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ピアジェとフロイトの発達論について/滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その2


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滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その2
というわけで、今回はひさしぶりにこの本を紹介していきます。

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27


第1部の理論編のうち第4〜6章、滝川の発達論について、ぼくなりに考えをまとめてみました。とりあえず、滝川はピアジェとフロイトの発達論をミックスしていますが、ピアジェはともかくフロイトはまずいでしょ、という話です。
第4章 「精神発達」をどうとらえるか
第5章 ピアジェの発達論
第6章 フロイトの発達論

滝川一廣2分法

滝川は人間の発達を「認識の発達」と「関係の発達」の2つにわけて表現しました。
  • 認識の発達 いわゆる知識と理解。意味や約束を「知ること」 
  • 関係の発達 いわゆる社会性。集団の中で人間と「関わること」

滝川一廣2分法

知的障害をもつひとは認識の発達が遅れていて、自閉スペクトラム症/ASDのひとは関係の発達が遅れているとシンプルに説明しています。

この2分法はとてもわかりやすくて便利なので、ぼくもASDの講義をするときに利用させていただいております。

しかし問題なのは、滝川は「認識の発達」をピアジェの発達論に、「関係の発達」をフロイトの発達論にそれぞれ対応させて説明しているところです。ピアジェはともかく、フロイトにしたのは大失敗です。

なぜなら、フロイトの発達論は実際の乳幼児を対象にした研究ではないし、理論的に間違っていることが明白で、もはや見向きされなくなっている理論だからです。ひと昔前は、教員採用試験や看護師の国家試験に出題されることがあったのですが、今はもうほとんど出題されなくなっています。

なので、この本では「関係の発達」がどのようになされていくのか、という説明がわかりにくくなっています。


フロイトの色眼鏡

高齢の精神科医はフロイト精神分析の洗礼を受けている率が高いのですが、若い精神科医はあまり影響を受けなくなっています。あまりも役に立たないばかりか有害なことすら多いからです。

フロイトの発達論で特徴的なのは、親子関係に対する異常な執着です。フロイトに影響を受けた精神科医は幼少期の親子関係について根掘り葉掘り聞くクセがあって、親子関係が子どもの将来に決定的な影響をおよぼすという信念をもっています。しかも、だいたいネガティブな内容の予言になっていて、まるで「呪い」とか「占い」のたぐいみたいになりがちです。

さらに、親と子の格差を強調するあまり、どうしても親が加害者で子が被害者であるという発想にかたよってしまいます。

確かに、虐待が発生している極端な親子関係であれば、子どもに大きな影響をおよぼすことは明白ですが、一般的に親の影響力は児童期以降だんだん小さくなり、思春期に入るとほとんど影響力を行使できなくなります。

自分の子ども時代を思い出してみると明らかですが、児童期以降はだんだん親よりも友人や恋人から大きな影響を受けるようになります。せいぜい5コ上の先輩や10コ上の有名人に憧れることはあっても、30コ上のおっさんに憧れることはほとんどありません。


フロイトの発達論はパンチがきいてる

フロイトの発達論/心理性的発達理論
  • 口唇期 Orale Phase   0~1歳頃
  • 肛門期 Anale Phase   1~3歳頃
  • 男根期 Phallishe Phase   3~6歳頃
  • 潜在期 Latente Phase   6~12歳頃
  • 性器期 Genitale Phase    12歳頃~

それぞれ、授乳している口唇期、トイレット・トレーニングしている肛門期、性器に関心があつまる男根期。それぞれの時期にトラブルが起こると、甘えん坊、ドけち、マザコン/ファザコンになっちゃうというパンチのきいた説です。

はじめて教わったときは「なにかのギャグ?」と思って笑いをこらえるのに必死でした。こうしてひさしぶりに眺めてみると、なかなか壮観で感動すら覚えます。しかし、この枠組がおおマジメに正しいとされていた時代がつい最近まであったわけです。


語られない潜在期

聡明な滝川は、さすがにフロイトの発達段階説は古めかしい決定論であり現代社会にはなじまないと批判していますが、最終的にはフロイト理論をしっかり受け入れてしまっています。

