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2019年08月

「アヴェロンの野生児」前日譚


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滝川先生の著書を紹介しようと思いつつ、「アヴェロンの野生児」について調べることにハマってしまっていまして、少々寄り道をつづけています。



イタールによる伝説的な療育が始まる前に、ふたりの専門家が「アヴェロンの野生児」に関わっていて、その経緯がとても興味深いのでまとめてみました。


牧歌的な南フランスの田舎

南フランスの高原地帯
南フランスの高原地帯

「アヴェロンの野生児」という物語の舞台は花の都パリですが、少年が発見されたのはフランス中央部の高原地帯、自然に囲まれたド田舎でした。

1797年3月、アヴェロン県の隣タルヌ県ラコーヌの森で少年は初めて目撃されました。

1799年7月、3人の猟師が少年を捕獲し、村で保護しました。裸で森を走り回り、人間の言葉を理解できず、意思疎通ができない、野生動物のような状態だったそうです。でした。

少年はここで、衣服を着せられ、パンを与えられ、火の使い方を覚えるなど、初めて文化と接触することになります。しかし少年は文化的な生活よりも自由を求めたのか、そこから逃げ出して再び森へ戻ってしまいます。

それ以降は、しばしば近隣の村々で少年は目撃され、時には食べ物を分けてもらったりするようになるなど、少年の行動に変化がみられるようになります。時には、気軽に家の中に入り込んで、炉の前に座り込んで待っていたりと、村人と交流する牧歌的な光景がみられたという報告もあります。

当時はフランス革命による混乱によって大量の孤児が発生していたため、捨て子が物乞いをすることはありふれていたし、もともと客人を歓待する習慣があったので捨て子を保護することも珍しくなかったようです。

1800年1月、再び姿を現した少年はアヴェロン県ロデーズ中央学校で保護され、博物学者ボナテールによって観察・記録されました。ここで初めてアカデミズムと接触することになります。


博物学者ボナテールのレポート

アヴェロン県の風景
アヴェロン県の風景

博物学者ボナテールは半年間にわたって少年を観察し、『アヴェロンの野生児等に関する歴史的概略』というレポートを完成させます。全50ページの冊子としてパリで出版されましたが、イタールの華々しい業績の陰で忘れ去られてしまいます。

ボナテールのレポートは言語学者ハーラン・レインの著作に収録されています。

アヴェロンの野生児研究 (1980年)
ハーラン・レイン
1980-06


イタールの情熱的で主観的なレポートとは違い、冷静かつ客観的に少年の性質や能力や行動特性が記録されていて、情報としての価値は高いと思われます。
ロデーズにいる間、彼の仕事はいんげん豆の皮をむくことだった。彼は、最も熟達した人のような鑑別力でこの仕事をやり遂げた。彼は、こうした野菜が自分の食糧にあてられたものであることを経験から知っていた。

乾燥した一束の茎が運ばれてくると、彼は鍋を取りにいき、部屋の真ん中で店をひろげた。彼は、道具や材料をできるだけ便利なように並べた。鍋は右に、いんげん豆は左に置かれた。そして、真似のできないほど鮮やかな指さばきで、つぎつぎに莢(さや)を開いていった。

いい豆粒は鍋の中に入れ、かびが生えていたり、疵(きず)のあるものは捨てていた。万一、豆粒がこぼれたりするからと、それを目で追いかけ、拾って他のものと一緒にした。空にした莢は、つぎつぎと、整然と脇に積み上げていった。

仕事が終わると、鍋をもち上げて水を注ぎ、別に積み上げた莢で消えないようにしておいた火の所へもっていった。火が消えていると、スコップをとってクレール(※世話をしていた庭師の老人)に手渡し、近所に火を貰いにいくよう合図をした。

鍋が沸騰してくると、すぐに自分自身で用意したこれをすぐにも食べたくて仕方がない、といった様子を示すのであった。彼があまりにせかして嘆願するので、生煮えにもなっていないものをを与えなければならなかった。彼はそれを貧るように食べるのだった。

