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カテゴリ:発達障害

センセイはASD。



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フラットな人間関係/ヒエラルキーの人間関係

自閉スペクトラム症/ASDのひとは友人関係などフラットな人間関係が苦手だったりしますが、ヒエラルキーにおける上下関係なら比較的うまくやれたりします。

フラットな人間関係はルールが不明瞭でコロコロ変化するので臨機応変な立ち回りが必要になったりしますが、ヒエラルキーの上下関係はルールが明確で固定的かつシンプルなので見通しを立てやすいからです。

最もわかりやすい上下関係と言えば「先生―生徒」の「教える―教わる」関係ではないでしょうか。

たとえば、昔なら「センセイ」と呼ばれる職業である教師や医師のなかにはASDのひとがゴロゴロいたであろうことは、ご高齢の「センセイ」方をみればカンタンに想像できます。

今やどちらとも権威が失墜していて「教えること」以外に何かと対人折衝とかやらなくてはいけなくなっているので、ASDのひとにはちょっと厳しい状況になっています。

グッド・ドクター Blu-ray BOX(特典なし)
山﨑賢人
ポニーキャニオン
2019-01-09

ドラマ「グッド・ドクター」では、わかりやすくそのような状況が描かれていて泣けます。

今でも、伝統的かつ閉鎖的な世界で純粋に学問や技術を教える状況であれば、ASDのひとでもやりやすかったりするでしょう。
センセイ
実際に、パッと見てわかるくらい重めのASDをもっている「エラいセンセイ」はあちらこちらでたくさん観察することができます。


奇妙な形式の講演会

この前、興味深い講演会がありました。

ASDの研究をしている精神科医のプロデュースによるもので、ASD当事者がASDの特性について精神科医向けに講演をするという斬新な企画でした。

しかも、講演の題材として、ASD当事者のひとの体験談ではなく、とある書籍「大人のアスペルガー症候群が楽になる本」(備瀬哲弘)で紹介されているASD事例をとりあげていました。

つまり、ASD研究者のプロデュースによって、ASD当事者が、別のASD事例を題材として、ASDの対応方法について、精神科医向けにレクチャーする、という形式になっています。

ややこしいので図解してみます。
  • ASD研究者/プロデューサー
  • ASD当事者/講師
  • ASD事例/題材
  • ふつうの精神科医/聴衆
こんな講演会は初めてだったのでめちゃくちゃ期待していたのですが、内容は予想を大きく裏切るものでした。


マウンティングはASDの特性か?

ASD事例をざっくり説明すると、とある精神科クリニックの診察室での出来事。分厚い紹介状をもってきたセカンドオピニオンの患者さん(40代男性会社員)が登場します。

精神科医が確認のために病歴をたずねたところ、いきなりブチ切れて怒涛の罵倒が始まります。以下、セリフの一部です。
「繰り返しになるかもしれない」だって!? そうだよ、その通りだよ。繰り返しにしかならないことを答えたってなんの意味もない。

だ~か~らぁぁ、文章をちゃんと読んでいるんだったら、そこに全ての答えは書いてあるだろ!! 何で同じ質問ばかりするんだよ… 

そもそも医者って言うのは、紹介状を出されたらそれに全部目を通して、患者の状態を完全に把握してから診察に臨むもんだろうが! 

どうして全部を理解せずに診察に臨んで、同じことばかり繰り返すんだよ。しかも、こっちが言ってることには全く耳を貸さないし、理解しようともしていないじゃないか。

こっちはできるだけいろんな側面から、アスペルガー症候群というものを理解しようとして複数の医者にかかろうと思ってるんだよ。こんなムダなやり取りのために来てるんじゃないよ!!
あわてて謝罪して弁解してもおかまいなしに罵倒は続きます。何を言ってもすぐさま罵倒されるので最終的には沈黙してしまった精神科医に対して、
「あなたは医者として、精神科医として、まだ十分な力量がないということがわかりました」
と捨てゼリフを残して去っていくというものでした。

講演会には若干名の当事者も参加していて「ホントにこんな医者いるんですね、信じられない!これではどっちが患者かわかりません!」と軽蔑のコメントが寄せられました。

ちなみにこの精神科医はわりと丁寧かつ誠実に対応している方なのですが、、、それはともかく、このケースをASDの特性が現れている事例として紹介しているところにかなり無理があります。

というのも、これは単なるマウンティングであってASDの特性ではないからです。こんなことをしないひとの方が圧倒的に多数派ですし、マウンティングはASDのひとでなくても全人類がやることで、そもそもゴリラでもやる原始的な行為です。