フロイトの発達論がダメなところを端的に示しているのは、6歳から12歳頃までの「潜在期」を軽視しているところです。その名のとおり「潜在期」はあまり動きのない時期とされていますが、この時期は、子どもが社会化をはじめるもっとも重要な時期であり、もっともダイナミックな変化に富む時期であることは臨床経験からも明白です。

潜在期の6年間は、口唇・肛門・男根期よりも長期間であるにもかかわらず、あまり語られていません。それを踏襲した滝川も潜在期の記述がもっとも薄くなってしまっています。

親よりも子ども同士の相互作用が重要であることは以前の記事でも紹介しています。



ピアジェの発達論は意識高い系のASD

一方、ピアジェの理論は発達認知研究のベースになっています。滝川の「認識の発達」にほぼ対応しているといってよいでしょう。ASDをもつひとにも保たれているので、ASD的な発達の側面であるといえます。

ピアジェの発達論/認知発達段階説
  • 感覚運動期  0~2歳
  • 前操作期   2~7歳
  • 具体的操作期 7~12歳
  • 形式的操作期 12歳~成人まで

外の世界に対して、感覚や運動によって相互作用を始める「感覚運動期」、自分と外の世界との境界を認識する「前操作期」し、具体的なものを取り扱う「具体的操作期」、抽象的なものを頭の中で演算できる「形式的操作期」。

生物学者からスタートしたピアジェは「生物の本質は世界に対して能動的に働きかけて変革することである」というコンセプトをもっていたようで、活動性とか能動性への信仰がみられます。

ピアジェは「生物は大きな進化の流れの中にある」という受動的なダーウィンのコンセプトには賛同せず、主体的かつ能動的に活動して環境に適応していくことが発達であるというコンセプトを重視しました。つまり、とっても前向きな意識高い系なのです。


意識高い系による意識高い系のための理論

生涯で観た映画はたったの4本!というピアジェ自身、かなりのワーカホリックでバカンスなしで研究に没頭していたカタブツだったらしく、意識高い系の科学者でASDに親和性の高いひとだったのかもしれません。

ピアジェの発達論は意識高い系のASDっぽいエリート層にウケて、戦後日本における教育指導要領に取り入れられてきました。そのため、ASDに親和性の高い制度設計がなされてきたのかもしれません。

ピアジェの発達論は、まるで子どもを機械に見立てている風にもみえるので「子どもの笑顔がみあたらない」と批判されていました。ですが、それは逆にASDをもつのひとの発達の側面をうまくとらえているともいえるでしょう。

他にも、ピアジェは子どもの能力を低く見積もりすぎているという批判もあって大幅に見直されているところなので、あくまでも参考程度にして個別のケースに当てはめないようにする必要があります。


「関係(社会性)の発達」を説明する理論は?

それでは、タテ軸「認識の発達」はピアジェの発達論をベースにするとして、ヨコ軸「関係の発達」はフロイトの発達論に代わってどんな理論をベースにすべきでしょうか?

というわけで、次回はロビン・ダンバーの社会脳仮説とかマキャベリ的知性についてまとめていきます。


発達障害をもつ子どもが利用する療育施設の選び方


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療育に関する問題は昔からボンヤリと考えていたのですが、「アヴェロンの野生児」の療育について調べてみて、問題点がだいぶ明確になりました。

児童思春期外来を10年以上もやっていると、「発達障害の療育施設はどこがいいですか?」と質問されることが多くなってきたので、いろいろな療育施設を見学してみて感じたり調べたことをまとめてみようと思います。

放課後デイサービスなどなど療育施設がたくさん出現しているので、選び方に迷われるひとが多いようです。

一般的に、療育施設を選ぶにあたって、カリキュラムがどうだとか、スタッフの力量がどうだとか、わりとどうでもいいことが強調されがちだったりするので、もっと実用的な選び方を紹介できればと思います。


おすすめできない選び方

  • 家から遠い
  • 医療機関が運営している
  • 言語療法士や作業療法士など専門職が多い
  • 特別なメソッドを使っている
  • 親向けのプログラムを熱心にやっている
  • 高額な料金がかかる