調理したジャガイモを食べたいと思ったときには、一番大きなものを選び、台所で最初に目に入った人のところへもっていき、それをスライスするナイフを丁寧に手渡し、フライパンを探しにいき、調理油がしまってある戸棚を指さした。

たとえばこの部分だけでも、高い動作性知能を備えていて、過酷な野生におけるサバイバル生活によって研ぎ澄まされてきたことが推察されます。ロデーズでの生活は比較的平穏で、少年は環境に順応しつつありましたが、中央政府からの命令によって少年はパリへ移送されることになります。

ボナテールとクレールはパリまで少年を見送り、もしも少年が見捨てられることになったら、ひきとって面倒をみることを申し出ましたが、聞き入れられることはありませんでした。

ボナテールのレポートは、ピネルには一蹴され、イタールにはその一部が(註)として引用されただけでした。

これから教育されるべき少年は、まっさらで無垢な存在「空白の石版」であることを求められていたので、ロデーズで社会に順応しつつある姿を記録したボナテールのレポートは都合が悪いものなのかもしれません。

寒さの厳しい高原地帯の森のなかで外敵から身を守りながら食料を確保し、数年間サバイバルした実績は、とうてい「無垢」な「空白の石版」ではないからです。

ともかく、少年に素晴らしい「野生」の能力と経験があったことは残念ながら忘れ去られてしまったようです。


シカール神父のエンターテイメント

「ろうあ」の状態だったアヴェロンの野生児は、パリ国立ろうあ学校の校長・シカール神父の手にゆだねられました。

※ろう(あ)者とは、音声言語を獲得する前に聴覚障害によって聞き取り(発音)ができないひと
パリ国立聾学校
INJS Paris
シカールはろうあ教育の第一人者で、マシューという14歳のろう者を教育することで有名になりました。シカールの教育によって、マシュー少年は何もできない状態から著しい進歩をとげて「ろう者としてろう者に教える初めての教師」になったという伝説です。

そもそもマシューが急速に進歩したのは、高い知能を備えているにも関わらず、聴覚障害のために教育を受ける機会がなかったからなのですが。。。

また、シカールには卓越したスポークスマンという側面がありました。優秀な生徒を選抜し、マシューと共にさまざまな趣向をこらして演出し、授業風景を一般公開して人気を博していました。

耳の不自由な子どもたちが教師に導かれ、まるで魔法にかかったようにさまざまなことができるようになるという、まっさらな白紙である子どもたちに偉大な教師がありがたい知恵を授けていく構図のエンターテイメント・ショーです。

言語学者ハーラン・レインの著書「手話の歴史」にその様子が書かれています。
「私は待っていました」と、神父(シカール)は語りだした。「皆さんを、今日の新しいお相手に紹介する時を、です。彼はほとんど幼児も同じです、つまり、かわいい野蛮人、まだ彫られていない大理石の塊です。あるいは、これから命を吹きこまれ、知性をあたえられる立像(※)と言っていいでしょう・・・・・・」
※ 「立像」とは、哲学者コンディヤックが思考実験に用いた概念で、ざっくり言うと「感覚が欠如した人間」のことで、感覚を得ることによって人間の心が生まれていくプロセスを説明するのに用いられました。たとえば、立像に嗅覚が与えられて薔薇の香りがすることによって注意力が生まれ、香りが消えると記憶力が生まれ、香りが変化することで比較能力や想像力が生まれ、理解力や意志へと発展して自我が生まれる、などなど。

シカールのろうあ学校は著名人や観光客が訪れる人気スポットとなり、定員400人のホールが満員となるほどの盛況ぶりとなりました。耳の不自由な子どもたちはサーカスの見世物のように利用されていたわけです。

