精神科医としてはおそらく最も優秀なひとなので、団塊世代の児童精神科医が枠組みにしているパラダイムをロジカルにまとめることができています。

それはとても素晴らしいことなのですが、それゆえにそのパラダイムにとらわれてしまっているのではないか、という批判が可能になります。


本書の構成 

かわいらしい表紙に油断してはいけません。読みやすい文体で書かれているものの、かなり読み応えのある専門的な教科書です。450ページの厚みのある本で、以下のように4部構成になっています。
第1部 はじめに知っておきたいこと 
第2部 育つ側のむずかしさ 
第3部 育てる側のむずかしさ 
第4部 社会に出てゆくむずかしさ 
第1部は「理論編」で、発達に関する知識や学説の歴史について考古学的にまとめられています。このへんの古いパラダイムについてまとめることができる優秀な書き手はもうあまり残っていないので、資料としてとても貴重だと思いました。

第2・3・4部は「実践編」で、おもに発達障害の「むずかしさ」について書かれています。発達障害をもつ個人・とりまく家族・そして社会、それぞれのレベルで「むずかしさ」についてとりあげています。

医学書なので当然といえば当然なのですが、ざっくりいうと悲観論からのパターナリズムです。

つまり、発達障害をもつ個人はとても苦労するし、家族もつらい状況に追い込まれるし、社会に出ていくことはとてもむずかしいことなので、専門家の支援が必要である、という流れになりがちです。

まだ発達障害の概念が浸透していなかった時代には重要な考え方であることに間違いありあません。ですが、発達障害の概念が浸透してむしろ過剰診断や過剰処遇が問題となりつつある現在においてもなお妥当かどうか、検討の余地があります。

とくに発達障害は正常から重症までなめらかに連続する概念なので、悲観的な視点にかたよることは本人のもっている能力を過小評価したり可能性を狭めてしまうことになることがあるので要注意です。

また、「昔は良かった」けれども現代社会の変化によって発達障害をもつひとが苦しむようになった、というノスタルジックな説明がよく目につきます。

はたして本当に、昔の社会は発達障害をもつひとにとって幸せな社会だったのでしょうか?もしもそうだったとしたら、その代わりに不幸になっていたひとたちはどんなひとたちなのでしょうか?

これからいろいろ考えてみたいと思います。


イノセンスはヒーローの条件でありカルトの源泉である


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「愛の民族」 タサダイ族

1971年、フィリピンのミンダナオ島で世紀のスクープがありました。文明から隔絶された26人の裸族が発見されました。彼らは敵意や憎しみを表す言葉のない「独自の言語」をあやつり、競争・所有・攻撃・物欲という概念を知らない「愛の民族」だったのです。
タサダイ族
文化人やジャーナリストが飛びついてメディアを席巻し、彼らの生き方は西欧文明や資本主義に対するアンチテーゼとして称賛され、世界中から莫大な寄付金が集まり、社会学の入門書にも記述されベストセラーとなったそうです。

ところで、当時のフィリピンはマルコス大統領による独裁政権下にありました。政府は彼等の居住区を保護区として封鎖しました。


「愛の民族」の真相

1986年、マルコス政権が崩壊してからタサダイ族の真相が明らかになりました。なんとTシャツとジーパンを着て、タバコをふかし、バイクにまたがる彼らの姿が撮影されたのです。
バイクに乗るタサダイ族
環境大臣エリザルデのプロデュースで裸族のフリをしていたと告白する者が現れるにいたり、世紀のスクープは世紀の捏造事件となり、社会学の入門書からタサダイ族についての記述は完全に削除されました。

ちなみに、仕掛け人のエリザルデは12億円と25人の少女をつれて国外逃亡し、麻薬におぼれて死亡したとかなんとか。

「愛の民族」という偽装されたイノセンスを演じる「タサダイ族」をとりまく、独裁政権+浅はかな文化人+軽薄なメディアという三位一体の共犯構造がみてとれます。

時代は違えど、このような構造は今もあちこちで観察することができます。

オルタナティブなシステムで動くヒーロー

タサダイ族が発見された1970年代は、2度にわたる世界大戦からの冷戦突入というドンづまり状況から、ヒッピー文化など近代文明に反対するムーブメントが盛り上がった時期でした。