おすすめな選び方

  • 家から近い
  • 送迎サービスあり
  • 子どもが雰囲気になじめそう
  • 親がひと休みできる
  • 料金がかからない


まずはアクセスと料金をチェック

療育は生活に密着している営みなので、なるべく家から近くて通いやすくて便利なところにしましょう。送迎サービスがあればなおよしです。

また、なるべくお金がかからないように、公的補助によって料金負担が少ないところを利用しましょう。

たとえば、有名な療育施設へ通うために片道2時間かけてせっせと通所して、やたらと高い料金を払っている熱心な親御さんがいますが、時間とお金がありあまっているひと以外はやめたほうがよいです。それなら、楽しいイベントに参加したり美味しいごはんを食べに行く方がよっぽどマシです。


とりあえず子どもがなじめそうかどうか

最も重要なのは、お子さんが療育施設になじめそうかどうかです。子どもは自分に似たタイプの子どもに接近して仲良くなるので、そのへんをチェックしておきます。

施設ごとにカラーが微妙に違うので、見学や体験をしてみて確かめましょう。

もしも、あまりなじめそうになくて、子どもが楽しくなさそうなら、気にせず他のところにも行ってみましょう。よさそうなら移籍すればOKです。

他の子どもたちと遊べるようになることが重要なので、有名な先生がいるとか、専門職がいるとか、特別なメソッドを使っているとかは、わりとどうでもよかったりします。

オトナのメンツよりも、子どものメンツを重視しましょう。


親にとって便利なところがいい

次に重要なのは、子どもを預けているあいだ、親が気をつかわずにひと休みできるかどうか、です。

極論を言うと、療育の効果がゼロでも、子どもを預けているあいだに親がゆっくり/レスパイトできていれば、それだけで状況がよくなったりします。ただでさえ障害をもつお子さんをもつ親は、教育に力が入りすぎてしまい疲れてしまうことが多いからです。

なので、親も参加しないといけないプログラムを押しつけてくるところはあまりおすすめできません。

親子が真剣に向き合いすぎると感情がもつれるし、お互いに消耗が激しくなって状況が悪化する場合がけっこう多いです。

せめてお子さんが療育施設を利用している間くらいは、子育てから解放されて、ひと息ついてゆっくり自分の時間を大切にしていただきたいと思います。



専門職が多いところは?

療育施設を選ぶときに、臨床心理士やら言語療法士やら作業療法士やら精神保健福祉士やら資格者がいるところを優先するひとがいますけど、これはあまり重要な要素ではありません。

発達障害の子どもの療育について実務経験があるかどうかと、資格をもっているかどうかは、ほとんど関係がないからです。

むしろ、事業所が宣伝効果のために、資格者が在籍していることをアピールするために、実務経験の乏しい資格者を急ごしらえで採用していることもあったりするのでかなり微妙です。

同じような理由で、特別なメソッドを使っているところは、他にアピールするものがなくて困っていたり、偏った考えを押しつけてくる場合があるので、あまりおすすめできません。特別なメソッドよりも当たり前の日常の積み重ねが重要だからです。


医療機関で療育を受ける意味はある?

病院やクリニックなど医療機関で療育プログラムをやっているところもありますが、だいたい中途半端になりがちです。

某医療機関の療育は予約がいっぱいなので月に1回だけ通っています、というひとがたまにいますけど、子どもにとってはほとんど意味がありません。「療育やらせてます!」というアリバイ作りにすぎないので、やめたほうがいいと思われます。

療育の運営主体は医療機関だろうがNPOだろうがほとんど関係ありません。療育と医療は、近いようでめちゃくちゃ遠い営みなので、必ずしも医療機関で療育をやればよいわけではないからです。

とくに発達障害の支援は、医療機関で包括的にやれるものではありません。医療・教育・福祉・行政などなど複数の専門家による支援ネットワークの形成が重要で、医療はその一端を担うにすぎないからです。

というわけで、お子さんにとって楽しい療育になることを願っております。
子どもたち

伽藍にとらわれる統合失調症、バザールに順応する発達障害。


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前回までに紹介した内海先生の講演を通して、今回はいろいろ考えてみました。
  • ADDの症候学と診断基準の見直し