めざといシカールは、「言葉をつかうことのできない」コンディヤックの「立像」そのものである「アヴェロンの野生児」に広告塔としての価値を見出し、パリへ呼び寄せるよう手をつくしました。シカールは、みずからのろうあ教育によって、野生児を文明人へと導き、世間の注目を集めるつもりだったのでしょう。

1800年8月、少年はパリ国立ろうあ学校に到着し、シカールと対面します。


ネグレクト状態へ

ところが、シカールは早々に教育をあきらめてしまいます。高名なシカール神父の元に集まっていた信心深くてお行儀の良い生徒たちとは違って、野生育ちの粗野な少年にはシカールの権威がまったく通用しなかったからでしょう。

見捨てられた少年の処遇はとても悲惨で、昼間は中庭に放置され、夜間は自室に閉じこめられ、誰にもかまわれることのないネグレクト状態となりました。日常的に他の生徒からいじめられるようになり、食事や排泄さえままならず、終日身体をゆさぶり続けている状態が数ヶ月間も続きました。

しかも、学校は毎日開放されてチップを払えば少年を見物することができたりして、少年は好奇の目にさらされ続けることになっていました。

ボナテールのレポートにあるような、ロデーズで身につけていた生活習慣はすっかりなくなっていたようです。

ピネルが少年を診察したのはこの頃で、「野生のものであれ、家畜であれ、ほとんどすべての動物の本能より劣っている」と酷評しています。

そんなどうしようもなくグダグダな状況で、やっと少年はイタールと対面することになります。次回は、イタールの療育環境についてまとめてみようと思います。


「アヴェロンの野生児」は児童精神医学の原点なのか


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前回は、滝川一廣「子どものための精神医学」を紹介しました。


滝川が著書の中で「児童精神医学の歴史的出発点」であり「最初の臨床」として「アヴェロンの野生児」という物語を紹介しています。もともと個人的に野生児について興味があったのでこれを機会に調べてみました。
アヴェロンの野生児

原点としての「アヴェロンの野生児」

1800年の秋、パリでふたりの若者が出会いました。ひとりは新進気鋭の若手医師イタール。もうひとりは森にすてられて野生で育ち、人間らしさを失ってしまった「アヴェロンの野生児」と呼ばれる少年。

精神医学の第一人者であり、鎖につながれた精神障害者を解放したことで有名なピネルが「アヴェロンの野生児」を診察しました。

ピネルの診断は、生まれつきの「知的障害」であり、治療不可能かつ教育不可能、つまり療育不可能というものでした。その根拠はとてもシンプルで、当時彼が診療していた劣悪な環境の施設に長期間入所している子どもたちと同じような症状がみられていたからです。

イタールは師であるピネルの診断を否定し、少年に「勝利者/victor」という意味の「ヴィクトール」という名を与え、療育に取り組むことになりました。

その結果、ヴィクトールはジェスチャーや文字の理解が少しだけできるようになり、親しみの感情を示すようになるなど、一定の成果をあげることができたそうです。

師であるピネルの診断をつくがえし、野生児が人間性/社会性を身につけることができた、という痛快かつ感動的な物語です。

イタールの方法論は脈々と引き継がれ、障害児教育からモンテッソーリ教育まで幅広く応用されるようになりました。めでたしめでたし。


神話としての「アヴェロンの野生児」

確かに、イタールの情熱には胸を打つ感動があります。医師としてその姿勢から学ぶものが大きいのですが、これは200年前の神話にすぎません。

イタールの功績は現代の療育の礎になっているのならば、逆にイタールの療育に不足している部分や不適切な部分を再検討することで、現代の療育の問題点や改善策がみえてくるかもしれません。

というわけで、資料をもとによくよく冷静になってこの物語を眺めてみたいと思います。

まずは、古典として不動の地位を得て今も読まれているイタールの有名な著作です。内務大臣への報告書が生のまま記録されているのですが、公文書とは思えないほどに情熱的かつロマンティックな思弁にあふれています。
たとえば、イタールの治療目標
  1. 彼がいま送っている生活をもっと快適なものにして、とりわけ、彼が抜け出したばかりの生活にもっと近づけることによって、彼を社会生活に結びつけること。

