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モジュール化したあとで流動化する知能


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前回からの続きです。認知考古学者スティーヴン・ミズンの「認知的流動性」という考え方を活用して、児童精神科医の滝川一廣の考え方をアップデートできるかもしれない、という話です。


滝川一廣2分法をアップデートする

児童精神科医の滝川一廣は、心の発達を2軸で説明しています。これをミズンの知能分類にあてはめると以下のようになります。
  • 関係の発達/社会的知能
  • 認識の発達/技術的知能+博物的知能

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27




2軸を想定したのはセンスがいいのですが、滝川も社会科学者と同様に「人間の認識は文化や社会によって強く規定されている」と考えているがゆえに、「認識の発達」は「関係の発達」に支えられているという素朴で月並みな想定をするだけに終わっています。

児童心理学の大御所ピアジェは、人間の心はコンピューターみたいなものであると強く信じたひとでした。そして滝川はピアジェの発達論を「認識の発達」の説明に活用しています。

これはとても妥当なことで、ピアジェの発達論は技術的知能や博物的知能を説明するにはとても便利なツールになっていますが、便利であるがゆえに不十分なところがありました。


ピアジェ発達論を活用した考古学者

同様にピアジェの発達論を活用したひとをみてみましょう。前回紹介した考古学者スティーヴン・ミズンよりも前に「認知考古学」を試みたひとがいました。

心の先史時代
スティーヴン・ミズン
1998-08-01


考古学者トマス・ウィンは、30万年前に存在していた手斧/ハンドアックスが左右対称の構造であることから、当時の人類は道具の完成形をあらかじめイメージして制作することができていたと想定しました。

これはピアジェ発達論の最終段階である「形式的操作期」に該当するため、当時の人類には現代人の心が完成されていたのではないかと推測しました。

これはとても画期的なことで、考古学によって絶滅した祖先の心を理解することができた、、、かのようにみえました。
ルヴァロワ技法
しかし残念ながら、30万年前は石器こそ洗練されていたものの、その他の文化はほとんど発達した形跡がみあたりません。

つまり、技術的知能だけにスポットライトをあてると、高度に発達しているようにみえていても、それ単独では人間の心や文化を説明することはできないわけです。

なので、それぞれの知能モジュールとの関連を考えなければなりません。


比喩という叡智

ここでミズンが注目するのは「比喩」です。比喩といえば村上春樹。
彼女が一枚ずつ服を身にまとっていく様は、ほっそりとした冬の鳥のように滑らかで無駄な動きがなく、しんとした静けさに充ちていた。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
三つめの納屋と四つめの納屋は年老いた醜い双子みたいによく似ている。
「納屋を焼く」
氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。
「氷男」
世の中には比喩表現があふれていて、人々は比喩が大好きで、比喩をしたくてしかたがありません。人間は動植物やモノにも心があると想定せずにはいられない性質があるようです。

また、万物には霊魂や精霊が宿るというアニミズムは、古今東西・老若男女にみられる現象です。

つまり、人間の心は人間以外のモノを擬人化して社会的文脈におくことができるようになっています。

これは社会的知能と博物的知能がコラボレーションすることで可能になります。

それぞれの知能モジュールが連動して作動することを、ミズンは『認知的流動性』と呼びました。それこそが、人間の心の特徴であり、文明をもたらすものであると。


言語機能の拡張/言語による侵食

人類学者のロビン・ダンバーによると、もともと言語は社会的な情報をやりとりする毛づくろい/グルーミングの代替手段として活用されていました。

それまで社会的知能に特化していた言語の機能が、認知的流動性によってどんどん多様化していきます。社会的知能の領域外にある技術的知能や博物的知能などの「非社会的」な概念や情報が乗り入れ、「比喩」のように言語の機能が大きく拡張されることになりました。
人間の知能の進化
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
これは逆に考えると、脳科学者スタニスラス・トゥアンヌや理論神経生物学者マーク・チャンギージーが指摘したように、言語や読字機能が他の脳領域(視覚認知や形態認識)を浸食して取って代わっているといえるでしょう。