  • ADDの代償行動と二次障害について


内海健の変遷

もともと内海先生は統合失調症の病理学がご専門で金字塔的な仕事があります。研修医の頃は聖典にしてたりしました。



統合失調症の病理を語る内海先生はとてもスゴみがあってシャープだったんですが、ADHDの病理を語る内海先生はどことなくスゴみがうすれていてソフトでライトでポップな感じすらします。

いわゆる聖典がなく明確な定義もないADHDの精神病理について、当事者の手記や図表やイラストを多数紹介しながら、ややまとまりがなく若干とっ散らかった講演でした。

なので質疑応答では、結局のところADHDの本質とは?定義とは?とかツッコまれて少々困った様子だったりしたのが印象的でした。

個人的には、むしろとっ散らかったままの方がイイし、ツッコまれて困る必要もないと思うわけですが、ともかく、日本を代表する精神病理学者である内海先生ご自身の変化が、精神病理学の変化そのものを体現している可能性があると感じたわけです。


精神病理学は伽藍からバザールへ?

精神科医は病気の仕組みを理解しておくべきだろうということで、精神病理学会には毎年参加しているのですが、そんなモノ好きな精神科医はまわりにはほとんどいないわけで、学会はだんだん過疎ってきて衰退の一途をたどっているようです。

かつて精神医学の中心であった古き良き精神病理学の雰囲気はちょうどこんな感じでしょうか。

Cathedral

このような人々を圧倒する荘厳な『伽藍/大聖堂』で、聖典を片手に神官が語るありがたい物語を聴衆が必死でメモる時代が終わりに近づいている感があります。

宮本忠雄の『狂気の内包の縮小と外延の拡大』という預言通り、精神疾患は全体的にはうっすら軽症化しつつ世間に拡散していて、だんだんカジュアルになっています。

また、発達障害など新しいパラダイムが台頭してきて概念が錯綜していることもあって、ますますこのような雰囲気に馴染まなくなってきています。

では、これからの精神病理学はどうなっていくのでしょうか?

Bazaar

もしかしたら、これからは大衆に広く開かれた場所にある、ゴチャゴチャした猥雑な『バザール/市場』で、商人の話をおもしろ半分に聞きながら、軽薄な消費者として自らも参加しながら少しずつ物語を再構成していく時代になっていくのかもしれません。


伽藍にとらわれるひとたち

新進気鋭の精神病理学者である松本卓也は、『垂直方向の精神病理学』が特権化されすぎていることを問題視して、『水平方向の精神病理学』を再評価することを提唱しています([PDF]精神病理学における垂直方向と水平方向)

とてもよくまとまっていて勉強にはなるのですが、これって要は『伽藍とバザール』のことだと思うわけです。

『伽藍とバザール』は、ソフトウェアの開発方式に関するプログラマー向けの論文で、これまでの閉鎖的で中央集権的な開発手法(伽藍方式)よりも、オープンソースにして分散的に開発する手法(バザール方式)がうまく機能することがあるよ、という考えです(「伽藍とバザール/The Cathedral and the Bazaar」Eric S. Raymond 著 山形浩生 訳)。

統合失調症のひとや精神病理学者は、どちらも伽藍にとらわれやすい性質をもっていて、統合失調症の治療の契機となる『水平方向の関係』は、貨幣空間であるバザールでこそ拡張されているのではないか、と考えています。


バザールに順応する発達障害

伽藍は閉鎖空間なので、成功するためにはなるべく他のひとと同じようにふるまい、目立たず品行方正に過ごさなくてはなりませんが、発達障害の行動特性はどうしても集団のなかで目立ってしまうため、致命的な欠陥となりがちです。

一方で、バザールの世界は参入も退出も自由なオープン・スペースなので、少々悪評が立ったところでさほど影響はありません。そんなことより、他のひとよりも目立って覚えてもらうことが重要だったりするので、発達障害の行動特性(の一部)はしばしば有利にはたらくことがあります。

というわけで、発達障害の特性を活かしてビジネスの世界で成功しているひとがたくさんいます。

堀江貴文さんの『多動力』はADHD特性をうまく活用する方が適応しやすいかも、というメッセージがこめられている本で、25万部も売れていて世の中に広く受け入れられています。

