ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?


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共同作業によってシンクロする脳

MRIはひとりで測定するものだと思っていたのですが、最近は2人の脳機能を2台のfMRIで同時に測定する実験ができるみたいです。
2個人同時計測MRI研究
それによると、2人で共同作業をしているときに、シンクロして作動する脳部位(右下前頭回)が特定されましたが、ASDをもつひととペアを組むとシンクロが起こらなかったようです。

やはりASDのひとは「共感が苦手」なのでしょうか?


ASDをもつひとは共感が苦手?

共感には認知的共感(CE)と情動的共感(EE)という2種類のシステムがあります。


ASDをもつひとは共感が苦手なことになっていますが、あまり表現しないのでわかりにくいだけで、CEは苦手でもEEはできたりします。

CEできるようになるためには、他者の視点に立って、他者の気持ちを理解することが必要になります。つまり「心の理論(ToM)」のサリー・アン課題です。
サリーアン課題
ASDをもつひとが理解しにくいこの物語を、CE/ToMのくくりではなく、情報を認知して意志決定するまでのプロセスとして考えてみます。


時間情報より空間情報を優先する傾向

サリーの視点に立ってサリーの気持ちを理解するためには、この物語における時間と空間を正しく把握しなくてはなりません。

物語の時間情報として重要なのは、
  1. サリーが去っていなくなる
  2. アンがパンを箱に入れる
という部分です。ASDをもつひとは、この時間の流れよりも「アンがパンを箱に入れた」という空間情報にもとづいてサリーの視点を取得してしまうので、「サリーは箱からパンを取り出そうとする」と考えてしまいがちです。

時間情報は変動しますが、空間情報は固定されているので、ASDをもつひとは後者を優先して認知し、意思決定の根拠にする傾向があります。

また、ASDをもつひとは、昔のイヤな出来事がとつぜん鮮明に思い出されてパニックになってしまう「タイムスリップ現象」が知られていますが、これも時間情報よりも空間情報を優先するためではないかと考えられています。

ここからASDをもつひと(の一部)にみられる、
  • 時間の流れと共にある「聴覚」よりも、空間を把握する「視覚」を優先する
  • 時間的な「見通し」を立てることが苦手
  • まるで高解像度カメラのように詳細な空間把握をする
などの特性が説明できたりします。

つまり、ASDをもつひとも「心の理論」が欠けているために共感できないのではなく、他者を理解するためのプロセスが特徴的であると言えるでしょう。


類は友を呼ぶ/類似性仮説

とすると、他者を理解するためのプロセスが共通しているASDをもつひと同士ならば共感しやすいのではないでしょうか?

教育学博士の米田英嗣は「類似性仮説」を提唱しています。
Perceivers empathize with targets similar to themselves, which facilitates subsequent cognitive processing.


研究では、ASDをもつひとはASDっぽいエピソードの記憶をスムーズに呼び起こすことがわかりました。

自分と似ている人物に共感することで認知プロセスが促進されて自動的に理解が進んでいくのではないかと。逆に、自分とは異なるタイプの主人公に対しては、認知プロセスが抑制されて分析的に理解しなければならないのではないかと。

似た者同士と違う者同士では、異なる脳部位のシステムを使って理解しているかもしれなくて、似た者同士は素早く認知されて自動的に理解がすすむのではないかというわけです。


一面的な理解から多面的な理解へ

かつて、ASDをもつひとは自己意識(自分と他人を区別すること)が低下しているとか、自己準拠効果(自分にあてはめて記憶すること)がないとされていました。

ASDの理解を深めるためには、ASDと定型発達(TD)との隔たりをいかに見つけていくか、ということも重要なのですが、エスカレートしすぎると一面的な理解と対処法が提示されてしまいがちです。

一方で、発達障害をもつひとの特性とか症状は、環境や状況によって大きな影響を受けてダイナミックに変動するので一面的な理解と対処法は役に立たなかったりします。

類似性仮説によって、ASDをもつひと同士であれば互いに自己意識をもって自己準拠効果を発揮する可能性が示唆されたことは画期的で、ASDの多面的な理解につながるかもしれません。


ピア・サポート/当事者研究の可能性

同じ障害をもって悩んでいる者同士が集まって、自助グループやピア・サポートをするのが効果的なのは、お互いが共感しやすいし、同じ目線から放たれる言葉には説得力があるからです。