社会的知能が基礎にあって、その他の知能が派生していく、という二元論的な考え方ではなく、それぞれの知能モジュールがダイナミックに連合していく流れがみてとれます。


認知的流動性

ミズンはこのような人間の知能が進化するプロセスを、「聖堂」というアーキテクチャにたとえて表現しています。
聖堂のような心
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
まずは汎用知能が発達していきますが、徐々にモジュールが形成され、各モジュールに交通が生まれ、一体となって動き出すというコンセプトです。

認知的流動性の結果、さまざまな文化が発明されていきます。
認知的流動性の結果としての文化の開花
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
  • 社会的知能+博物的知能 人と自然を重ねるトーテミズム
  • 博物的知能+技術的知能 目的に応じた専門技術
  • 社会的知能+技術的知能 社会的交渉のための道具・人間を道具的に使う技術
そして、3つが融合することによって芸術・宗教・科学が生まれ、文明が開花しました。

滝川一廣2分法では、自閉スペクトラム症/ASDは社会的知能に劣るから支援しなければならない、という悲観的パターナリズムで終わってしまいます。

しかし、認知的流動性というコンセプトによって、社会的知能をひとつのモジュールとして相対化しつつ、他のモジュールによる代償・補完を想定することができれば、ASDの回復やリハビリテーションに新たな発想が生まれる可能性があります。

次回は、良いことづくめにみえる認知的流動性にもダークサイドがあるということを考えてみます。

生き延びるためのマキャベリ的知性


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前回からの続きです。

最近ニュースで、女帝とかお局さんとそのなかまたちによる壮絶ないじめがめちゃくちゃ叩かれています。

彼女たちのような「社会的知性」だけがやたらと高くて他の知性とかモラルに欠けているひとって、いろんなところにのさばっていて、嫌な思いをしたことのあるひとが多いからこそヘイトが盛り上がるのでしょう。

とくに、地方の病院とか福祉施設とか家族経営の中小企業あるあるなんですよね、経営者の嫁とか愛人が君臨するパターン。

それはさておき、社会的知性は暴走すると犯罪行為にもつながるリスクがあるのですが、ほどよく活用することで世の中をうまく渡っていくスキルにもなるわけです。


社会的知性とは

社会的知性について書いてある、著者が精神科医の新書があります。後半は自己啓発っぽくなってダルいんですが、前半はわかりやすくコンパクトにまとまっています。
「社会的知性」とは、他者に働きかけ、他者をコントロールすることによって、自分の居場所を確保し、自分の望む目的を達成する能力である。
マキャベリー的知性 危機の時代を生き抜く社会的知性の磨き方 (アスキー新書 145)
岡田尊司
2010-03-09





社会的知性はあまりにも俗っぽい能力なので、精神医学的に関心をもたれることが少なくて、適切に論じられているとはいえません。どうやら、世俗にうといひとたちが集うアカデミズムとは相性が悪いようです。

ですが、社会的知性はアカデミックな知性よりも社会的成功や家庭的幸福に相関するし、自閉スペクトラム症/ASDを考えるうえでとても重要な能力だったりします。

ASDをもつひとは「社会性の困難」があるとされていて、アカデミックな知性が高くても社会的知性が低い傾向があるので、社会的状況ではなにかと苦労しがちです。


社会的知性は学業成績や知能検査では測れない

「社会的知性」は学業成績に反映されないし、知能指数/IQとも相関しないので、知能検査(発達検査)では測定できません。

なので、「知能検査の結果でASDと診断された」とか「ASDの診断のために知能検査をしてほしい」というひとがけっこういますが、知能検査でASDを診断できるはずもなく、あくまで参考資料にすぎません。

それはさておき、「社会的知性」は学校や職場などの社会的状況でうまくやっていくためには必須な能力です。

たとえば、有名大学を卒業して専門的知識をもっている正社員の優秀な若者が、海千山千のしたたかなパートのおばちゃんたちにいじめられてメンタル不調になって精神科を受診してASDと診断されました、というパターンがよくあるわけです。