フロアからもASDは関係ないとか二次障害ではないかという意見が出ていましたが、ASD研究者もASD当事者もこれがASDの特性であるという主張を曲げません。

と、前提がおもいっきりズレまくったまま講演会は進行します。

ASD当事者は彼なりに一生懸命考えた理屈で「ASD特性に配慮した対応」をすればトラブルを防げるとレクチャーしてくれます。

ASD当事者はまだ20代の青年で医療関係者でもないので仕方ありませんが、残念ながらどれも机上の空論でした。例えば「(過去の嫌な経験を想起させるため)いきなり沈黙してはいけない」とか。

いやいや、ふたりきりの密室で罵倒され続けたら気の弱いひとは沈黙しても仕方ありません、精神科医も人間なのです。密室でマウンティングをしかけてくるひとを理屈で納得させることなんてそうそうできるものではありませんから。


教育者としてのポジション

マウンティングにASDの特性が現れているわけではありませんが、100歩ゆずってマウンティングの終え方には若干ASDらしさが出ていると考えることが可能です。

ASD事例にとって精神科医は「ASDのことを教えてくれるかもしれない医師」から「教育してあげるべき医師」へ転落します。彼は罵倒によって無力化した精神科医に対して、声量をおさえて諭すような口調で語りかけます。
「そういう面に配慮して診察するのが精神科医でしょう? 理解不足、勉強不足ですよ、あなたは。」
この時点で、ASD事例は精神科医に対して教育者のポジションに立っています。それに満足したかのように事態は終息していきます。

つまり、「教育者のポジションに立つことを目的としてマウンティングが行われた」というところがポイントかもしれません。


講演会のヒエラルキー

ここで興味深いのは、ASD当事者はこのASD事例を紹介することでワンランク高い教育者のポジションに立つことができていました。

そしてさらに、これをプロデュースしたASDの研究をしている精神科医は最も高いポジションに立っているわけです。

この精神科医はいかにも「エラいセンセイ」という感じのひとで、大学や行政機関に就職していて研究活動をメインとしているので実務経験は乏しいのにも関わらず、この場においてはASDの特性をものすごく熟知していることになっていました。

ちなみに、このひとに異論をぶつけてみると「それは定型発達/TDの考え方」なので「ASDのことは理解できない」という前提で返してくるので議論になりません。つまりご自身はASDであるという前提みたいなので、とりあえずASD1としておきます。

ASD当事者は学生時代からASD1に教育を受けてASDの理解を深め、現在はピアカウンセラー(みたいな)活動をされているようです。ASD2とします。

ASD事例はいくつもの精神科を受診されているので、まだ社会との折り合いがつかずに苦悩しながら、なんとかASDの特性を理解しようとしています。ASD3とします。

事例のなかの精神科医や講演を聴いている精神科医はTDであるがゆえにASDの特性を理解できていないとされています。

再び図解するとこうなります。わかりやすいヒエラルキーが形成されています。

↑ ASDを理解している 尊敬される 教育する立場
  • ASD1 ASD研究者
  • ASD2 ASDピアカウンセラー
  • ASD3 ASD患者さん
  • TD  ふつうの精神科医
↓ ASDを理解していない バカにされる 教育される立場


俯瞰の過剰さ

ASDのひと(の一部)は、対象と距離をとって俯瞰でモノをとらえることを好む特性があります。いわゆるメタに立つ視点です。
  • ASD1は、ご自身が直接ASDについて講演するのではなくASD2に講演させました。
  • ASD2は、ご自身の体験よりも書籍で紹介されているASD3を題材にしました。
  • ASD3は、様々な精神科医から意見を聞くことで理解を深めようとしました。
どなたも現実的な問題から距離を置いて俯瞰しようとする行動をとっています。そのような「俯瞰の過剰さ」は、教育者のポジションにつくことによってこそ満たされます。

結果的に、ASD1・ASD2・ASD3のみなさんそれぞれが、教育者のポジションにおさまっているのでめでたしめでたし、と言いたいところですが、俯瞰の過剰は様々なデメリットを引きよせます。

たとえば、とあるTD(ふつうの精神科医)が、ASD3は最終的には罵倒をやめてその場を収めて落としどころを見出そうとしているので、今後は変化したり治療が進展する可能性があるのではないかと、実務家ならではの鋭い指摘をしました。それに対して、ASD1は「あのひと(ASD3)は変わらない」という見解を示して否定しました。