過去に弱い立場になったことがあるひとや、身近に障害のある方がいるひとは優れた共感能力を発揮して優秀な援助者になることがあります。

また、最近は優れた当事者研究がたくさん出版されていて、当事者ならではの生々しい記述や独特の視点、障害のとらえ方など、とても勉強になります。

ただ、「当事者だからよくわかる」から「当事者じゃなければわからない」ということになるのは行き過ぎていて、想像力の敗北だと思うのであまり賛成できません。


「類は友を呼ぶ」から「分断」が始まる

ASDをもつひとたちのコミュニティでは「定型発達症候群」という考えがあります。
定型発達症候群
ASDをもつひとにとっては、TDのひとこそが非典型的でヘンだとされたりします。

いったん分割線が引かれて2つの集団が生まれてカテゴリー化されていくと、それぞれが独自の文化をつくるようになります。その結果、異なる集団に対して敵対心を抱くようになるという厄介な習性がみられるようになります。

傷ついたひとたちが集まって自助グループやピア・サポートが組織されて回復のキッカケになることはすばらしいことだと思うのですが、均質な集団はしばしば外部に対して攻撃的になってしまいます。

「当事者のことがわかるオレ、最強!」ということで、やたらと無茶な要求をしてくる自助グループのひとがいて困ることがあったりします。でも、最もタチが悪いのは、自分は安全なポジションで高みの見物をしながら、分断を煽っておもしろがってるひとなのですが。


それはさておき、ここから先は「異なるタイプのひと
同士の間で、いかに共感と理解が可能になるか」ということが問題になってくるので、いろいろ調べていきたいと思います。


俯瞰の過剰がまねく4つの問題


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灯台もと暗し

俯瞰の過剰がまねく4つの問題

「過剰な共感」は、対象との距離が近すぎてしまうことによって生じ、様々なデメリットを引き寄せます。

なので、対象との距離をとって状況を俯瞰して見ることによって、冷静かつ客観的に状況をとらえ、問題を整理し、見通しを立てることができるようになる、というメリットがあります。

ところが、「灯台もと暗し」という言葉の通り、過剰な俯瞰もまた様々なデメリットを引き寄せてしまうことを、とある奇妙な講演会を通じて考えました。

僕自身その傾向があるかもしれないので自戒をこめてまとめてみました。


① ナイーブな因果律を信じ過ぎてしまう

俯瞰してモノゴトを考えていると、たいていナイーブな因果律を信じるところに落ち着いてしまいます。そっちの方が楽だからでしょうか。

「ASDをもつひとは▲▲▲だから■■■すべき、そうすれば《良い結果》になる」みたいな。

さらに、

「必ず《良い結果》になるんだから、なにがなんでも■■■すべし!」

という独善からの、

「■■■したのに《悪い結果》になったのはオマエラのせいだ!」

という被害妄想にまで発展することさえあります。

しかし実際は、■■■の成否は現場の状況など様々な要素に左右されます。■■■したところで《悪い結果》になったりもするし、■■■しなくても《良い結果》になったりします。

実際の臨床現場は、素朴な因果律ではなくカオスに支配されているからです。

とくに発達障害はバリエーションが大きいので、理論を参照枠としながらも、現場で試行錯誤を繰り返して修正していく「工学的思考」が必要だったりします。


② 観察対象に与える影響を見落とす

いくら俯瞰していても、観察対象が人間である以上、純粋な観察は不可能です。観察すればするほど観察者は観察対象に影響を与えてしまいます。

極端な例だと、職場の上司との関係で悩むASDをもつ会社員に対して、ASDの研究者が「現在の職場はASDの特性にとって不適切なので、管理者は合理的配慮を行う必要がある」という意見書を作成しました。

そうすると、ASDをもつ会社員が意見書をふりかざして上司を責めたてるようになったため、今度はその上司がメンタルに不調をきたして精神科医に相談するようになった、という事例があったりします。

ASDの研究者は、情報収集によって職場の状況を把握しないまま持論を押しつけました。それによって、ASDをもつ会社員が攻撃的になってしまったのです。

観察者が自身の与える影響を自覚していないと、かえって事態が悪化してしまうことがあるので注意が必要です。

というのも、観察者のナイーブな因果律は、観察対象に影響を与え、新しい現実をつくりだします。それは時に、はなはだやっかいな現実だったりすることがあります。

このような現象を、社会学者アンソニー・ギデンズは「再帰性」と呼びました。ひと昔前の心理学ブームにおける過剰な再帰性については、斎藤環が「心理学化する社会」という本に書いています。