そのお祭り騒ぎのなかで神輿にかつがれたのはイノセンスなヒーローたちです。つまり、近代文明とは別の原理とかシステムによって価値判断したり行動する者。

たとえば、原始人、未開人、子ども、動物、そして分裂病/統合失調症。


昔から人文科学においても、繰り返しヒーローの概念が登場し、閉塞した近代を批判するためのツールになったり、近代を突破する力として期待されたりしていました。
  • 超人@ニーチェ 
  • 高貴な野蛮人@ルソー 
  • 野生人@レヴィ=ストロース 
  • ノマド@ドゥルーズ&ガタリ 
  • スキゾ@浅田彰
そして、その系譜は高い開放性をもつ中心気質のヒーロー像につながっていきます。


社会にまみれた汚い大人たちと違って、純粋な魂をもった子どもたち。あるいは、肉体・知能・精神にハンディキャップを背負っているからこそ「イノセンス」に裏打ちされた超人性を獲得しているという逆説。これらの要素はヒーローの条件として欠かせません。


イノセンスはカルトの源泉だから悪徳と結びつきやすい

このように、イノセンスは社会的な価値をおびて利用価値が高まることがあります。古くは猿回しに始まって、数々の中心気質的なヒーローやアイドルを生み出し、最近では某不登校の小学生youtuberとか。

アニメの世界はともかく現実の世界では、イノセンスなヒーローの周辺には悪い大人たちが群がり、時にイノセンスは偽装されて商品として流通するようになります。

なので、イノセンス自体に罪はありませんが、それを利用する悪い大人によるイノセンス・マーケティングにはだまされないようにした方がよかったりします。


パパラギと観光客

とはいえ、イノセンスそのものはとても重要なものです。別の角度から自分の常識を見直したり、別の視点を手に入れることで、現状を多角的に分析できたりして学ぶべきもの多かったりします。

たとえばこの「パパラギ」という本。南国サモアの酋長が西欧文明に喝を入れるというもので、ヒッピー・ムーブメントにのっかってカルト的な人気を博しました。
これも実はドイツの作家が捏造したフィクションです。豊かな南国は飢え死にしないから文明なくてもいいかもね、というツッコミはさておき、ところどころ考えさせる言葉や色あせない魅力があったりして、学ぶものが多かったりします。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
「これが人生の真理である」と夢をみて、南国の住人になってしまうのではなくて、南国に刹那的なあこがれをもって旅行して「世界にはこんな社会もあるんだな」と思いを馳せてみたり、「もしも自分がここで生まれていたらどんな人生を送ったのだろうか」と別の世界線をつかのま想像してみたりする観光客でありたいなと思う今日このごろです。

高い開放性をディスプレイするには


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高い開放性をディスプレイするには

前回の「高い開放性の魅力と代償」では、パーソナリティ特性「ビッグ・ファイブ」のうち「開放性」は、若者にとって魅力的な特性であり、人気者になるためにはなんとしてでも身につけておきたい特性であることを説明しました。

ですが残念なことに、気質は遺伝的な要素の大きい才能なので、みなに等しく与えられているわけではありません。

素質的に開放性が高くないひとが手っ取り早く人気者になるためには、なんらかの方法で「高い開放性を身につけている」というシグナルを発しなくてはなりません。

つまり、安上がりでそこそこ信用できる「高い開放性のバッジ」をディスプレイする必要があります。


開放性と寄生虫

アメリカの心理学者ジェフリー・ミラーの著書「消費資本主義!」にとても興味深いことが書かれていたので紹介します。

重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域では、住人の開放性や外向性が低くなることがあるそうです。

好奇心旺盛で社交的なひと、ビッグ・ファイブにおける開放性や外向性の高いひとは、新たな病原体と接触して感染するリスクを負うことになりやすいので、子孫を残す確率が減ってしまうからです。