ちなみに同時期に発売された西村博之さんの『無敵の思考』はASD特性を活用する本として読めたりして興味深いです。


ふたりはもともとプログラマーなので、若いうちから『伽藍とバザール』の影響を受けていて、いち早く現実の世界にそれを応用することができているのかもしれません。

触覚過敏から考える共通感覚について


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自閉症の感覚過敏と言えば聴覚過敏や視覚過敏。過去の記事でその対策としてのノイズキャンセリング・ヘッドフォンやアーレンレンズ・サングラスを紹介しました。


ですが、感覚過敏のなかでも見過ごされやすいのが『皮膚感覚』つまり『触覚』の過敏性ではないかと最近考えています。

というのも、自閉症の患者さんのなかには、毎年夏になるとパニックになったり興奮して暴れること増えるひとがけっこういます。たいてい鎮静作用の強いお薬が漫然と処方されていたりするんですが、よくよく尋ねてみると真夏の暑さによって汗でカラダがベトベトする皮膚感覚がものすごく気持ち悪くて辛抱たまらないんだそうです。


触覚過敏について

首まわりや脇など太い血管が走っている急所部位は特に触覚が敏感になっています。タートルネックのセーターのあの嫌な感じ!

また、触覚は他の感覚と違って全身にセンサーが分布していて、視覚や聴覚のように特定部位に限局していないので、触覚過敏は特定されにくく、見過ごされやすく、誤解されやすくなっています。聴覚過敏や視覚過敏は比較的対策が立てやすいのですが、触覚過敏はいかんともしがたいものがあります。

タートルネックのセーター、真夏のスーツ着用、満員電車で他人と密着、ベタベタとカラダを触られること、などなど耐え難い触覚は、時に精神面に重大な悪影響を及ぼします。

というわけで、自閉症の感覚過敏で最も重視されるべきは皮膚感覚=触覚の過敏じゃないかと思う今日この頃です。

対策としては、綿や麻の素材の衣服を着用したり、制汗デオドラントを使ってみるのがよいみたいで、夏を乗り切るためにもオススメです。500円ほどで手に入ります。

触覚の特異性について

これを機会に触覚について考えてみました。そもそも原始的な生き物には触覚しか感覚がありませんし、赤ちゃんの触覚はあらかじめ他の感覚よりも発達しています。

触覚はもっとも原始的な感覚であり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚など他の感覚を組織する細胞は全て皮膚表面にある上皮細胞が起源となって進化したものだったりします。

また、皮膚は神経と性格が似て精神にダイレクトな影響を及ぼす臓器であると言われています。


触覚的に聴くこと

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例えば、ヘッドフォンで音楽を聴くことと、野外フェスで生演奏を大音量で聴くことは全く異なる体験であって、後者は聴覚のみならず全身の皮膚における触覚ないし体性感覚や内臓感覚からダイレクトに音を受けとっているため情報量が格段に大きくて感動的なわけです。


触覚的に視ること

「人は見た目が9割!」というしょーもない書籍がありますが、なにかと視覚情報によって物事を判断することが多いわけですが、熟練した画家や建築家などは触覚的に対象を捉えているとも考えられています。

セザンヌはまるで目が見えない人のように絵画を描きました。まるで物体をまさぐったようにして描かれた静物画。それぞれの物体は様々に異なる視点から捉えられていて、形態に独特の歪みを生じています。その結果、物体の存在感が異様に際立ち、見る者に迫ってくるという効果が生じています。
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ガウディは、まるで地べたを這いずりまわるような形態をした触覚的な建物を創作しました。
彼を視覚優位の発達障害という観点から分析している本があります。それによると彼のビジョンは「実際に目の前のものを見る機能と、いまだないものを映像で具体化できる機能〈中略〉その両方の機能をさしている」とありますが、それってつまり完成形にあらかじめ触れていたんだと思うんです。それだけでなく、無秩序で膨大な触覚的な感覚を統合して秩序をつくりだしたことろが凄まじいわけですが。