いくらアカデミックな知性が高くても、社会的知性ではパートのおばちゃんたちにはかないません。とくにガバナンスが効いていない職場ほど業績よりも社会的知性だけがものをいう世界になりがちです。


相手の出方をみて自分の出方を変える

パートのおばちゃんたちにいじめられないようになるためには、「相手の思考や意図を推測し、先回りして行動する」つまり「相手の出方をみて自分の出方を変える」というスキルを身に着けなくてはなりません。

これは社会的知性のなかの「マキャベリ的知性」と呼ばれるものです。マキャベリといえば「君主論」が有名で権謀術数の政治学を代表する考え方で、最近ちょっとしたリバイバルで人気が出てきているらしいです。

また、マキャベリ的知性は「認知的共感」とか「心の理論」とも関連しています。

心の理論とは、

「Aさんは〇〇であると考えている」▶ 一次的信念 をイメージすることです。

これはだいたい4歳までに理解できるようになりますが、これだけではパートのおばちゃんたちには到底かないません。

そのためには、もう1段階アップグレードして、

「 “Aさんは〇〇であると考えている” と、Bさんは考えている」▶ 二次的信念 をイメージできなくてはいけません。

これは6〜10歳までに理解できるようになります。二次的信念を理解することによって、相手と駆け引きをしたり、だまくらかしたり、出し抜いたりすることができるようになります。

たとえば、自分が「嘘泣き」をすることで、相手が「かわいそう」と考えるであろうことが予測できるようになります。つまり、自分の行動によって相手を操作することができるのです。

実際、子どもは6歳頃から上手に嘘をついたり仮病をつかったりして、大人を翻弄することができるようになります。

また、二次的信念は三次・四次へと拡張するための大きな足がかりになります。高次になればなるほど、複雑な物語や文学の理解からマーケティングや政治にいたるまで、大勢のひとを巻き込んで動かす能力に発展していきます。


政治するチンパンジー

考えるチンパンジー
動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァール「チンパンジーの政治学」には、チンパンジー社会にも権力闘争があることが紹介されています。政治の歴史は人類史よりも古いということです。

チンパンジーの政治学―猿の権力と性 (産経新聞社の本)
フランス・ドゥ ヴァール
2006-09





  1. ボスとして君臨するチンパンジーAに対し、チンパンジーBが権力闘争をしかけます。
  2. BはAのいないスキをみて、Aを支持するメスたちに毛づくろいをして仲良くなります。
  3. Bは別のチンパンジーCと同盟を結び、Aを孤立させ、ボスの座を奪います。
  4. それまで低ランクだったCは、ナンバー2の地位を確保します。
  5. ボスの座についたBは、闘争をやめてケンカの仲裁に奔走し、群れを安定させます。
  6. Bは、メスを攻撃していたCを追い払います。
  7. そして最終的に、CはAと同盟を結んで、Bからボスの座を奪いましたとさ。
チンパンジーが社会的知性を発揮していることがよくわかります。人間社会でも似たような血で血を洗う権力闘争があちこちで繰り返されています。

このように、社会的知性を単独でとりあげてみると、人間とチンパンジーの間にはあまり差がなくなってしまいます。

というわけで次回は、人間固有の知性を考えるために、社会的知性とその他の知性との関連についてまとめてみようと思います。

脳と言葉は社会のために?