③ 個人の多様な可能性を見落とす

精神科の臨床をやっていると、とんでもなく重症のひとが急に回復して活き活きとするようになったり、長いあいだ(失礼ですが)廃人のような生活を送っていたひとが劇的に改善して驚かされることがあります。

薬が効いたとか、心理療法が効いたとか、そういった治療者の手柄ではなく、たまたま状況が変わったら良くなった、ということが多々あります。

特に、子どもは単に「成長する」ことで問題を乗り越えることができるようになったりするので、とてもエキサイティングです。

俯瞰することによって得られる硬直した理論は、そのような個人の多様な可能性を見落としてしまうリスクがあります。

信頼できるスタッフや同業者に相談したり、自分自身で点検することによって、定期的に診たてや治療方針を疑ったり、見直したり、再設定していく必要があります。


④ 多重化する俯瞰

「奇妙な講演会」でみられたように、俯瞰することはしばしば多重化していきます。

現実的な問題を解決することが目的であるハズなのに、いつの間にか俯瞰すること自体が目的になってしまいます。そして、俯瞰を繰り返すことによって、いつのまにか現実的な問題からますます遠ざかってしまいます。

ところが、生物学的に発達障害の原理が解明されない限り、いくら俯瞰をくり返してもキリがありません。

その結果、観察者は「現場のことを何もわからない・何もできないシニカルなひと」になってしまいます。


共感と俯瞰のあいだで

ASDをもつひとはベタベタした感情のもつれ合いが苦手なので、なるべく生身の自分をオモテに出さず、俯瞰するポジションをとることは、とりあえず効果的な対処行動だったりします。

俯瞰することによって得られた理論に固執して正当性を主張するのではなく、「しょせんこの世はカオスだからワケわかんないよ」という一種の脱力感をもちあわせることによって、ちょうどよいバランスがとれるようになるのではないかと思います。

治療者側がそのような姿勢で診療に臨むことによって、患者さん側にも良い影響が与えられるのではないかと考えています。

センセイはASD。


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フラットな人間関係/ヒエラルキーの人間関係

自閉スペクトラム症/ASDをもつひとは友人関係などフラットな人間関係が苦手だったりしますが、ヒエラルキーにおける上下関係なら比較的うまくやれたりします。

フラットな人間関係はルールが不明瞭でコロコロ変化するので臨機応変な立ち回りが必要になったりしますが、ヒエラルキーの上下関係はルールが明確で固定的かつシンプルなので見通しを立てやすいからです。

最もわかりやすい上下関係と言えば「先生―生徒」の「教える―教わる」関係ではないでしょうか。

たとえば、昔なら「センセイ」と呼ばれる職業である教師や医師のなかにはASDをもつひとがゴロゴロいたであろうことは、ご高齢の「センセイ」方をみればカンタンに想像できます。

今やどちらとも権威が失墜していて「教えること」以外に何かと対人折衝とかやらなくてはいけなくなっているので、ASDをもつひとにはちょっと厳しい状況になっています。

ドラマ「グッド・ドクター」では、わかりやすくそのような状況が描かれていて泣けます。

今でも、伝統的かつ閉鎖的な世界で純粋に学問や技術を教える状況であれば、ASDをもつひとでもやりやすかったりするでしょう。
センセイ
実際に、パッと見てわかるくらい重めのASDをもっている「エラいセンセイ」はあちらこちらでたくさん観察することができます。


奇妙な形式の講演会

この前、興味深い講演会がありました。

ASDの研究をしている精神科医のプロデュースによるもので、ASD当事者がASDの特性について精神科医向けに講演をするという斬新な企画でした。

しかも、講演の題材として、ASD当事者のひとの体験談ではなく、とある書籍「大人のアスペルガー症候群が楽になる本」(備瀬哲弘)で紹介されているASD事例をとりあげていました。

つまり、ASD研究者のプロデュースによって、ASD当事者が、別のASD事例を題材として、ASDの対応方法について、精神科医向けにレクチャーする、という形式になっています。

ややこしいので図解してみます。
  • ASD研究者/プロデューサー
  • ASD当事者/講師
  • ASD事例/題材
  • ふつうの精神科医/聴衆
こんな講演会は初めてだったのでめちゃくちゃ期待していたのですが、内容は予想を大きく裏切るものでした。


マウンティングはASDの特性か?