ビル・ヴィオラの映像作品みると、否応なく触覚が呼び起こされます。ここまでくるともう視覚的な映像表現というよりは、人間がどのように世界を認識しているのかとか人間がどのように構成されていくのか、という次元が表現されているいっても過言ではありません。 


共通感覚

中村雄二郎『共通感覚論』によると、大勢の人が共有する社会的な常識や判断は、ひとりひとりの様々な感覚の束(共通感覚)から生まれてくるそうです。
ここでも触覚の重要性が指摘されています。というのも、視覚は優秀だけどけっこうダマサれやすいからです。
waterfall
見た目はこぎれいでこざっぱりしてるんだけど、よくよく考えてみると、笑顔や演出がなんとな〜くうさんくさい!という共通感覚が多くの人々の間で共有された結果生じるダイナミズムによって、次々と化けの皮が剥がされていく現象があちこちで起こっている昨今、触覚的に物事を吟味することの重要度が増してるような気がします。

共通感覚の精神病理学

かつてブランケンブルクは統合失調症の仕組みを「共通感覚=自明性の喪失」として説明しました。統合失調症の患者さんは共通感覚を喪失しているがゆえに、抽象的な問題や理論を取り扱うことは得意であっても、あたりまえの日常生活を送ることが苦手であると。

近年、むしろこれは自閉スペクトラム症の仕組みなのではないかと言われています。自閉スペクトラム症を理解するためには、視覚的に性急な知識を身につけるよりも、触覚的に鈍重であっても確実な知識を身につけていくことが重要ではないかと思う今日この頃です。

中心気質は破綻しやすいか


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映画監督ポール・トーマス・アンダーソンと中心気質の関連について、病跡学会というかなりマニアックな学会で発表したのでブログにまとめておきます。


中心気質とは

気質(きしつ temperament)とは、先天的にもっている刺激などに反応する行動の傾向です。これに対して「性格」は、先天的な「気質」に経験や環境の影響によって後天的に形成される行動の傾向です。 

その昔、クレッチマーという精神科医が精神疾患に関連した3つの気質分類(分裂気質・循環気質・粘着気質)を提唱しました。その後、安永浩という精神科医が粘着気質を「中心気質」という概念へ発展的に変更することを提案しました。粘着気質は他の気質に比べてネガティブなものだったのですが、中心気質はかなり拡大されてポジティブなものになっています。

気質はエビデンス的には意味がないということで、気質について考えるのは流行りませんが、生来の気質を吟味して今後の行動傾向を予測することは精神科臨床上、大切だったりするので知っておいて損はないということで3つの気質をざっと解説します。

芥川龍之介
◎分裂気質(芥川龍之介)
敏感で鈍感、突飛で頑固。俗っぽいことよりも抽象的な理論や芸術を好み、孤独を愛し、自分だけの世界をつくりあげるひとです。変人っぽい学者や芸術家のイメージでしょう。 


田中角栄
◎循環気質(田中角栄)
円滑で柔軟、温厚で社交的。現実的なことを好み、精力的で陽気なムードメーカーで、人間関係をうまく調整して組織をつくりあげるひとです。政治家や実業家のイメージでしょう。


長嶋茂雄
◎中心気質(長嶋茂雄)
粘着気質は質実剛健な軍人のイメージですが、今回とりあげた中心気質とは、ふつうにのびのびと育った子どものイメージです。以下は安永による説明です。

天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
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<中心気質>という概念について 安永浩
子どもはみな中心気質なのですが、そのまま成人する場合と循環気質や分裂気質に変化していく場合があります。その場合でも中心気質的な側面をいくらか残していたりします。


安永の預言

安永浩は1980年『境界例と社会病理』という論考において、興味深い指摘をしています。
現代文明は中心気質においてもっとも直接的な圧迫を負荷し、これを破綻に追いこむような形になる
 
また、臨床的直観によって境界例(の一部)は『中心気質型破綻』を思わせる 
分裂病の症状論
安永 浩
金剛出版
1987-07



境界性人格障害はもはや注目されなくなりましたが、中心気質者が活躍する場がなくなって生きにくいご時世になる、すなわち精神科の門を叩くことが増えているという預言は、臨床経験からすると確かに実現していると思ったので大変興味深いと思いました。