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前回の続きです。


滝川は「子どものための精神医学」において「関係(社会性)」の発達についてこう説明しています。フロイトの発達論にそって、あるいは養育者や社会・文化の影響を受けることによって発達していくと。

もちろん、養育者による刺激がトリガーとなって「関係(社会性)」の発達が促進されることはあるのでしょうが、そもそも霊長類の段階から備わっている「社会性」が発展して社会的知性を形成していく、という考えを紹介していきます。

まずは、人類学者ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」です。



燃費の悪い脳

人間の脳はとても燃費が悪い器官です。体重のたった2%の重さしかないのに、20%ものエネルギーを消費しています。なぜ人間の脳はここまで異常に発達し、膨大なエネルギーを喰うようになったのでしょうか。

一般的には、共同で狩りをするためとか、道具をつかうためとか、言語をつかうためとか、いろいろ説明されたりしますが、ダンバーは興味深いデータを提示しています。
ダンバー数
霊長類の群れの大きさ(タテ軸)と脳の発達(ヨコ軸)が相関しているという事実です。集団で仲間とうまくやっていくため、良好な人間関係をつくって維持するために、脳が発達していることになります。

たとえば、野生のサルが2頭で生活しているときは1ペアの関係だけ把握すればよいのですが、3頭で3ペア、4頭で6ペアと集団が大きくなるにつれて把握するべき関係は格段に増えて複雑になり、脳のスペックが必要になるというわけです。

サル関係
現代社会は法律が整備され、情報が流通し、衣食住が確保されているので、集団生活にそれほど脳のスペックを使用しなくてもよくなっているのでイメージしにくいかもしれません。

ですが、そのような文明が確立したのは人類史ではつい最近のことで、人間の祖先は長い時間をかけて社会集団を形成するように進化してきました。

少ない情報のなか、外敵や食糧不足に怯えながら、仲間と協力したり助け合ったり、フリーライダーや裏切り者を牽制し、過酷な環境を生き抜くために。集団内でうまくやることができないことは、リスクが高い死活問題だったからです。

お互いが仲間であることを確認するためには一定のコストを支払う必要があります。人間をふくむ社会的動物は、そのために「毛づくろい/グルーミング」を行うようになりました。


社会的毛づくろい/ソーシャル・グルーミング



毛づくろいは、もともとノミやシラミなどの寄生生物を除去して清潔を保つための行為でした。群れで生活する動物たちは、それを社会的コミュニケーションとして活用するようになりました。

毛づくろいによってお互いの身体をきれいにすることで、家族や友人との信頼関係をつくったり、自分の地位・ランキングを確認したり、ストレスを回避して和解や紛争解決の手段にしたりします。

身近なところからだんだん仲間を増やして、フリーライダーや裏切り者を遠ざけていく戦略です。逆に、フリーライダーや裏切り者を発見して制裁を加える戦略もありますが、これはとても骨が折れることなので、なるべくやらずに済ませたいところでしょう。
 

集団生活する霊長類は、1日の活動時間のうちなんと20%も「毛づくろい」に費やしています。


毛づくろいからムダ話、そしてSNS

人間の脳のスペックなら群れの大きさは約150人(ダンバー数)で、これを維持するためには活動時間の40%を「毛づくろい」のために費やさなくてはなりません。

音声グルーミング

とてもそんなことはできないので、人間は音声によるグルーミング、つまり「おしゃべり」で代用するようになりました。物理的なグルーミングよりも労力が少なく、同時に複数の個体とやりとりができて便利だからです。

いわゆるスモールトーク、雑談・冗談・世間話・うわさ話などのくだらないムダ話にこそ「人間の言葉」の起源があるというシンプルなダンバーの仮説です。言葉を大切にするマジメなひとから怒られそうな話です。

その延長線上に、飲み会・パーティー・ゴルフなどの社交的活動や文化が形成されていきます。さらに、ソーシャル・ネットワーク・サービス/SNSの「いいね!」で代用されるにいたって、ますますお手軽になっています。


社会的知性とASD

自閉スペクトラム症/ASDをもつひとはかかえている「社会性の困難」は、このような社交を要求される場において顕著となります。どれもこれも苦手なのです。

彼らにとっては、社交的活動のためにコストを払うことは意味のない茶番にみえてしまうからです。ASDをもつひとのなかには言語能力が非常に高いひとがいますが、実務的な議論やスピーチや演説などはうまくやれても、スモールトークはなかなかうまくできません。