ASD1は俯瞰することによってASDを理解したつもりになっていますが、実際の臨床はカオスなので予想外の変化にあふれています。特に発達障害はバリエーションが大きく可塑性に富んでいるのでしばしば驚かされることがあります。

ASD1のように実務経験が乏しく研究や出版に関心が強い医師は、しばしば硬直的な理論にしがみついて個人の多様性とか変化の可能性を見失いがちだったりすることがあります。

このような現象はしばしばみられるので、次回以降にまとめてみたいです。


伽藍にとらわれる統合失調症、バザールに順応する発達障害。



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前回までに紹介した内海先生の講演を通して、今回はいろいろ考えてみました。


内海健の変遷

もともと内海先生は統合失調症の病理学がご専門で金字塔的な仕事があります。研修医の頃は聖典にしてたりしました。



統合失調症の病理を語る内海先生はとてもスゴみがあってシャープだったんですが、ADHDの病理を語る内海先生はどことなくスゴみがうすれていてソフトでライトでポップな感じすらします。

いわゆる聖典がなく明確な定義もないADHDの精神病理について、当事者の手記や図表やイラストを多数紹介しながら、ややまとまりがなく若干とっ散らかった講演でした。

なので質疑応答では、結局のところADHDの本質とは?定義とは?とかツッコまれて少々困った様子だったりしたのが印象的でした。

個人的には、むしろとっ散らかったままの方がイイし、ツッコまれて困る必要もないと思うわけですが、ともかく、日本を代表する精神病理学者である内海先生ご自身の変化が、精神病理学の変化そのものを体現している可能性があると感じたわけです。


精神病理学は伽藍からバザールへ?

精神科医は病気の仕組みを理解しておくべきだろうということで、精神病理学会には毎年参加しているのですが、そんなモノ好きな精神科医はまわりにはほとんどいないわけで、学会はだんだん過疎ってきて衰退の一途をたどっているようです。

かつて精神医学の中心であった古き良き精神病理学の雰囲気はちょうどこんな感じでしょうか。

Cathedral

このような人々を圧倒する荘厳な『伽藍/大聖堂』で、聖典を片手に神官が語るありがたい物語を聴衆が必死でメモる時代が終わりに近づいている感があります。

宮本忠雄の『狂気の内包の縮小と外延の拡大』という預言通り、精神疾患は全体的にはうっすら軽症化しつつ世間に拡散していて、だんだんカジュアルになっています。

また、発達障害など新しいパラダイムが台頭してきて概念が錯綜していることもあって、ますますこのような雰囲気に馴染まなくなってきています。

では、これからの精神病理学はどうなっていくのでしょうか?

Bazaar

もしかしたら、これからは大衆に広く開かれた場所にある、ゴチャゴチャした猥雑な『バザール/市場』で、商人の話をおもしろ半分に聞きながら、軽薄な消費者として自らも参加しながら少しずつ物語を再構成していく時代になっていくのかもしれません。


伽藍にとらわれるひとたち

新進気鋭の精神病理学者である松本卓也は、『垂直方向の精神病理学』が特権化されすぎていることを問題視して、『水平方向の精神病理学』を再評価することを提唱しています([PDF]精神病理学における垂直方向と水平方向)

とてもよくまとまっていて勉強にはなるのですが、これって要は『伽藍とバザール』のことだと思うわけです。

『伽藍とバザール』は、ソフトウェアの開発方式に関するプログラマー向けの論文で、これまでの閉鎖的で中央集権的な開発手法(伽藍方式)よりも、オープンソースにして分散的に開発する手法(バザール方式)がうまく機能することがあるよ、という考えです(「伽藍とバザール/The Cathedral and the Bazaar」Eric S. Raymond 著 山形浩生 訳)。

統合失調症のひとや精神病理学者は、どちらも伽藍にとらわれやすい性質をもっていて、統合失調症の治療の契機となる『水平方向の関係』は、貨幣空間であるバザールでこそ拡張されているのではないか、と考えています。


バザールに順応する発達障害

伽藍は閉鎖空間なので、成功するためにはなるべく他のひとと同じようにふるまい、目立たず品行方正に過ごさなくてはなりませんが、発達障害の行動特性はどうしても集団のなかで目立ってしまうため、致命的な欠陥となりがちです。

一方で、バザールの世界は参入も退出も自由なオープン・スペースなので、少々悪評が立ったところでさほど影響はありません。そんなことより、他のひとよりも目立って覚えてもらうことが重要だったりするので、発達障害の行動特性(の一部)はしばしば有利にはたらくことがあります。