ASD事例をざっくり説明すると、とある精神科クリニックの診察室での出来事。分厚い紹介状をもってきたセカンドオピニオンの患者さん(40代男性会社員)が登場します。

精神科医が確認のために病歴をたずねたところ、いきなりブチ切れて怒涛の罵倒が始まります。以下、セリフの一部です。
「繰り返しになるかもしれない」だって!? そうだよ、その通りだよ。繰り返しにしかならないことを答えたってなんの意味もない。

だ~か~らぁぁ、文章をちゃんと読んでいるんだったら、そこに全ての答えは書いてあるだろ!! 何で同じ質問ばかりするんだよ… 

そもそも医者って言うのは、紹介状を出されたらそれに全部目を通して、患者の状態を完全に把握してから診察に臨むもんだろうが! 

どうして全部を理解せずに診察に臨んで、同じことばかり繰り返すんだよ。しかも、こっちが言ってることには全く耳を貸さないし、理解しようともしていないじゃないか。

こっちはできるだけいろんな側面から、アスペルガー症候群というものを理解しようとして複数の医者にかかろうと思ってるんだよ。こんなムダなやり取りのために来てるんじゃないよ!!
あわてて謝罪して弁解してもおかまいなしに罵倒は続きます。何を言ってもすぐさま罵倒されるので最終的には沈黙してしまった精神科医に対して、
「あなたは医者として、精神科医として、まだ十分な力量がないということがわかりました」
と捨てゼリフを残して去っていくというものでした。

講演会には若干名の当事者も参加していて「ホントにこんな医者いるんですね、信じられない!これではどっちが患者かわかりません!」と軽蔑のコメントが寄せられました。

ちなみにこの精神科医はわりと丁寧かつ誠実に対応している方なのですが、、、それはともかく、このケースをASDの特性が現れている事例として紹介しているところにかなり無理があります。

というのも、これは単なるマウンティングであってASDの特性ではないからです。こんなことをしないひとの方が圧倒的に多数派ですし、マウンティングはASDをもつひとでなくても全人類がやることで、そもそもゴリラでもやる原始的な行為です。

フロアからもASDは関係ないとか二次障害ではないかという意見が出ていましたが、ASD研究者もASD当事者もこれがASDの特性であるという主張を曲げません。

と、前提がおもいっきりズレまくったまま講演会は進行します。

ASD当事者は彼なりに一生懸命考えた理屈で「ASD特性に配慮した対応」をすればトラブルを防げるとレクチャーしてくれます。

ASD当事者はまだ20代の青年で医療関係者でもないので仕方ありませんが、残念ながらどれも机上の空論でした。例えば「(過去の嫌な経験を想起させるため)いきなり沈黙してはいけない」とか。

いやいや、ふたりきりの密室で罵倒され続けたら気の弱いひとは沈黙しても仕方ありません、精神科医も人間なのです。密室でマウンティングをしかけてくるひとを理屈で納得させることなんてそうそうできるものではありませんから。


教育者としてのポジション

マウンティングにASDの特性が現れているわけではありませんが、100歩ゆずってマウンティングの終え方には若干ASDらしさが出ていると考えることが可能です。

ASD事例にとって精神科医は「ASDのことを教えてくれるかもしれない医師」から「教育してあげるべき医師」へ転落します。彼は罵倒によって無力化した精神科医に対して、声量をおさえて諭すような口調で語りかけます。
「そういう面に配慮して診察するのが精神科医でしょう? 理解不足、勉強不足ですよ、あなたは。」
この時点で、ASD事例は精神科医に対して教育者のポジションに立っています。それに満足したかのように事態は終息していきます。

つまり、「教育者のポジションに立つことを目的としてマウンティングが行われた」というところがポイントかもしれません。


講演会のヒエラルキー

ここで興味深いのは、ASD当事者はこのASD事例を紹介することでワンランク高い教育者のポジションに立つことができていました。

そしてさらに、これをプロデュースしたASDの研究をしている精神科医は最も高いポジションに立っているわけです。

この精神科医はいかにも「エラいセンセイ」という感じのひとで、大学や行政機関に就職していて研究活動をメインとしているので実務経験は乏しいのにも関わらず、この場においてはASDの特性をものすごく熟知していることになっていました。