逆に、スモールトークがやたらとおもしろいひとは、社会的地位と豊富な人脈を得て楽しく人生を謳歌していたりします。

これはいわゆる「社会的知性」といわれているもので、「アカデミックな知性」よりも重要であるという考え方があったりするので、次回まとめてみます。

「アヴェロンの野生児」後日談


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イタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が失敗に終わった後、ふたりがどうなったのか調べてみました。

イタール、その後

1806年、イタールはヴィクトールの療育を終結し、4年間にわたる療育の成果を内務大臣へ報告しました。報告書は政府によって出版され、世間から大絶賛されて富と名声を手に入れました。

医師としても教育者としても成功して時代の波に乗ったイタールは、「ろうあ学校」で他の生徒の教育にたずさわるようになりました。

聴力がわずかに残っている生徒に言葉を教えようとするだけでなく、聴力を回復させようと努力しました。言語学者ハーラン・レイン「手話の歴史」のなかで、当時「ろうあ学校」に在籍していた生徒が生々しく証言しています。



イタールが「ろうあ学校」の生徒たちに試した治療法の数々は想像のナナメ上を行っていました。耳に電気をあててみたり、首にヒルをくっつけてみたり、鼓膜に穴をあけてみたり、よくわからない液体を耳に注いでみたり、水ぶくれのできる溶液にひたしたガーゼを耳に巻いてみたり、もぐさを使用してみたり、耳の後ろを金槌で叩いて頭蓋骨を割ってみたり、白熱させた金属片をあててみたりなどなど、にわかには信じがたい人体実験を繰り返していたようです。

そのようなむちゃくちゃな試みはすべて失敗に終わり、ひどい副作用という災厄を生徒たちにもたらしました。その一方で、イタールはこのような実験を通して「耳管カテーテル」を開発し、耳鼻咽喉科学の先駆的な業績を上げることができました。
イタール耳管カテーテル
治療に失敗したイタールは、医学でダメなら教育だ、というわけで、発話訓練を強行します。膨大な時間をかけて個別教育をほどこしますが、これもほとんど成果はありませんでした。

わずかに発話できる生徒が手話社会に溶け込むにつれて発話できなくなる様子を観察したイタールは、失敗の原因は手話であると考えるようになります。そして、自分の生徒を隔離して教育しようと考え、同じ過ちを繰り返そうとします。


ヴィクトール、その後

大成功したイタールとは対照的に、野生児ブームは去り、ヴィクトールに対して関心を抱くひとはほとんどいなくなりました。

1811年、成人したヴィクトールは「ろうあ学校」を退去することになり、政府からの援助を受けてゲラン夫人と生活することになりました。ひとめにふれないように生活するよう通達されていたそうです。

これ以降、ヴィクトールの公式な記録はほとんどありません。ヴァージニア大学教授で詩人・歴史家であるロジャー・シャタックの著作に少しだけ記載がありました。

アヴェロンの野生児―禁じられた実験
ロジャー・シャタック
1982-03




1816年、30歳近くになったヴィクトールの様子を、考古学者のヴィレーがこう記述しています。
今日でもこの人間はひどい姿であり、半ば野性で、あんなに話し方を教える試みがなされたのに、相も変わらず話すことが覚えられないままでいる。
ヴィクトールは変化のないまま、ひきこもり状態でひっそりと過ごしていたようです。

 

素直に変化するイタール

頑固な口話主義者だったイタールは、アリベールという生徒との出会いを通して、ろう者の教育には手話が必要であると考えを改めます。

アリベールはイタールの熱血指導を受け、髪が白くなるくらい努力したにも関わらず、ほとんど成果がありませんでした。しかし、手話を学んでからは素晴らしい学業成績をおさめて教師になりました。