というわけで、発達障害の特性を活かしてビジネスの世界で成功しているひとがたくさんいます。

堀江貴文さんの『多動力』はADHD特性をうまく活用する方が適応しやすいかも、というメッセージがこめられている本で、25万部も売れていて世の中に広く受け入れられています。
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2017-05-26


ちなみに同時期に発売された西村博之さんの『無敵の思考』はASD特性を活用する本として読めたりして興味深いです。


ふたりはもともとプログラマーなので、若いうちから『伽藍とバザール』の影響を受けていて、いち早く現実の世界にそれを応用することができているのかもしれません。



内海健『ADDの精神病理』から考える。その②



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前回は内海健先生の講演『ADDの精神病理』で症候学や診断基準の再検討についてまとめました。今回はひきつづき、代償行動や二次障害についてまとめてみます。

青年期の発達障害は特性そのものよりも、それをどう代償しているのか、いかに二次障害を防ぐことができるか、がとても重要です。


ADHDの代償行動/Coping

ADHDのひとは途切れがちな集中力を高めるため、ノイズカットするため、リラックスするため、エネルギー放散してカタルシスを得るためなどなど、さまざまな代償行動/Copingをとることで自分の行動特性に折り合いをつけていきます。

行動特性そのものを代償する、というよりは、行動特性がうまく発揮できなかった場合の代償という意味合いが強いような気がします。のびのびと活動できているひとは、それそのものが代償行動でもあるわけで。
暴力 セックス ハードワーク ギャンブル ドラッグ 買い物 過食 アルコール
シンプルなもの バロック音楽 草むしり 陶芸 ガーデニング 
スリルを求める 喧嘩 高いところに昇る 戦場に向かう
がしゃがしゃした刺激の中にいる
ハードな運動 (例として、横山やすしがマラソンにハマっていたエピソード)
自分がまとまりあがる行動をとる 心配の種をみつける 
自分はダメなやつなどnegativeな考えに固執する
バロック音楽はさすがにあれなので、ロックとかテクノでしょうか。夏フェスでは毎年ミュージック・ジャンキーたちが集団療法されています。

最近は園芸療法がごさかんで、ガーデニングは精神疾患全般に効果があるようです。いろいろ細かいところをいじれるのがADHDのひとにもよいのかもしれません。

心配の種というか、いつもトラブルの種を身近に置いておくことをCopingにしているひとはけっこういて、ADHDに特異的かどうか考えたことがなかったのですが、思い当たる節がたくさんあったりしました。

あとはあちこち移動したり旅行することで新奇なものを追い求めること、フロンティア精神を満足させることが挙げられます。クレイジー・ジャーニーなひとたちですね。特に爬虫類ハンターの加藤英明さん。

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代償行動/Copingがうまく機能すればいいのですが、うまくいかない場合は二次障害に発展したりするので注意が必要です。


二次障害/『ドラえもん』から『闇金ウシジマくん』へ

ちょっと前に小児期ADHDの認知度向上に貢献した『のび太・ジャイアン症候群』という本がありました。不注意が優位なのび太と衝動性が優位なジャイアン。

ドラえもんの世界はずっと小学生のままで時間が止まっているのでよいものの、のび太とジャイアンがあのまんま成人して二次障害をきたしていたらどうなるか?

私見ですが、おそらくは『闇金ウシジマくん』の登場人物になっちゃうと思うわけです。



闇金ウシジマくんには度過ぎたCopingで身を持ち崩すADHD的なひとがたくさん登場してけっこうリアリティがあるので、青年期ADHDの二次障害を考えるうえでとても参考になります。

内海先生はこれとは別タイプの二次障害を精密に想定していました。


二次障害としての『dysphoria』

境界性人格障害、てんかん、月経前緊張症などのなんともいえない憂鬱や苛立ちや不機嫌を表現するために精神科的には『ディスフォリア/dysphoria』という用語を使ったりしますが、ADDのひとにはdysphoriaがしばしば観察されるという指摘です。

その発生状況としては、
しばしば、いじめや仲間外れを契機に、がらりとひとが変わったようになります。発達が屈曲したかのように。
これが典型的に示されているのが『聲の形』という映画の主人公です。<以下、ネタバレ注意>

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典型的なADHDっぽいガキ大将でいじめっ子。調子に乗りすぎてクラス全員から断罪され、スクールカースト最下層へ転落。以後は負債を返済して自殺することだけを考えて生きるようになります。まさに別人です。その後、本来の自分をとりもどせるのでしょうか?というとてもおもしろい作品です。