ちなみに、このひとに異論をぶつけてみると「それは定型発達/TDの考え方」なので「ASDのことは理解できない」という前提で返してくるので議論になりません。つまりご自身はASDであるという前提みたいなので、とりあえずASD1としておきます。

ASD当事者は学生時代からASD1に教育を受けてASDの理解を深め、現在はピアカウンセラー(みたいな)活動をされているようです。ASD2とします。

ASD事例はいくつもの精神科を受診されているので、まだ社会との折り合いがつかずに苦悩しながら、なんとかASDの特性を理解しようとしています。ASD3とします。

事例のなかの精神科医や講演を聴いている精神科医はTDであるがゆえにASDの特性を理解できていないとされています。

再び図解するとこうなります。わかりやすいヒエラルキーが形成されています。

↑ ASDを理解している 尊敬される 教育する立場
  • ASD1 ASD研究者
  • ASD2 ASDピアカウンセラー
  • ASD3 ASD患者さん
  • TD  ふつうの精神科医
↓ ASDを理解していない バカにされる 教育される立場


俯瞰の過剰さ

ASDをもつひと(の一部)は、対象と距離をとって俯瞰でモノをとらえることを好む特性があります。いわゆるメタに立つ視点です。
  • ASD1は、ご自身が直接ASDについて講演するのではなくASD2に講演させました。
  • ASD2は、ご自身の体験よりも書籍で紹介されているASD3を題材にしました。
  • ASD3は、様々な精神科医から意見を聞くことで理解を深めようとしました。
どなたも現実的な問題から距離を置いて俯瞰しようとする行動をとっています。そのような「俯瞰の過剰さ」は、教育者のポジションにつくことによってこそ満たされます。

結果的に、ASD1・ASD2・ASD3のみなさんそれぞれが、教育者のポジションにおさまっているのでめでたしめでたし、と言いたいところですが、俯瞰の過剰は様々なデメリットを引きよせます。

たとえば、とあるTD(ふつうの精神科医)が、ASD3は最終的には罵倒をやめてその場を収めて落としどころを見出そうとしているので、今後は変化したり治療が進展する可能性があるのではないかと、実務家ならではの鋭い指摘をしました。それに対して、ASD1は「あのひと(ASD3)は変わらない」という見解を示して否定しました。

ASD1は俯瞰することによってASDを理解したつもりになっていますが、実際の臨床はカオスなので予想外の変化にあふれています。特に発達障害はバリエーションが大きく可塑性に富んでいるのでしばしば驚かされることがあります。

ASD1のように実務経験が乏しく研究や出版に関心が強い医師は、しばしば硬直的な理論にしがみついて個人の多様性とか変化の可能性を見失いがちだったりすることがあります。

このような現象はしばしばみられるので、次回以降にまとめてみたいです。

認知の歪みvs抑うつリアリズム


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うつ病の原因は本人の素因よりも環境要因が重視されるようになってきました(職場はうつ病の玄関口か?)が、いま流行ってる認知行動療法の基本的な考え方である「認知行動モデル」はそれと対立する部分があったりします。


うつ病の認知行動モデル

認知行動モデル


認知行動モデル|認知 > 感情

認知行動療法のコンセプトである「認知行動モデル」は、環境よりも「認知」つまり「モノのとらえ方/自動思考」が極端にネガティブに偏っていたり歪んだりしていることを重視します。この「認知の歪み」が感情面などに影響し、うつ症状が形成されることになっています。

従来のうつ病|感情 > 認知

これに対して、従来のうつ病の考え方は、「内因性」という「なんだかわからないけど身体の芯から元気が出てこない『感情』の病気」が発生することを重視します。それによって、ネガティブな思考が生じるというものでした。

つまり、180度ひっくり返るパラダイムシフトが起こっているわけです。

従来の「内因性」うつ病は、とにかく医師の指導のもと、休息して服薬するなど医学的に取り扱うしかありませんでした。しかし、認知行動モデルで考えれば、うつ病は誰でも「取り扱い可能」になることが画期的だったりします。