  2. 非常に強い刺激によって、時には魂を激しくゆさぶる感動によって、神経の感受性を目覚めさせること。

  3. 彼に新しい欲求を生じさせ、周囲の存在との関係を増すようにさせて、彼の観念の範囲を拡大すること。

  4. どうしてもそうしないではいられないという必要性によって模倣訓練をさせ、彼を話しことばの使用に導くこと

  5. しばらくの間、非常に単純な精神作用を身体的欲求の対象に働かせ、その後、その適用をもっぱら教育課題にふり向けさせること
ざっくり要約すると、
  1. 社会生活ができる
  2. 神経の感受性を目覚めさせる
  3. 観念の範囲を拡大する
  4. 話しことばを使う
  5. 教育課題に集中させる
めちゃくちゃ抽象的で検証不能です。具体的な目標は「4. 話しことばを使う」しかありません。


コンディヤックの考え方

なぜこんなことになっているかというと、とあるタイプの青年にありがちな「哲学」にかぶれているからです。

イタールは当時流行していた聖職者でもある哲学者コンディヤックを信奉していました。コンディヤックの考え方は、「人間はまっさらな状態で生まれてきて、さまざまな感覚が目覚めることによって、観念とか認識とか思考、つまり人間の心が形成されていく」というもので、やたらと「感覚」を推してくるのが特徴です。

今なら「ナニそれ?ナニ教?」という感じですが、とくに根拠のない説であるにもかかわらず、当時は広く信じられていました。その他にもルソーの「自然状態の人間は無垢で清らかで尊い存在である」説など、いわゆる「空白の石版」説がフツーに信じられていました。

現在はスティーブン・ピンカーはじめ、さまざまな研究者が膨大なエビデンスによって「空白の石版」説を徹底的に論破しています。

なぜ、根拠のない「空白の石版」説が世の中を席巻したのかというと、たまたま時代の気分というか空気にマッチしていたからです。


革命後、花の都パリ

当時は社会システムが大きく変わってゆく激動の時代で、1789年にフランス革命が始まって絶対王政が崩壊し、1799年のクーデターによってナポレオンが権力を掌握しつつありました。

身分制度で運命が決まってしまう硬直した社会システムが溶けて流動的になり始めたちょうどその頃、「生まれではなく環境こそが人間の運命を決める」という考え方は、社会改革運動をすすめることを正当化するツールとして便利だったわけです。

しかし「空白の石版」説はまったく根拠がないのが弱点でした。それを証明するためには禁断の実験をしないといけません。

たとえば、
  1. 生まれたばかりの赤ちゃんを社会から隔離する
  2. その結果、社会性が身につかない人間になる
  3. 教育によって社会性を身につけさせる
とてもじゃないけど、そんな実験をすることが許されるはずもありません。

そのような時代に、「空白の石版」説を証明する実験材料そのものである「野生児」が発見されたという事件は大ニュースになりました。

野生児は一躍有名人となり、発見以来半年にわたって新聞にとりあげられ、野生児を主人公とした喜劇が上演されて好評を博し、政府からの命令でパリに移送され、彼をひと目見ようと集まった野次馬たちの歓声と熱狂に包まれました。

そして、いよいよイタールによる禁断の実験が始まるわけですが、、、その前に、ふたりの専門家が野生児に関わっていました。それがとても興味深いのでまとめていきます。


滝川一廣「子どものための精神医学」を読む。その1


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とある団塊世代の児童精神科医

ぼくは精神科医になったときから児童精神科領域に興味があったので、有名な児童精神科医の話を聴きに行ったりしていました。たまたまなのか、団塊世代とその周辺の児童精神科医がよく目立っていたので何人か観察していました。