<以上、ネタバレ注意 おわり>


ADHD症状とクリエイティビティのトレードオフ

ADDとクリエイティビティが関連している説。偏ったひとはクリエイティブだというのはなんとなく想像がつくと思いますが、これを掘り下げていました。

とても印象的だったのは『ADHD治療薬を服用することでADHD症状は改善したがクリエイティビティが失われたケース』の話です。

ADDに悩む芸大生?で、ADHD治療薬を使用すると論文をまとめることはうまくできるようになるんだけど、作品をつくることがうまくいかなくなることがあったため、論文をまとめる時期だけ治療薬を服用をすることでうまくいったみたいです。

クリエイティブなひとなので図解して内海先生に提示して説明してくれたようです。

個人的にはスポーツ選手でADHD治療薬を飲むと調子が悪いので大切な試合前は服薬を中断するようにしている方が何人か経験ありました。

ADHDのひとはクリエイティビティを発揮できる舞台があれば活躍できて治療は不要になったりしますが、そんな舞台はそうそうなかったりするので、普通の会社員として堅実に生きていく場合や、退屈な授業をお行儀よく受けて課題をこなせるようになるために薬物療法を選択することが有効になったりします。

つまり、クリエイティビティとADHD症状はトレードオフの関係にあるので、治療の必要性は環境に依存していると言えるでしょう。 できる限り、環境調整が重要であることが前提となります。


ADHD≒狩猟採集民説

ADHDの行動特性は狩猟採集民の頃に培われた説をちらっと言及されていました。

ADD/ADHDという才能
トム・ハートマン
ヴォイス
2003-07-01


ADHDの行動特性<衝動性や多動>は、動き回って獲物を発見して即座に対応する能力なので、狩猟採集社会においては有利だったのでしょう。逆に農耕牧畜が始まってからは、そのような行動特性は邪魔でしかなくなります。

狩猟採集は200万年前から始まっていて歴史が長く、濃厚牧畜はほんの1万年前から始まったものに過ぎないので、今でも狩猟採集時代の行動特性が根強く残っているという考えは一定の説得力があります。

これを踏まえてのことなのか、ADDのひとに低糖質食をすすめているみたいです。内海先生がとても軽佻なので驚きます。次回は、内海先生の変化について考えてみたいと思います。


ADHDと中心気質の関係

ADHDの原始的な行動特性に関連してセットで考えたいのは中心気質との関連です。

児童精神科領域では「ADHD気質」なるものが言われていますが、それはそのまま『中心気質』だったりします(中心気質は破綻しやすいか)

中心気質とは、
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
<中心気質>という概念について 安永浩
中心気質の著名人と言えば長嶋茂雄さんですが、最近はADHD説があったりするみたいです。
長嶋茂雄

ADHDでは「オーガナイズできない」という行動特性がしばしば問題となります。以前、中心気質の映画監督としてポール・トーマス・アンダーソンについて調べていました(ポール・トーマス・アンダーソンの中心気質的な映画)。

なかでも『ザ・マスター』という作品は、ADHD的な側面である「オーガナイズできなさ」具合がよく発露している作品なので参考になるかと思われます。

主人公はずっとdysphoriaでしばしば衝動的になるあぶなっかしいADHD的なひとで、監督自身もADHD的な行動特性があって、作品の構成自体もオーガナイズされていないADHD的な特徴があったりします。

いたって個人的なエピソードを圧巻の映像美で無造作に並べた映画なので、終わってみると『これは一体なんなんだ』感がハンパないのです(ADHD的な映画『ザ・マスター』)

横山やすしも長嶋茂雄もポール・トーマス・アンダーソンも素晴らしい才能を発揮して業績をあげているわけですが、今の時代に彼らが普通の会社員だったらADHD治療薬が手放せなかったのかもしれません。


内海健『ADDの精神病理』から考える。その①



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先日、日本を代表する精神病理学者である内海健先生の講演をみてきました。タイトルは『ADDの精神病理』です。とてもよい刺激を受けたので紹介しつつ理解を深めていきたいと思います。