医師だけでなく、看護師や心理士をはじめ患者さんも自分自身でうつ病をメンテナンスすることができるようになりました。

とても前向きで喜ばしい考え方なのですが、運用のやり方によってはリスクもあったりします。

たとえば、まったくやりがいのない業務かつ過重労働かつパワハラが蔓延している職場のなかでうつっぽくなってるひとに対して、上司が「それは『認知の歪み』のせいだから治療してもらいなさい」とクリニックに連れて来ることはめずらしくありません。


抑うつリアリズム仮説

認知行動モデルとは真逆に、うつ病のひとは状況を正しくリアルにとらえているという考え方「抑うつリアリズム仮説」があります。

1967年、心理学者のセリグマンが「学習性無力感」理論を発表したことで、うつ病のひとは幼少期の挫折体験によって無力感を学習して「認知が歪み」世界をネガティブにとらえてしまうという説明がなされるようになりました。

拘束されて電気ショックを与え続けられたイヌは無気力になってしまう、という残酷な実験結果がこの理論を支えてきました。

1979年、セリグマンの弟子であるアロイとアブラムソが大学生を対象にこの実験をやってみると、うっかり師匠が間違っているという結果を得てしまいました。

健康な大学生よりも、うつ症状をもつ大学生の方が現実を正しく認識していたのです。むしろ健康な大学生がポジティブすぎるあまり現実を間違ってとらえていました。

「抑うつリアリズム仮説」の始まりです。以後、次々とこれを支持する研究結果が得られているようです。

逆に考えると、健康を手に入れるためには現実を正しく認識する能力を手放す必要があるようです。

別の研究では、成功体験を重ねることによって現実をポジティブに錯覚するようになるため、将来挫折するリスクが高まることが示唆されています。

なので、むしろ若いうちに挫折体験を重ねて現実を正しく認識するようになったひとこそが、優れたリーダーになる可能性を秘めているかもしれません。

そのような事例が精神科医ガミーの著書『一流の狂気』で紹介されています。

そうすると、うつ病を治療することは、現実をポジティブに錯覚させるようにすることなのでしょうか?


抗うつ薬が表情認知に及ぼす影響

抗うつ薬が表情認知に及ぼす影響
健常者が抗うつ薬を飲んでもまったく効果がないとされていますが、実は効果があるんだよ、という興味深い報告があります。

抗うつ薬を服用することによって、他者の表情から感情を読みとる能力が低下するらしいです。しかも、ハッピーな表情は正しく読みとれるのに、恐怖・怒り・嫌悪などのネガティブな表情は読みとりにくくなるみたいです。

これはざっくり言うと「抗うつ薬を飲むと脳天気になる」ということなので、抑うつリアリズム仮説を支持する結果になっています。

アメリカ南北戦争を終わらせたシャーマン将軍

William Tecumseh Sherman
このいかにも気難しく鬱屈とした表情の紳士は、アメリカ南北戦争を終結に導いたシャーマン将軍です。

『一流の狂気』に詳しく書かれていますが、彼は若い頃に挫折体験を繰り返して双極性障害を発症しながらも、優れたリーダーとして成長していきます。

アメリカ南北戦争は「奴隷賛成&自由貿易の南部」 vs 「奴隷反対&保護貿易の北部」それぞれの理念が真っ向から対立していました。

司令官たちはお互いが崇高な理想を掲げて戦争を美化したり正当化したりして戦局は泥沼化し、近代兵器の発達によって大規模な戦死者を生み出すだけの戦争になっていました。

リアリストであるシャーマン将軍は「戦争は地獄だ」と認識していました。は戦争を早く終わらせるため、史上初の総力戦における焦土作戦を断行します。

敵の軍隊ではなく民間人とその財産をターゲットとして攻撃するというもので、農作物を奪い、住居を焼き払い、道路・橋・鉄道などのインフラを徹底的に破壊しました。
南北戦争におけるシャーマン将軍の破壊
シャーマン将軍はアトランタの住民に「戦争は残酷そのものなのです、それを美しくみせるようなことはできないのです」と呼びかけ、北部行きの片道切符を渡し、都市を壊滅させました。

