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2020年03月

精神科治療を受けていたひとの犯罪


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精神科治療を受けていたひとの犯罪

このところ、重大犯罪をおかしたひとのなかで、幻覚や妄想などの精神症状をもっていて精神科の治療を受けていたことのあるひとがチラホラ増えてきているようです。精神科の敷居が下がってアクセスしやすくなったためでしょうか。

しばしば論点になるのは、その精神症状が精神病によるものなのか、薬物による影響なのか、という問題です。精神病による影響が大きければ責任能力がなかった、ということで罪が軽くなることがある一方で、薬物による影響が大きければ自己責任ってことで、責任能力をみとめられるという風潮があったりします。

たとえば、先日死刑判決になった相模原障害者施設殺傷事件と無期懲役判決になった淡路島5人殺害事件。どちらも被告は事件前から精神症状があって精神科治療を受けていました。そして、どちらも精神鑑定の結果では、薬剤性精神病という診断になっていました。つまり、精神病ではなく薬剤が原因で精神症状が出ていたと考えられていたわけです。


相模原障害者施設殺傷事件の場合

精神鑑定では薬剤性精神病(大麻精神病)で、完全責任能力/死刑判決となりました。ざっくり説明すると、
  1. 被告は大麻を使用することで大麻精神病になり、妄想に支配されて犯行におよんだため、限定責任能力であり刑を軽くするべきだと弁護側は主張しました。

  2. しかし、周到な犯行準備をして犯行時は柔軟な対応ができているため、妄想があったとしても影響は軽かったであろうと判断されました。

  3. よって、完全責任能力があると判決されました。
つまり、純粋な精神病ではなく薬物による精神症状があるものの、精神症状の程度は軽いであろうと結論されました。

しかし、この1と2の説明はどちらも間違っています。
  1. まず、大麻精神病という診断名は国際的には認められていません。大麻の使用によって起こる精神症状は知覚変容や幻覚や興奮など断片的で一時的なもので、持続的にあのような壮大な妄想を構築することや突飛な言動を説明することは到底できません。もともと精神病をもつひとが大麻の使用によって精神症状が悪化することはあっても、大麻の使用だけで持続的に精神病の状態になって精神科を受診するひとはまずいません。大麻は国によっては合法的な嗜好品に過ぎないものです。

  2. そもそも妄想というのは、間違った前提を信じているものの、思考パターンは因果関係が明確で理論的にはスジが通っているものです。なので、むしろ妄想があるからこそ目的に向かって周到な準備や柔軟な対応ができるようになるわけです。精神病には妄想型(思考がまとまるタイプ)と解体型(思考がとっちらかるタイプ)があって、まとまった行動ができなくなるのは解体型のほうで、妄想型は目的に応じてまとまった行動をとるようになるわけで、このへんがごっちゃになっているようです。
薬物の影響だけでは説明できない精神症状があらわれいて、強固な妄想にもとづいて犯行におよんだかもしれない、つまり精神病をもっていた可能性を吟味する必要があるケースではないかと考えられます。


淡路島5人殺害事件の場合

こちらはちょっとややこしくて、一審と二審で精神鑑定の結果が大きく異なっています。
一審では薬物による影響が大きいものの精神症状の程度は軽いため完全責任能力となり死刑判決でしたが、二審では一転して薬物による影響は否定されて、もともともっている精神病の影響が大きいため責任能力は限定されていたとして無期懲役判決になりました。

一審の鑑定医が薬剤性精神病と診断したのは、犯行の約10年前にメチルフェニデート(リタリン®・コンサータ®)を使用していたからです。しかし、被告は犯行時にはメチルフェニデートを使用していませんでした。

100歩ゆずって、相模原のケースは薬物の影響が多少なりともあったとしても、淡路のケースは約10年前に使用していた薬物の影響が残っているはずもありません。そんなことは精神科医でなくても誰にでもわかることです。一審の鑑定医はメチルフェニデート中止後も幻覚や妄想が持続しているケースレポートをエビデンスにしているようですが、そのケースはメチルフェニデート以外にもたくさんの薬物を併用しているのでエビデンスとしての価値はほとんどありません。

そもそも薬物の使用をやめた後、長期間にわたって精神病状態が持続していたとしたら、もともと精神病をもっていたひとであると誰もが診断するでしょう。しかも、メチルフェニデートはADHDの治療薬として多くのひとが常用している比較的安全な薬物です。これはもう、あらかじめ薬剤性精神病と診断したかったのではないか、と感じてしまうほどです。


精神鑑定はけっこういいかげん?