内海先生は以前ASDの精神病理について書籍を出版されて話題になりました。今度はADHDについて取り組まれているようです。



講演のタイトルはADD(不注意優勢型のADHD)の精神病理となっていますが、ADDとADHDを使い分けることには別に意味はないそうです。

冒頭で、子どもではなく、青年期限定で話をしますとエクスキューズ。内海先生自身もADDっぽいところがあるとか。


見落とされがちなのは不注意が優勢な女性のADHD

ADHDは男性に多い疾患で多動という症状はセンセーショナルで目立ちやすく、特に小児期には顕著に観察されやすい一方で、女性のケースでおとなしくて不注意が優勢なタイプは目立ちにくい傾向があったりします。その分、診断が遅れて二次障害のリスクが高まる傾向があります。

内海先生は東京藝術大学で臨床をされているので、芸術家肌の学生さんがたくさん相談に来られていて、不注意が優勢な女性のケースが多いみたいです。すずろメンタルクリニックもプロアマ問わずアーティスト系のひとがけっこう来院されていて、このタイプのひとは多かったりします。


青年期ADHD臨床のむつかしさ

青年期のADHDがむつかしいのにはいくつか理由があります。

  • 聖典がない 
    たとえば統合失調症では『症例ライナー』とか、典型的な症状を示す有名なケースレポートと代表的な教科書があって、それをありがたがって読むことで診断を学ぶことができますが、ADHDにはそのような原典がなかったりします。

  • ヒストリーをとることが難しい
    発達障害は幼少期から行動特性があらわれていることが診断で重要なのですが、すでに成人して親元を離れているひとの場合はそれを確認することができません。

    「幼稚園のことを思い出せますか?」という問診が重要で、神田橋條治曰く、幼児期は本人の素の状態がわかると。

    確かに、もっている気質がストレートに表現されるのが幼児期ではありますが、患者さんの記憶はしばしばバイアスを受けて変形することがあったりするので当てにならないこともしばしばなので参考程度にするべきでしょう。

  • ADDは知能検査が得意? 
    新しい課題を面白がってやるため、欠陥が目立たないこともしばしば。むしろ、検査態度をよく観察することが重要。たとえば、簡単な課題を凡ミスするけど、難しい課題をクリアする所見など

    これもまあ一概には言えません。子どもはわりと知能検査好きですから

  • 生活場面での所見、行動観察が重要
    これは発達障害全般でよく知られていることで、診察室で医師と対面すると発達障害の行動特性は観察されなくなることがあります。

    特に軽症の患者さんは子どもであっても、ちゃんとマジメに集中して診察を受けることができます。まして大人はもっとわかりにくくなります。

    なので、診断には家庭や学校での行動を観察して情報提供してもらうことが必須だったりします。

    つまり、診察室のような『構造がしっかりしている状況』や知能検査のような『目新しさ』はADHDの行動特性をマスクする効果がある、ということです。

ADDの診断基準について

アメリカ精神医学会が発行する「精神障害の診断と統計マニュアル」が国際標準になっているので、そこで不注意症状がどう記載されているか、みてみましょう。
DSM-5™ Diagnostic Criteria Symptoms of inattention

a. Often fails to give close attention to details or makes careless mistakes in schoolwork, at work, or during other activities (e.g., overlooks or misses details, work is inaccurate). 

b. Often has difficulty sustaining attention in tasks or play activities (e.g., has difficulty remaining focused during lectures, conversations, or lengthy reading). 

c. Often does not seem to listen when spoken to directly (e.g., mind seems elsewhere, even in the absence of any obvious distraction). 

d. Often does not follow through on instructions and fails to finish schoolwork, chores, or duties in the workplace (e.g., starts tasks but quickly loses focus and is easily sidetracked). 

e. Often has difficulty organizing tasks and activities (e.g., difficulty managing sequential tasks; difficulty keeping materials and belongings in order; messy, disorganized work; has poor time management; fails to meet deadlines). 

f. Often avoids, dislikes, or is reluctant to engage in tasks that require sustained mental effort (e.g., schoolwork or homework; for older adolescents and adults, preparing reports, completing forms, reviewing lengthy papers). 

g. Often loses things necessary for tasks or activities (e.g., school materials, pencils, books, tools, wallets, keys, paperwork, eyeglasses, mobile telephones). 

h. Is often easily distracted by extraneous stimuli (for older adolescents and adults, may include unrelated thoughts). 

i. Is often forgetful in daily activities (e.g., doing chores, running errands; for older adolescents and adults, returning calls, paying bills, keeping appointments).