イタールは「ろうあ学校」という手話社会の中心にいながら、言語習得には手話社会が重要であることに気づくのに16年もかかったというわけです。

こうしてみると、イタールはひとつの原理に並々ならぬこだわりを抱いて、忖度ゼロで猪突猛進するタイプでありながら、自分の間違いを認める素直さをあわせもっていたり、治療はヘタだけどマニアックな医療器具を開発するなど非凡な才能を発揮したり、素晴らしい研究業績を残していたり、基本的に孤独を好んで生涯独身を貫いていたりなどなど、自閉スペクトラム症/ASDの特徴があったのかもしれません。

一方で、ASD研究で著名なウタ・フリスはじめ「アヴェロンの野生児=ASD説」が有力だったりします。



そして、ASDをもつひと同士はお互いを理解しやすいという「類似性仮説」があります。

つまり、イタールとヴィクトールはASDの特性をもつ者同士だったので、うまくコラボレーションできたのかもしれません。あるいは、全然うまくいっていないことに無自覚なまま実験を継続できたのかもしれません。

そう考えると、実験が終了してからふたりが一切の関わりを断っていることも、ある程度うなずけます。


イタール、ヴィクトールを語る?

1828年、50歳になったイタールは、とある知的障害者の療育についての報告書のなかで、
長期間繰り返しスピーチの訓練を続ければ、それ相応の話す能力を身につけるようになるかどうかを決定するためには、医者は非常に慎重でなくてはならない。
(中略)
私がこのことを付記するのは、私がこの点で以前に過ちを犯したからである。
と警鐘を鳴らしています。これはヴィクトールのことについて語っているのかもしれません。

結局のところ、年老いてからのイタールは「ヴィクトールは知的障害であり療育不可能である」と診断したピネル(当時55歳)の見解に近づいています。

ちなみに、この報告書が提出された頃には、ほとんど話題になることもないままヴィクトールは亡くなっていました。

ヴィクトールは思春期以降、30歳年上の養母以外の人間とほとんど関わることなく、自然豊かな故郷に帰ることもなく、パリ市街地のど真ん中で、推定年齢40歳の短い人生を終えていました。

社会的に大成功したイタールの華やかな人生とはとても対称的で、イタールがヴィクトール/勝利者という名を与えていたことは、もはや皮肉としか言いようがありません。


誤診と失敗から始まった物語

アヴェロンの野生児という神話は、若かりしころのイタールの誤診と失敗から始まりました。

イタールは若さと情熱をもって不可能なことにチャレンジしたからこそヒーローになりました。その物語は美談であり、伝説であり、神話となりました。そして、児童精神科臨床と障害児教育の原点となって歴史を切りひらきました。

しかしながら、ヒーローが活躍する華やかな側面ばかりに目を向けていても、得られる知見は少なかったりします。というのも現実には、児童精神科臨床も療育も、華やかさとは無縁の地道な日常の積み重ねと継続性が重要であって、そもそもヒーローなんていらないわけです。

なので、歴史の背景とか負の側面に目を向ける視点をもって、現代の療育について考えてみるといろいろな問題点が浮き彫りになったり、改善点がみえてきたりするのではないかと思っている今日このごろです。

ASDと定型発達が共感するまでのプロセス


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以前の記事(ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?)では、自閉スペクトラム症(ASD)をもつひと同士、定型発達(TD)のひと同士、つまり似たもの同士は共感しやすいということについて書きました。


では、ASDをもつひととTDのひと、違うタイプのもの同士が共感し合うにはどうすればよいのでしょうか?

一般的にはASDのひとへの対応方法として
  • 視覚化しましょう。
  • 見通しを立てましょう。
  • 具体的に説明しましょう。
などなどよく聞くフレーズが念仏のように繰り返し語られたりしていますが、このような対応はASDの理解を深めることはありません。かといって、難しい本を読んで思弁的かつ文学的なややこしい表現を追いかけても疲れるだけだったりします。