当クリニックは児童思春期外来に力を入れていて比較的若い患者さんが多いためかもしれませんが、成人の患者さんの中にも中心気質的な傾向のあるひとが多いと感じています。

中心気質について論じるひとはとても少ないのですが、先輩の精神科医が先日出版した著作には中心気質についての論考が載っています。

 
安永の預言から30年後の2011年、杉林は「<中心>をめぐる考察」において、中心気質と東浩紀の動物化するポストモダンとの関連を指摘した上で、近年とみに増加の一途をたどっている「いわゆる発達障害」の多くが中心気質性を色濃く備えている、と指摘しています。 


中心気質と発達障害の関連

先ほどの
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
という記述はADHD(注意欠陥多動性障害)的
(危険に対して)発作様のパニック、もしくは爆発的な怒り、という形をとりやすいだろう。

ほとんど人を人とも思わないようなところがあり得る。(中略)要するに人でも物でも同じなのである。
という記述はASD(自閉スペクトラム症)的
成長がいびつである場合、あるいは挫折の結果をこうむる場合、等々において、かなり特徴ある「中心気質周辺」的な人格をつくり得る
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という記述は、発達障害における二次障害を思わせます。

このように、中心気質の特性は“発達障害”の特性(ADHDやASD)に類似します。児童精神科領域では「ADHD気質」なるものが言われていますが、それはそのまま中心気質だったりします。そもそも発達障害の症状は基本的には「発達の停滞」によるものであり、中心気質の定義にも共通します。

境界例ではなく、1980年当時はあまり存在が知られていなかったいわゆる“発達障害”の領域にこそ中心気質型破綻が生じているのではないでしょうか。

いまだ臨床的有用性が十分検討されていない中心気質という概念を再検討することは、発達障害の理解を深めることに寄与するかもしれないと考えました。


「ほんもの」を選びとる能力

安永は先の論考で個人病理と社会病理の関連について、もうひとつ興味深い指摘をしています。
現代において要請されるのは、均一化(あるいは相対化)された、一様におなじになってしまった価値系から各個人がそのそのつど「ほんもの」を選びとる能力である。
「ほんもの」を選びとる能力とはなにか?
 
安永によると、いったん「ほんもの」を選びとった(気になった)としても、絶えず価値観が流動化している現代においては「ほんもの」性を損なわない範囲内で柔軟に変身する能力が要請されるし、また一方で、いまだ「ほんもの」を選びとっていないひとにとっては「ほんものでないことの強制」つまり「本来必然性のない強制」がゆるく課せられることになると。例えば「みんながやることだから○○しろ!」という形で。
この葛藤自体には切実さがなく、隠微に人間本来の健康性をうらぎり、しかも自覚さえし難い。一様単調な「妥協の平和」を形成する。
分裂気質者ならば平和を歓迎して「ほんもの」でなくてもいいと割り切るでしょうし、循環気質者であれば相手にあわせて柔軟な変わり身が可能でしょう。

この状況において深刻な破綻を呈するのはやはり中心気質者なのです。


中心気質型破綻

中心気質者の特性として、
弱い微細な刺激では不満足

その代わり至適量に達した刺激への直観的鋭敏、感覚的陶酔はもっとも高度にして純粋

よくも悪くも明暗・強弱のはっきりした体験様式をとる 
したがって、一様単調な『妥協の平和』は、直接に耐えがたい圧力となって中心気質者を破綻に追いこむことになります。破綻の典型的様式は、発作的爆発や意識そのものの消し去りであり、嗜癖問題の重大化や意識変容嗜好にもつながったりします。

僕なりの解釈では、本当はみんな「ほんもの」じゃないと知っている=胡散臭い状況、つまり正当性のないルールに従って、内に募る不満に耐え、周囲との軋轢を来さないよう自重することが求めらる状況に長時間さらされ続けた結果、中心気質者あるいは我々の中心気質的側面は、ソレを我慢できずに「ほんもの」の空気をぶち壊したくなってしまうわけです。

これはまさに、発達障害者の不適応状況にも多く見受けられる光景ではないでしょうか。

そのような中心気質型破綻が顕著に表現されている映画といえば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の作品だと思ったわけです。。。つづく

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