※c. の「うわの空で人の話を聞かない」は、アメリカ文化圏ではとても失礼なことなので重要らしいです。

これをざっくり訳してみると、、、DSM5によるADHDの不注意症状は、
a. うっかりミス
b. あきっぽい
c. うわの空 
d. 途中で投げ出す
e. とっ散らかす
f. めんどくさがる
g. ものをなくす
h. 気が散る
i. 忘れっぽい 
内海先生的には、DSM5自体がとっ散らかっていると皮肉ります。では、どうやってこれを整理して再構成していくのか。


注意の構造

そもそも『注意/attention』という用語は精神医学的には軽度意識障害があるかどうかを判別する文脈でアセスメントされるとこはありましたが、明確な定義がなく多義的であるため、まずはそこから整理をしていこうと。

アメリカの哲学者 ウィリアム・ジェームズが100年前にけっこうイイ定義をしてると紹介されていました。
When we take a general view of the wonderful stream of our consciousness, what strikes us first is the different pace of its parts. Like a bird’s life, it seems to be an alternation of flights and perchings. 
William James: The stream of consciousness.(1892)
つまり、注意には独立した2つのモードがあって、鳥のように、あるときは、じっとして、、、次の瞬間、飛び立つ!みたいな。そしてこの2つの側面は統合できないものであると。

注意の機能には、じっと枝に止まっている鳥のように、急な変化をひろうセンサーのようなボトムアップ的なモードと、ここぞとばかり飛び立つ鳥のようにピンポイントに作動するトップダウン的なモードに大別されます。

ハシビロコウ

また、ADDのひとの注意力については「くっつきやすく/はなれにくい」とよく言われています。単なる『注意の欠陥/attention deficit』というよりも『注意のムラ/attention inconsistency』 としてとらえるべきだろうという指摘がありました。



ADD症状を再編する

内海先生なりにADD症状を再編しようとしていて、まだ未完成ながら解像度の高い症候学が練られていてとても勉強になりました。

それぞれの症状を対応する注意の2つのモードと注意力の不均衡を2軸4象限として、DSMの散らかった症状を整理することができるかもしれません。

ボトムアップのムラ、つまり
  • ボトムアップ過剰 h.気が散る
  • ボトムアップ過少 a.うっかりミス c.うわの空 g.ものをなくす i.忘れっぽい
トップダウンのムラ、つまり
  • トップダウン過剰 e.とっ散らかす 
  • トップダウン過少 b.飽きっぽい d.途中で投げ出す f.めんどくさがる
こうするだけでだいぶ整理されてきました。


DSM5にはないADHDの強み

DSMは障害の診断基準なので、当然のことながらADHDの強みは書かれていないという指摘がありました。締め切りが迫ると本領発揮したり、集中力が高いところなどです。

これはいわゆるゾーンに入ることだと思います。別の勉強会で取り扱ったハンマー投げの金メダリスト室伏広治による『ゾーンの入り方』の解説が奇しくも先のWilliam Jamesの記述、注意の2つのモードと重なります。
静かに集中している状態というのは、いわば林の中の池の水が一切揺れ動かずに静まり返って鏡のように周りを映し出している状態です。それが、ある瞬間、一気に躍動感をもって動き出すのです。たとえば、アテネのスタジアムの喧騒の中で私が集中力を取り戻すことができたのは、夜空を見上げて星を見つけることで、自分の中に静寂を作ることができたからです。そして、夜空の星を見て集中した次の瞬間、野獣のようにハンマーを投げる。星空モードだけではいけないし、野獣モードだけでもいけない。その両方を持っておく。そして、突如としてどちらにもなれる。それが私の理想とする集中です。
ゾーンの入り方 (集英社新書)
室伏 広治
集英社
2017-10-17

その他にもADHDにはいろいろな強みが紹介されていました。レジリアンス、クリエイティビティ、公正さなどです。

これから、コーピングや二次障害について、ADHD症状とクリエイティビティのトレードオフについて、などなど、もっとおもしろくなるのですが、内容が盛りだくさんすぎるので続きは次回にまとめてみます。


共感するロボットを設計すること



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ロボティクスによる発達の理解

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共感というシステムは生物種を越えて拡張可能であるだけでなく、ロボットでも可能になるということで、人工的に共感するロボットを設計するというおもしろい試み「情動発達ロボティクスによる人工共感設計に向けて」があるので紹介します。

発達心理学の知見を参照してロボットを設計するして、その過程で得られた知見によってさらに発達のメカニズムがより深く理解できるようになるのではないか、という考え方です。

興味深いのは、設計者がロボットの脳に直接プログラムを書き込んでいくのではなく、ロボットと人間との身体的な接触を通じて得られたデータを元にして、ロボット自身が能動的に学習してプログラミングしていくという方式をとっているところです。