第二次大戦後、予防接種が世界的に普及した恩恵を受けることになった最初の世代であるベビーブーマーたちは、開放性や外向性が高い傾向があるためヒッピー文化・人種間の寛容・国際主義・リベラル思想が浸透したことや、逆に1970年代末からのエイズや性感染症の流行に直面した世代に、排外主義や右傾化が進んでいることにも関連しているかもれない説があったりして興味深いところです。

もしかしたら世界の調和と自由を促進するのは国際連合ではなく、感染症対策やワクチンの普及に貢献している国境なき医師団やビル&メリンダ・ゲイツ財団なのかもしれないとジェフリー・ミラーは推察します。


開放性と自傷行為

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それはさておき。奇妙なことに、重大な病気をもたらす寄生虫が流行している地域において、しばしばタトゥーやピアスなど身体を傷つけて装飾をほどこす文化があったりします。

なにゆえ、あえて感染リスクに身をさらすような行為をしてしまうのか、とても理解に苦しむところです。

一方で、このような自傷行為による装飾は、神聖なものであり社会的ステータスの証になっていたりします。

考えられる自傷行為のメリットとしては、病原菌におかされて病気になったり傷口が化膿したり変形したりすることなくキレイに治っている姿、つまり免疫力が強靭であり健康な個体であることを、これ見よがしにアピールしている説があります。


自傷行為とメンタルヘルス

感染症の危険がない社会においても、メンタルヘルスの問題から自傷行為をしてしまうひとがいます。自傷行為は周囲の人々を動揺させて注目を集める効果があり、集団の中で際立った存在になることができます。一時期、ファッションとしてのリストカットが流行したのも、このような儀式的行為の名残りなのかもしれません。

とはいえ、自傷行為をするひとはメンタルヘルスの問題を抱えていて、ハイリスクな最終手段に頼らざるを得ないほど追いつめられているのでサポートが必要なことには変わりありません。


寄生虫感染からミーム感染へ

ジェフリー・ミラーは、現代社会において寄生虫による重い感染症の恐怖がなくなった代わりに、エキセントリックでサイケデリックな文化によるミーム感染の恐怖は健在しているのではないかという興味深い指摘をしています。

ミーム/meme/模倣素とは、論者によっていろんな定義がありますが、ざっくり説明してみます。遺伝子が物理的に生物学的情報を担うのに対して、ミームは文化的情報を担うもので、旋律・観念・キャッチフレーズ・ファッションなど、マネすることで人間の脳から脳へ伝播して文化・慣習・技能を形成したりします。

高い開放性のシグナルに信頼性をもたせるには、それなりのシグナリング・コストを払わなくてはなりません。なじみやすいポップでほっこりしたミームではなく、ギョッとして思わず眉をひそめるようなドぎついミームにさらされなくてはいけません。
tokyodandy
たとえば独断と偏見でリストアップしてみると、フェデリコ・フェリーニ、デヴィッド・リンチ、ダーレン・アロノフスキー、ポン・ジュノ、園子温、ニルヴァーナ、レディオヘッド、ビョーク、シガー・ロス、ゆらゆら帝国、電気グルーヴ、フジロック・フェスティバル、ドストエフスキー、カフカ、トマス・ピンチョン、三島由紀夫、寺山修司、筒井康隆、町田康、阿部和重、伊藤計劃、つげ義春、荒木飛呂彦、古谷実、望月峯太郎、花沢健吾、ヴィレッジ・ヴァンガード、フランシス・ベーコン、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ。そして精神分析、精神病理学、精神分裂病→統合失調症。

高い開放性をディスプレイしてシグナルを発するためには、かつてタトゥーやピアスで伝染病のリスクに身体をさらすことで免疫系の強靭さをアピールしたように、ミーム感染のリスクに精神をさらすことでメンタルの強靭さをアピールしているのではないかと。

つまり、「こんなにヤバいモノを大量摂取しているのに健全な精神を保っているオレ、最強」なわけです。このへんのひねくれた思索がジェフリー・ミラーの真骨頂です。

というわけで、次回は開放性、クリエイティビティ、統合失調症の関係についてまとめてみたいと思います。

共感のダークサイド


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ダークサイド・ムーン
いいことずくめのようにみえる共感にもダークサイドがあるようです。



共感の時代?