淡路島5人殺害事件の一審と二審の判決文は、精神科医のみならず一般のひとが読んでも驚くべき内容になっています。一審の鑑定医は明らかに知識が乏しく、論理の組み立てが場当たり的で、コロコロと意見を変えているからです。

たとえば、法廷でテンパっているときの発言。
人格自体は,本人の人格,その責任を取るという意味での,その事件時の人格というものは十分保たれていたというふうなことです。
このうっかり発言によって、被告を完全責任能力にしようとする意図がバレてしまっています。結論ありきで理屈をこじつけてきたからこそ、論理が破綻しているのではないかと感じてしまいます。

二審の鑑定は、被告は生まれながらの自閉スペクトラム症をもっていて、偏った性格になって/つまり二次障害を経て、妄想を形成して精神症状があらわれた、という流れの説明になっています。何でもかんでも自閉スペクトラム症で説明するのは流行りなので仕方ないとして、それ以外はまずまず説得力のある内容です。

一審の鑑定医は二審で矛盾点を容赦なくツッコまれ、「信用することはできない」とまで断定され、完膚なきまでに叩きのめされています。こんなに恥ずかしい記録が未来永劫webに残るなんて、とても恐ろしい仕打ちです。ホント、司法の世界は怖すぎます。。。

ちなみに、ひと昔前なら精神鑑定は精神科医の花形でありステータスだったので、優秀な精神科医が引き受けていたそうですが、今ではステータスにもならないし、めんどくさいわりに報酬も少ないので、引き受けるひとが少なくて困っているみたいです。優秀な精神科医は他の業務にいそがしいので、鑑定医の質が落ちるのは仕方ありません。

ちなみに、物好きなぼくはもともと精神鑑定に興味があったので、とある先輩に頼んで鑑定の助手をさせてもらったことがあります。はじめての経験で勝手がよくわからなかったのですが、先輩からはなんの指導もなく、とりあえず鑑定主文を書くよう頼まれました。とりあえず拘置所へ行って診察して、文献を調べながら鑑定書の下書きを作成してみました。もちろん先輩が添削してくれるものと思っていたのですが、結局そのまんま鑑定書に採用されていてビックリしたことがあります。もちろん報酬ゼロのボランティアです。おいおい、どんだけテキトーなんだと。。。

ともかく、相模原のケースや淡路のケース(一審)でみられたように、精神病をもっているかもしれないひとが犯罪をおかすと、精神病である可能性が排除されて薬物依存として裁かれるトレンドがあるのではないか、と思う今日このごろです。次回はそれについてまとめていきたいと思います。


モテたくてポリコレ


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前回からの続きです。


精神科医療におけるノーマライゼーションは建前としては浸透しているけど、実質的にはまだまだ浸透していないのではないか、という話でした。

今回は、ひと昔前にあった、急進的にノーマライゼーションをすすめようとするアツいチャレンジについて、少しだけまとめました。


治療共同体という失敗

昔々、医療者も患者さんも対等な立場で交流する「共同体」をつくりましょう、というロマンティックな考え方がウケていた時期があったそうです。とある地域では、精神科医が白衣を脱いで私服で診察するスタイルが流行していました。

とくにアルコール依存症の治療共同体が流行っていたみたいで、たとえばアルコール依存症のひとを支援する精神科医は自分自身も対等に?アルコール依存症じゃないとアカンよね、みたいなノリがあったようです。同じ依存症同士の方がわかりあえる、ということでしょうか。

そういえば最近、どこかのアルコール依存症専門クリニックの院長が飲酒運転で事故って現行犯逮捕されたというニュースがありましたが、治療共同体文化の名残りだったりするのかもしれません。

それはともかく、このような治療共同体という試みはことごとく失敗したので、現在はほとんどその痕跡は残っていません。お行儀のよい患者さんばかりを集めて会員制クラブみたいに運営していることを批判されたり、みんな対等な関係のままで患者さんの対応をすることができなかったのでしょう。

聞いた話では、とある地域で治療共同体の思想におもいっきりかぶれた精神科医がたまたまトップだったために、一部のややこしい患者さんたちが医師控え室を占拠して医師をつるしあげたり暴力をふるったり、無法地帯になって診療機能がストップしてしまったことがあったとか。

ややこしい患者さんもみんな含めてノーマライゼーションを実践する必要があるわけで、それを達成するにはある程度の規律が必要なことは明白です。にもかかわらず、現実に目を背けてロマンティックなお花畑を夢みてしまうことで、さまざまな歪みが生み出されていたようです。

さて、そのツケは誰が支払うのでしょうか?建前としてのノーマライゼーションによって排除されたややこしい患者さんは一体誰が受け入れているのでしょうか?