というわけで、最近たまたま読んだ保育の本にヒントが書いてあったので紹介します。

目次
1 人間発達の軸としての「共感」…佐伯 胖
2 「共振」から「共感」へ―乳児期における他児とのかかわり…須永美紀
3 「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの…宇田川久美子
4 保育の場における保育者の育ち―保育者の専門性は「共感的知性」によってつくられる…三谷大紀
5 「対話」が支える子ども・保護者・保育者の育ち合い―多様な他者が共に育ち合う多声的な「場」…高嶋景子
保育の本って初めて読んだのですが、どれもおもしろかったのでオススメです。このなかで、宇田川久美子による第三章 “「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの” に、ASDをもつ幼児とTDの著者が共感するまでの長い道のりが丁寧に記載されていて、臨床経験からもうなずける内容が多くてとても勉強になります。


物理的変化そのものを味わい楽しむ

物理的変化を楽しむ

ASDをもつ子どもは、流れ落ちる砂、海辺の波、流れる水、焚き火の炎、床屋の回転灯、洗濯機の動き、電車の窓から流れる風景などなど、あきもせずにずっと眺めていることがあります。

彼らは「物理的変化」そのものをダイレクトに味わい楽しむ感覚をもっています。一方、TDの子どもは「物理的変化」に対してすぐになんらかの意味づけをしたりストーリーをつくったりする傾向があるので、一緒に楽しめずに孤立化する要因になります。これは中心気質っぽい特性だと思うのですが、それはさておき。。。


ここで宇田川は「子どもを見ること」から「視線の行く先を見ること」を重視することを提案します。つまり、ASDをもつ子どもそのものよりも、子どもの視線のその先にスポットライトを当てるべきであるということです。


ASDをもつ子どもを模倣する

ASDをもつ子どもが執着しているモノに、支援者自身が没頭してみること。つまりASDをもつ子どもを模倣してみることをすすめています。ASDをもつ子どもになりきって支援者自身も物理的変化を楽しみます。

この段階では、支援者自身はモノに一体化しているのでほぼ道具みたいな存在になっています。ここでは「クレーン現象」がみられたりします。

そして、《子どもーモノ》の二項関係と《支援者ーモノ》の二項関係がシンクロしていると、だんだんASDをもつ子どもは「共に」という感覚を感じとるようになり、それを求めるようになります。

ASDをもつひとは一般的に孤独を好むように思われがちですが、お祭りムードとか盛り上がっている雰囲気自体は嫌いなわけではありません。むしろ、その場のバイブスとかグルーヴを人一倍楽しんでいたりします。


特別な道具的存在〜相互模倣まで

「共に」物理的変化を楽しむ経験を重ねることでふたりの関係に変化が生じていきます。物理的変化の延長であり道具的存在にすぎなかった支援者に対して、ASDをもつ子ども自身が模倣をしかけるようになります。相互模倣です。

模倣によって相手とシンクロして共に感覚を楽しむことは群れを形成すること、すなわち共感の起源ではないかと考えられます。



その他大勢と同じように道具的存在だった支援者は、特別な道具的存在に格上げされていきます。

この時点で、原始的な情動的共感(EE)は達成されているけれど、相手の意図を理解する認知的共感(CE)はまだ始まっていない段階です。


では、ASDをもつ子どもにおいて、CEはどのように達成されていくのでしょうか?


2段階の共同注意/表層模倣から深層模倣へ

「共同注意」は、同じターゲットを一緒に見ること、指差しによって相手にターゲットを示すこと、など他者と協力するための基礎的能力であると考えられています。ちなみに、チンパンジーやオオカミよりもイヌの方が優れているとされています。

ヒトでは通常生後9ヶ月頃には共同注意ができるようになります。ASDをもつひとはこれがなかなかできないので早期診断のポイントだったりします。そして、生後14ヶ月になると共同注意によって相手の意図を理解できるようになります。つまり共同注意はCEを達成するためにも不可欠な能力であると考えられます。

共同注意には表層模倣によるものと深層模倣によるものの2段階があります
  1. 表層模倣 相手の動作を表面的にマネること
  2. 深層模倣 相手の意図を理解してマネること≒CE
たとえば、TDの子どもたちが粘土細工を料理にみたてて遊んでいるなかで、ASDをもつ子どもは粘土そのものの物理的変化を楽しんでいます。TDの子どもたちは自分たちの作品を「見て」とアピールし、大人の反応を楽しんでいます。ASDをもつ子どもも「見て」というアピールを模倣しますが、大人の反応には全く関心がないようです。とりあえず「見て」という手続きをするという表層模倣の段階です。

ASDをもつ子どもは表層模倣によってなんとか「共に」楽しむことができるようになっていますが、深層模倣がなかなかうまくできません。両者のミゾを埋めるためには何が必要でしょうか?