その結果、独断と偏見で申しわけないのですが、団塊世代の児童精神科医の特徴が3つほどあって、、、
  1. あつかましくてあつくるしい
  2. うさんくさくてカルトっぽい
  3. 思いこみがはげしくてロジカルじゃない
たまたまぼくの行動範囲にそんなひとが多かっただけだと思うのですが、そんなわけで当時のぼくは児童精神科領域から距離をとろうかな、と思うようになったりしていました。

そんな中、ひときわ異彩を放っていたのが滝川一廣先生でした。

滝川先生は団塊世代ど真ん中なのにとても聡明だったので興味をもちました。最初の印象は、声が小さくてナニしゃべってるのかわからないひとでしたが、よくよく耳をすまして聴いてみると、シャープでロジカルかつ独創的な発想をもったひとだったので、著作を読み漁るようになっていました。

児童思春期の臨床に携わるようになってから、はじめのうちはよく参照しながら取り組んでいました。それから10年ほど経て、自分なりのスタイルで診療をするようになってからはあまり参照することもなくなっていましたが、いつも頭の片隅には滝川先生の言葉が残っていたように思います。

ある研究会で滝川先生とちょこちょこお話させていただくようになって、「子どものための精神医学」を献本いただいたので、感想をまとめてみようと思います。

ほぼ10年ぶりに滝川先生の著作を読んでみて、とてもなつかしくなりました。とにかく、これは児童精神科臨床の到達点のひとつであり金字塔です。

とても素晴らしい本なので批判するひとは誰もいないと思いますが、よりいっそう理解を深めるために、ここはあえて批判的な読み方をしてみたいと思います。

滝川先生は団塊世代の児童精神科医としてはおそらく最も優秀なひとなので、団塊世代の児童精神科医が枠組みにしているパラダイムをロジカルにまとめることができています。

それはとても素晴らしいことなのですが、それゆえにそのパラダイムにとらわれてしまっているのではないか、という批判が可能になります。


本書の構成 

かわいらしい表紙に油断してはいけません。読みやすい文体で書かれているものの、かなり読み応えのある専門的な教科書です。450ページの厚みのある本で、以下のように4部構成になっています。
第1部 はじめに知っておきたいこと 
第2部 育つ側のむずかしさ 
第3部 育てる側のむずかしさ 
第4部 社会に出てゆくむずかしさ 
第1部は「理論編」で、発達に関する知識や学説の歴史について考古学的にまとめられています。このへんの古いパラダイムについてまとめることができる優秀な書き手はもうあまり残っていないので、資料としてとても貴重だと思いました。

第2・3・4部は「実践編」で、おもに発達障害の「むずかしさ」について書かれています。発達障害をもつ個人・とりまく家族・そして社会、それぞれのレベルで「むずかしさ」についてとりあげています。

医学書なので当然といえば当然なのですが、ざっくりいうと悲観論からのパターナリズムです。

つまり、発達障害をもつ個人はとても苦労するし、家族もつらい状況に追い込まれるし、社会に出ていくことはとてもむずかしいことなので、専門家の支援が必要である、という流れになりがちです。

まだ発達障害の概念が浸透していなかった時代には重要な考え方であることに間違いありあません。ですが、発達障害の概念が浸透してむしろ過剰診断や過剰処遇が問題となりつつある現在においてもなお妥当かどうか、検討の余地があります。

とくに発達障害は正常から重症までなめらかに連続する概念なので、悲観的な視点にかたよることは本人のもっている能力を過小評価したり可能性を狭めてしまうことになることがあるので要注意です。

また、「昔は良かった」けれども現代社会の変化によって発達障害をもつひとが苦しむようになった、というノスタルジックな説明がよく目につきます。

はたして本当に、昔の社会は発達障害をもつひとにとって幸せな社会だったのでしょうか?もしもそうだったとしたら、その代わりに不幸になっていたひとたちはどんなひとたちなのでしょうか?

これからいろいろ考えてみたいと思います。


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