このへんが精神科病院への強制入院が急増している一因であると思うわけです。



モテたくてポリコレ

以上をまとめると、「ノーマライゼーション」という政治的に正しい/ポリコレを声高に主張して尊敬を集めて承認欲求を満たそうとするひとたちは、しばしば自分たちにとって都合のイイお行儀のよい患者さんばかりを集めて、ややこしい患者さんを排除するという矛盾を隠している偽善的なひとが多くて、中途半端なノーマライゼーションを実践して自己満足しているんじゃないかと思うわけです。

つまり、大きな声で主張するわりには、全然行動がともなっていないわけです。

しかも、自分たちが引き受けることのない、ややこしい患者さんを担当している援助者を批判することで、さらに自分のステータスをあげようとする身ぶりはとても浅ましいなあと思うわけです。
 

進化心理学者のジェフリー・ミラーは、「自分がいかに道徳的に優れているか」という言動をみせびらかすひとの習性を性淘汰の枠組みで説明しています。
People say they believe passionately in issue X, but they don’t bother to do anything real to support X.
情熱的にやかましく意見を表明するだけで実効的な行動をしない「ええカッコしいの役立たず」って、不思議なことに次々登場するんですよね、と。

ポリティカル・コレクトネス/政治的に正しい意見の表明は問題の解決そのものではなく、自分を魅力的に演出するための求愛ディスプレイに過ぎないという興味深い仮説です。
孔雀の羽
人間が異性に対して自分をアピールするときに、身体的魅力や社会的地位よりも効果的なのは「やさしさ」すなわち「道徳的な言動をすること」だったりすることはご承知の事実です。

つまり、「モテたくてポリコレ」。

伝統的に「性は道徳の敵」であるとみなされ、対比的に論じられてきました。西洋思想の伝統は心身二元論だからです。
  • 動物 身体 欲望 罪人
  • 人間 精神 道徳 聖人
フロイトの精神分析もこの枠組みにスッポリおさまっているし、進化心理学も道徳/あるいは利他性は個人や所属集団の生存効率を高める戦略であると論じられてきました。

ミラーは、このような二元論のバイアスを克服し、性的魅力と道徳を包括的にあつかうことで、新しい視点を得ようとしています。この試みは非常にエキサイティングで示唆に富みます。



次回は、精神障害と犯罪の関係について、最近の気になる動向をまとめてみたいと思います。


ノーマライゼーションの夢と現実


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精神科医療におけるノーマライゼーション

日本の精神科医療は患者さんを長期間入院させすぎだと批判されてきたので、「病院から地域へ」をスローガンに改革がすすめられてきました。患者さんたちが地域に溶けこんで共に生活することを目指す、いわゆる「ノーマライゼーション」。これはもう、誰がどう考えても目指していくべき正しい方向なので、誰も反対することはできません。

しかし、これって実は建前であって、本音はちっともノーマライゼーションなんて受け入れられてないんじゃないかと思うわけです。みんな口には出さないけど本音はそんなのイヤだと思っているのではないかと。

なぜそう思うのかというと、たとえば精神科病院へ強制入院が激増しているからです。


本当にノーマライゼーションが達成されていれば強制入院は減っていくはずです。どうやら精神科領域では、建前としての「ノーマライゼーション」は進んでいるように思われていますが、実質的なノーマライゼーションはあまり進んでいないようです。

いや、もちろん建前ではなくて本気で真剣に患者さんと共に生活することを実践されている素晴らしい援助者が活躍されていて、とても尊敬しているのですが、めったにお目にかかれません。


リベラルな精神科医ほど患者を選ぶ?