動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは、チンパンジー社会でも観察できる共感能力が、ヒト社会において薄れているのではないかと危惧しています。「競争こそが進化の本質であり人間のあるべき姿である」という『利己的な遺伝子』に開き直って利益のみを追求する「強欲なアメリカ的資本主義」を「共感欠如の病理」として批判しました。

あまりピンとこないんですが、これは現代においてリアリティーのある指摘でしょうか?

むしろ今や「共感」は絶対的な善であり神聖なモノとして祭り上げられているのではないでしょうか?たとえば、【これはひどい】というタグのついた共感を呼びおこすエピソードは、インターネットを通じて世の中を席巻しています。

そもそも『共感するロボットを設計すること』でみてきたように、「共感」はひとつの「機能」であって、それ自体はニュートラルなものです。使い方次第で良い面も悪い面もあらわれてくることがあるので、そこに価値観を持ち込む必要はありません。


また、「共感欠如の病理」があるのと同時に「共感過剰の病理」も存在していて、精神科臨床ではどちらかといえば後者の方がやっかいな問題だったりします。


精神科医の仕事は共感すること?

一般的に、精神科医は「共感」することが仕事だと思われています。確かに共感することは診療の第一歩として重要ですが、それだけでやっていけるわけではありません。

むしろ逆に、共感能力はあらかじめ誰にでも備わっているものなので、精神科医になってからは共感のスイッチをオフにするトレーニングが必要になったりします。

よく「患者さんに影響されて“うつ”になったりしませんか?」と心配されたりするんですが、共感をずっとオンのままにしていたら身がもちません。いつまでも患者さんに共感しすぎて右往左往ふりまわされている医師は一人前であるとみとめられることはありません。

患者さんに共感しすぎてしまうと冷静さを失って客観的にみれなくなるため適切な判断ができなくなるリスクが高まるからです。なので、医師は自分の家族が病気になったら別の医師に診てもらいます。たとえば、かつて天才と呼ばれていた高名な精神科医は、妻が精神科疾患を発症していることに気づくことができませんでした。研修医でも診断できるほどに病状が進んでいたにもかかわらず、です。

加えて、精神科疾患には境界性人格障害、解離性障害、依存症などなど「安易に共感されることで悪化する病態」がたくさんあります。

また、メランコリー親和型性格や過剰適応といわれるひとたちは、他人に対して過剰に共感してしまうことで消耗し、病状が悪化することがあります。

つまり、医師と患者さんの関係のみならず、患者さん自身にとっても「過剰な共感」によって失われるものは大きいわけです。


共感によって失われるもの

反共感論/Against Empathy というおもしろい本があります。共感を無条件に称揚する風潮に対するアンチテーゼなのですが、安易にサイコパスを称揚したりする本ではありません。共感のダークサイドをまとめつつ、バランスのよい批判を展開しています。
もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。

しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

以前とりあげたように、共感には大きくわけて情動的共感と認知的共感というふたつの異なるシステムがあります。


認知的共感のダークサイドとして、
「認知的共感」は、善きことをなす能力として過大評価されている。つまると ころ、他者の欲望や動機を正確に読み取る能力は、上首尾の〔警察に捕まっていない〕サイコパスの特徴でもあり、残虐な行為や他者の搾取に利用し得る。
と、軽く触れていますが、この本で問題としているのはおもに「情動的共感」についてです。

共感の機能には「限局性」という特徴があります。同時に共感できる相手はせいぜい数人で、たくさんのひとたちに対して同時に共感することはできません。つまり、共感はスポット・ライト的に作用するので、視野が狭くなってしまい、しばしば道徳的な判断を間違えることになります。