つまり、ロボットの赤ちゃんにも母親役が必要みたいです。


ロボティクス(ロボット工学)という思考法



「理学」は「どうなっているのか」を探求する学問で、「工学」は理学をベースとして「どうしたら実現できるか」を探求す学問です。

工学の考え方は「とりあえずやってみないとわかんない」というノリなので、実践の積み重ねによって帰納的に試行錯誤を重ねて理解を深め、少しずつ解決に近づいていくアプローチをとります。

この考え方は臨床医学に通じるところがあります。

発達心理学や精神分析は「かくあるべし」という考え方になりがちで、ともすれば独善的になったりします。実際の臨床現場ではひとりひとり複雑な事情がからんでいて一般化しにくく、知識が役に立たないことが多かったりします。

単純に独特の表現や用語が苦手なので敬遠しているひとも多かったりするので、これからはロボティクスから発達を学ぶ方が理解しやすいという人が増えるのかもしれません。


人工共感の設計

オランダ出身の著名な動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールは、共感の構造をマトリョーシカみたいな入れ子構造であると説明しています(情動感染<EE<CEの3層構造)。

共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること
フランス・ドゥ・ヴァール
紀伊國屋書店
2010-04-22

人工的に共感するロボットの設計は、それとは比べものにならないくらい精緻な構造になっていて、概念図がスゴイことになっています。
人工共感の発達

ざっくり解説すると、
  1. 自分と他人の区別がつかない状態において、ミラーニューロンシステムを基盤とした身体運動の同期(ものまね)と他人の感情が自分へ伝わること(情動伝染)が連携し、養育者とのやりとりを通じて、自分と他人を認識するようになります。

  2. 自分と他人の区別ができるようになることに並行して、共感も発達します。

  3. 自分を基準に考えることができるようになると情動的共感(EE)が生まれます。

  4. 自分と他人を完全に区別できるようになると、他人の視点で考えたり、他人の心をシュミレーション(心の理論)できるようになり、認知的共感(CE)が生まれます。

  5. 自分の感情を制御できるようになることで、相手の感情に同期しながら、異なる感情を引き出すこと(同情・憐れみ)ができるようになります。

  6. 自分を自分で客観的に観察すること(メタ認知)ができるようになると、

  7. 相手の感情とは逆の感情を社会的文脈(自分が所属する集団と外部の集団との関係)に沿って引き出すこと(妬み・メシウマ)ができるようになります。


カウンセリング・ロボットの可能性

ロボットによる人工的な共感が可能になれば、カウンセリング・ロボットができたりするかもしれません。

キャリアカウンセラーの役割を人間とロボットで比較した研究があります。まだまだ発展途上のロボットなので、カウンセリングの満足度は低かったようですが、意外な効果があったようです。
ロボット群の参加者の中には,「キャリアカウンセラーだったら,ついつい相手に答えがあると思って頼りにしてしまうけれど,相手がロボットだから,自分でストーリーをつくらなきゃと思う」と認識し,ロボットを発話の記録主体と位置づけ,自分でメモをつくり,メモの記録内容を最終過程で統合し,キャリアアンカーを意味づけた者が存在した.
カウンセリング・ロボットは発話内容を繰り返す「リボイス」によって、クライアントから「聞き手」として認識され、共感が生まれた事例が報告されていることがとても興味深いです。

そもそもカウンセリングは、クライアントに対して答えを教えてあげるのではなく、自分自身で答えをみつけることを支援するものなのですが、ついついカウンセラーに対して「答えを知っている人」という幻想を抱いて依存してしまい、自分で答えを探すことができなくなることがあります。


ドラえもん療法

JOJO風ドラえもん
ところで、ロボットと言えば「ドラえもん」。四次元ポケットからいつも凄い道具を出してくれますが、調子に乗って使っているとろくなことにはなりません。頼りになるのか頼りにならないのか、そもそもなんでネコなのか、わけのわからない存在です。

「決して頼りにはならないけど、いつも味方になってくれる、わけのわからない存在」というのは理想の治療者像なのではないかと個人的に思っていたりします。つまり「ドラえもん療法」。

というわけで、「なんでも知っている」という幻想をふりまいてとっても頼りになりそうな治療者よりも、ちょっとした共感システムを搭載したロボットの方が優秀な治療者になる可能性があるかもしれません。

次回は、共感のダークサイドについて考えてみたいです。


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