物理的変化>意味づけ>視線の変化

宇田川の観察によると、流れ落ちる砂の感触を楽しんでいるだけだったASDをもつ子どもが、砂の塊を指して「お山」とアピールするようになった瞬間をとりあげています。宇田川が「本当だ。お山ね。高いわね。」と反応すると満足した表情を浮かべました。

この動作には、自分の作品をアピールするために共同注意をうながす「意図」が組み込まれているので、深層模倣が達成されていると考えられます。

ASDをもつ子どもの視線は、「移動する砂/物理的変化」から「移動した先の砂山/意味づけされた状態」へと変化しました。砂遊びという同一の動作が、視線の変化にともなって「砂の移動」から「山づくり」へと変化しています。
  • 「ある動作」にはその動作を生み出している「目的」があること
  • 「目的」によってその「動作の意味が異なる」こと
  • 「目的」の違いによって「異なる行為」になること
  • 「異なる行為」を生み出す「視線」があること
  • 「視線」の背後には行おうとしている「意図」があること
などを経験します。これらがつながることで他者との意図の共有は可能になるのです。
また、物理的変化に対して言葉をそえる「意味づけ」が行われたことによって、ASDをもつ子どもの世界は他の子どもたちに開かれて、共に楽しむことができる遊びになっていきます。


ASDをもつ子どもと共感するためのプロセス

ASDをもつ子どもがCEに至るまでの長い道のりをざっとまとめてみます。
  1. ASDをもつ子どもになりきる
  2. お気に入りの道具的存在になる
  3. 道具的存在にも意図があることを示す
  4. 共同注意を通じて模倣を深化させる
  5. 物理的変化に意味づけを与える

① ASDをもつ子どもになりきる

まずは、支援者がASDの子どもになりきることから始まります。自らの身体を相手に投げ出して道具みたいな存在になって、大好きな物理的変化を共に楽しみます。

② お気に入りの道具的存在になる

共に楽しむ経験を通して、支援者と身体感覚レベルでの共感(EE)が成立し相互模倣が始まります。この関係をベースとして共感を発展させていきます。発展しなければ支援者は単なる便利な道具で終わってしまいます。熱心な支援者のなかには、道具的な存在のまま2人きりの世界にいつまでも閉じこもり続けることがあったりします。

③ 道具的存在にも意図があることを示す

支援者自身が「意図」をもった存在であること示し、いつでも便利に使える道具ではないことを経験していくために、ときには要求を突っぱねることも必要です。

④ 共同注意を通じて模倣を深化させる

共同注意を模倣することは相手の意図を感じられるようになるための近道です。

⑤ 物理的変化に意味づけを与える

これによって、ASDの子どもの遊びは、他の子どもにも理解できるように開放され、共有することができるようになります。


生身の身体を利用したシュミレーション

TDのひとは、脳内で「意図をもった他者」を想定してシュミレーションを行っていますが、ASDをもつひとはこれがなかなかできません。宇田川は、自らの身体を登場させて道具的に利用させるという手段をとりました。これはなかなかマネできることではありません。

その結果、TDが脳内で行う仮想的なシュミレーションを、現実世界に展開して物理的かつ具体的に再現することができるようにしたわけです。ちょうどソロバンをつかって計算するように。

TEACCHなどでは、発達障害の特性にあわせて環境をコーディネートすることが重要であると言われていますが、支援者自身も環境の一部として物理的構造化に寄与していくという視点を導き出せるのではないかと考えています。

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