ぼくの経験上ほとんどの場合、ノーマライゼーションを声高に主張する「リベラル」なひとたちにはある種の共通点があって、それは「都合のいい患者さんを選ぶ」つまり「お行儀のよい患者さんしか相手にしない」そして「やっかいな患者さんにはけっこう冷たい」という特徴です。

言うまでもなく、精神障害をもつひとのなかにもいろんなタイプがいて、性格の良いひともいれば悪いひともいます。お行儀のよいひともいればややこしいひともいるわけです。というか、病状が悪くて余裕のない患者さんほどややこしくなってしまうことがあるわけです。

たとえば、精神科医療で患者さんを在宅でサポートするACTというシステムがあります。
※ ACT/Assertive Community Treatment/包括型地域生活支援

精神障害をもつひとたちが入院治療にたよることなく、地域で暮らせるように多職種の医療チームが訪問してサポートするという、まさにノーマライゼーションの最前線です。昔からACTには興味があったので、京都でACTを実践しているACT-Kの高木俊介先生と関係者のひとからお話をうかがったことがあります。

横文字でカッコよく“ACT”というからには特殊なことをやっているのかなと思っていたのですが、お話を聞くかぎりでは一般的な訪問診療や訪問看護と実質的にはなんら違いはありませんでした。ただ、"ACT"を名乗るためにはどこかの団体に年会費を払わないといけないだけみたいです。

ACTは本来さまざまな職種でチームをつくるはずですが、ACT-Kは医師と看護師だけでやっているようです。以前は精神保健福祉士も関わっていたようですが、診療報酬がつかないためか、みんな退職されているそうです。


人格障害のひと、お断り

ACT-Kには「人格障害のひとはお断り」というルールがあります。これは代表である高木先生から直接うかがったので、ACT-Kの方針なのでしょう。

人格障害とは、一般社会で期待される規範と異なる思考、知覚、反応、対人関係のパターンが人生の早い段階から比較的安定してみられるひとに対して用いられる用語です。つまり、いわゆる「ややこしいひと」のことです。

人格障害は精神科の正式な診断名なのですが、ぼくは「人格障害」という診断名はあえて使用しないようにしています。というのも、最近の精神疾患の特徴として、重症で典型的なケースが減っている一方、軽症で微妙なケースが増えているからです。山が低くなって裾野がひろがっているイメージです。

つまり、はっきりと人格障害と他の精神疾患をわけることが難しいし、人格障害と他の精神疾患はオーバーラップすることも多くて、統合失調症や双極性障害や発達障害をもっているひとのなかには、病気の経過が悪いときに人格障害のような症状がみられることもあったりするからです。つまり渾然一体としているのです。おまけに、人格障害と診断したところであまり有効な治療方法があるわけではありません。なので、人格障害と診断することに治療上のメリットはほとんどないので、戦略的に他の精神疾患を想定して治療するべきだと思うわけです。


リベラルっぽい精神科医の矛盾

ACT-Kをやっている高木先生は精神科病院の強制入院や長期入院を批判し、「病院から地域へ」というノーマライゼーションの理念を最前線で実践していることになっているからこそ尊敬を集めているのですが、そもそも人格障害のひとを排除することは明らかにノーマライゼーションの理念に反しています。

ACTをノーマライゼーションの実践ではなく、お金もうけの手段として考えるなら、人格障害などややこしいひとを相手にしない方が効率が良いので、合理的な判断をくだしていると考えることも可能ですが。。。

ちなみに、高木先生はクラフトビールを製造する会社を経営されていて、いまは精神科医療よりもそっちの方が楽しいみたいです。患者さんをスタッフとして雇用しているという噂があったので確かめてみたら、健常者だけで運営しているごくフツーの会社でした。

高木先生はもうだいぶご高齢なので医療の知識はほとんどアップデートされていないみたいで、医療に関する興味深い話はまったく聞けませんでしたが、ビールのマーケティングを語るときはとてもイキイキして饒舌になっている姿がとても印象的でした。

本業をなかば引退してビールづくりに精を出すのって、お金もってる俗物の道楽によくあるパターンで全然リベラルっぽくなくて、むしろ真逆だなあと感じました。おまけにそのビール、とりあえず飲んでみたけど、あんまり美味しくないのにやたら高価なんですよね。。。

これなら、一般の精神科病院でややこしい患者さんを引き受けて地道に苦労している勤務医の方がよっぽどノーマライゼーションに貢献しているのではないかと思う今日この頃です。

長くなったので、次回に続きます。


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