たとえば、最近みた映画『デッドプール2』と『万引き家族』。どちらもすばらしい作品なのですが、共感のスポットライト作用が存分に発揮されています。

『デッドプール2』では、虐待を受けていた14歳の少年を救うために、とある組織の構成員を主人公たちが殺しまくります。

『万引き家族』では、これまた虐待を受けていた4歳の女の子を救うひとたちが、犯罪を繰り返していたりします。

どちらとも虐待されている子どもが登場して、あまりにもかわいそうな場面をみせつけられるので、観客は思わず感情移入してしまいます。その結果、子どもを救う側のひとたちが悪に手を染めることは、もはやどうでもいいことのように思えてしまいます。

現実でもこのような事態は枚挙にいとまがありません。冷静に考えるとこれはとても危険なことで、過度な共感は道徳的な判断をするときには有害であることが指摘されています。


共感に抵抗することがむつかしい理由

著者のポール・ブルームは、共感に抵抗するために「理性の力」を重視しています。しかしこれはとても困難な道のりです。

『共感の起源としての群れ/共感を媒介するオキシトシン』でみてきたように、共感という機能は生物が群れをつくる能力から脈々と受け継がれていて、脳の報酬系はいまだに共感ベースで作動しています。つまり、共感にもとづいて行動を起こすことで脳はキモチイイというシグナルを発してしまうのです。

さらに、ツイッター等のSNSを介して共感を瞬時に増幅・拡散させることがインターネットによって可能になっています。

情動的共感は扁桃体を介して作動することに関連して、反共感論の訳者である高橋洋氏は、『ツイッターはインターネットの扁桃体』と指摘しています。

このように、脳から社会インフラのレベルまで浸透している共感というシステムに対抗することは難しいのではないかと思ってしまいます。なにか別のシステムを想定することで、乗り越え可能なのかどうか、これから考えていきたいです。

ところで、他人に共感することが苦手な自閉スペクトラム症のひとは、ルールに沿って公平な判断をするため、普通のひとよりも道徳的である場合が多いことが知られています。

案外その辺がヒントになるかも知れません。

直観像素質と言語能力の相乗り


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直観像素質者とは

直観像とは,像が心の中といった場所ではなく目の前に定位し,文字通り目に見えるという主観的印象を伴って現れる心的視覚イメージの一種である。
つまり、パッと目にした映像を鮮明に記憶できる能力です。子どもの頃はけっこうこの能力を持っているのですが、発達にともなって失われるという説があって、それを生涯もっているひとのことを直観像素質者といいます。

ちなみに、酒鬼薔薇聖斗こと少年Aを精神鑑定した中井久夫は、彼を直観像素質者と鑑定しました。


テンプル・グランディンの視覚型思考

 私の場合はGoogle画像検索のように 具体的な画像が次々と浮かんでくるんです
「靴」という言葉が発せられると 50年代60年代の靴がたくさん 私の脳内に浮かぶんです

天才的頭脳をもったASDとして有名なテンプル・グランディンの視覚的思考は、どうやら直観像素質のことを言っているようです。


直観像記憶と言語のトレードオフ仮説

直観像素質は直観像記憶とか映像記憶とも言われていて、人間の子どもだけでなく、チンパンジーの子どもにもこの能力があることが、京都大学霊長類研究所の実験によって明らかになっています。
チンパンジーの子どもはすべて直観像記憶をもっている。ということは,種全体としてみて,チンパンジーのほうが人間よりも,瞬時に細部を記憶する能力において優れていると考えられる。


直観像素質を持っていた方が自然界で生き延びる上で有利だったのでしょうが、それならばなぜこの能力が失われていったのでしょうか。

生の映像データをいったん表象/アイコンとしてとらえて、さらに象徴/シンボルにまとめる作業、すなわち言語を操作する能力にとって変わられたのではないか、という「直観像と言語のトレードオフ仮説」という回答があります。

例えば、5,000,000,000Bの動画が5,000,000Bの画像へ、さらに5,000Bの文章へとデータが圧縮されていきます。これによって情報処理が格段に効率よくなって、パターン認識など抽象的な思考ができるようになるでしょう。

PCであればアプリをインストールしてカンタンにできることなのですが、生物には構造的な制約があるので100万年以上かかって進化しないといけないし、メモリー増設してふたつの能力を両立させるのではなく、ひとつの能力を犠牲にしなければ新しい能力を手に入れることができなかったようです。


読書する脳

運動性言語中枢は脳にある「話す」ための構造があって、その部位を障害されると運動性失語症になります。

一方で、学習障害のなかに読字障害/ディスクレシアがありますが、「読む」ための構造、つまり読字中枢なるものは脳のどこを探しても見当たりません。

読字中枢が障害されたからディスクレシアになった、という単純な話にはならないわけです。
脳には読字専用の遺伝子もなければ、生物学的構造物も存在しない。それどころか、文字を読むためには、本来、物体認識やその名称の検索など、他の作業のために設計され、遺伝子にもプログラムされている古くからの脳領域を接続し、新しい回路を形成することを、一人一人の脳が学ばねばならないのだ。


つまり、人間ははじめから読書できるように設計されていないので、生まれた後で新しいネットワークを自動的に作動させるシステムを構築していかないといけないわけです。


ニューロン・リサイクリング仮説

フランスの脳科学者スタニスラス・ドゥアンヌは、この読字中枢を「レターボックス」と名づけ、形態を認識する脳の部位を読字能力に再利用するという「ニューロン・リサイクリング仮説」を提唱しました。
レターボックスは,脳の可塑性の高い部位に発生し,そこに定着する。読字能力を鍛えない場合,レターボックスができるはずだった場所には,他の視覚認知(道具,家,顔など)が進出する。
これは京都大学霊長類研究所の「直観像記憶と言語のトレードオフ仮説」と似たようなことを言っています。


文字には自然が組み込まれている

私たちが読字という超人的能力を持っているのは、文字を読むように進化したからではなく、表記が人間の目にうまく合うように進化したからだ。


アメリカの理論神経生物学者マーク・チャンギージーは、まさに逆転の発想で、ニューロン・リサイクリング前の(自然に適応していた)形態を認識する脳の部位≒直観像素質に合わせて、人工物である文字の方が進化し、ひとが読み取りやすい形態をとるようになった、つまり、文字には自然が組み込まれている、と考えました。

それを証明する方法がめちゃくちゃエキサイティングで、自然界の形態を認識する特徴と、あらゆる文字の形態を認識する特徴が一致していることを証明するために、それぞれを要素に分解して頻度分析を行いました。すると、両者の出現パターンが完全に一致しているというわけです。
エレメント
ここから導き出されるのは、自然が淘汰されるように文化も淘汰される、そのインターフェイスとして脳が介在しているというコンセプトです。そう考えると、どちらの能力が原始的か先進的かではなく、いずれも相対的なものであると理解できるようになります。

とあるタイプのASDやディスクレシアを矯正すべき能力の欠如とか障害ではなく、とある能力の偏位とか能力間のアンバランスなどの多様性として理解しやすくなるでしょう。


動作性IQと言語性IQのトレードオフ

知能検査をして知能指数IQを測定すると、動作性と言語性2つのIQが測定できます。ざっくり言うと、

動作性IQは、目で見て手を動かす能力
言語性IQは、耳で聞いて言葉を使う能力

最近は、言語性-動作性の2分法ではなくて、動作性IQを知覚統合と処理速度、言語性IQを言語理解と作業記憶に分ける4分法で解釈することが推奨されていますが、実際にはどちらかに偏るケースが多いので、ひとまずざっくりと理解する上では2分法がまだまだ有用だったりします。

学校教育はまだまだ言語性IQが重視される傾向があるので、言語性知能が優位なひとが有利になって、動作性知能が優位なひとは不利だったりします。一方で製造業の現場であれば、口ばっかりで手が遅いひとよりも黙々と手を動かすひとの方が有利だったりします。

つまりは結局のところ環境次第なので、知能検査の細かい項目についてアレコレ議論するよりも、さっさと環境を変えてしまった方が早く問題を解決できたりします。


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