どんなに勇ましい兵士でも生活インフラを失えば屈服せざるを得ません。こうして南軍は次々と降伏して戦争は終結へ向かいます。

こうして、シャーマン将軍は現状を正しく認識することで南北戦争という古い問題を解決しましたが、民間人を巻き込む総力戦という新たな問題の扉を開いてしまいました。


ジャン・キルシュタインの憂鬱

身近な例で言うと、たとえば人気漫画「進撃の巨人」に登場する「ジャン・キルシュタイン」というキャラクターがいます。
ジャン・キルシュタイン
進撃の巨人1巻
ジャンは優秀な兵士ですが、フィクションの世界なのでバケモノ級の能力をもったキャラクターがたくさん登場するのでどうしても見劣りしてしまいます。つまりジャンは「庶民代表」のポジションであるがゆえに感情移入しやすいキャラクターとして機能しています。

ジャンはリアリストなので、理想に燃えてがむしゃらに突っ走る主人公のことを「死に急ぎ野郎」とバカにする利己的でシニカルなヤツでした。
ジャンの憂鬱
進撃の巨人2巻
理不尽な現実に直面するとネガティブに考えて落ち込んでしまいますが、これは状況を正しく認識することができるという能力と表裏一体です。
マルコからジャンへ
進撃の巨人4巻
その能力を友人に見抜かれてしまう印象的なシーンがあります。
ジャンは強い人ではないから
進撃の巨人4巻
その後、偶然を契機として心境の変化が生じて成長していく彼の姿が丹念に描かれているところが心打たれます。

それは、ネガティブな「うつ」や反動としての「シニカル」「利己性」など、人間の弱さを作者が肯定しているからでしょう。


補足

  • 「認知の歪み」はマジカルワードになっていて、それ一本槍でうつ病を理解するのはリスクがあると感じていました。なので、うつ病のポジティブな側面をみることで少しだけ理解を深めることの助けになるかもしれないと思って紹介してみました。

  • もちろん認知行動療法には「認知の歪み」を修正するだけでなく、現実的な問題に対処する「問題解決技法」なども利用されています。

  • うつ病は自殺の原因にもなる苦悩の深い病気です。ここでポジティブな側面を強調しているからといって、うつ病は治療しなくて良い、ということにはなりません。

  • 抑うつリアリズムはあくまでも軽症の患者さんに現れるものなので、重症になると認知の歪みは誰が見ても顕著になることを指摘しておきます。

職場はうつ病の玄関口か?


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うつ病が増えた原因として、SSRIが発売されたことがひとつの要因としてあげられます。


今回はそれ以外の要因についてまとめてみました。


ホンモノのうつ病とは?

最近はすっかり、うつ病は「ストレスの病」として認識されていますが、もともとうつ病はめずらしい精神病の一種でした。僕が精神科医になった当時はメランコリー親和型のひとに多い「内因性うつ病」こそがホンモノのうつ病だと言われていました。

「内因性うつ病」は症状の出方と症状の内容に特徴があると言われていました。症状の出方としては、明確なきっかけがなくても「なんだかよくわからないけど勝手に出てくる」という大雑把な感じで「了解不能」とか言われていました。

なので、でっかいストレスでうつ病になった、みたいに因果関係が明確なケースは「心因性うつ病」とか「反応性うつ病」と呼ばれてホンモノのうつ病ではないことになっていました。

症状の内容としては、ちょっと凹んでるとかじゃなくて「がっつりと身体の芯から気力がわいてこない」感じが重要で、「生気的」とか言われていました。

いろいろと難しい理屈がたくさんあるのですが、ともかく内因性の概念は観察者の主観に左右されやすいことが欠点だったりします。


うつ病はいつから「ストレスの病」になったのか

「内因性うつ病」は、遺伝と環境の相互作用によってうつ病が発生するという概念ですが、時代の流れは環境要因の方をより強調するようになっていきます。

第二次大戦後のドイツでは、強制収容所から帰還した健常者の多くがうつ病にかかったということで、政府に対して補償を求めていました。

また、ナチス時代の「遺伝が全てを決める」という考え方への反省から「どのような状況でうつ病が発症するのか」という点に関心が高まり、「疲労困憊性うつ病」という概念が取り上げられるようになっていました。

一方、高度経済成長期の日本はどうでしょうか?


1984年の精神障害労災認定第1号

東北新幹線開通
1984年、東北新幹線上野地下駅の設計を請負っていた建設コンサルタント会社の設計技師(当時31歳)が、過重労働の末に通勤途中の駅ホームより電車に飛び込み、両下肢切断の重症を負いました。

これをめぐる裁判において、精神科医の金子嗣郎は「過重労働によって『反応性うつ病』を発症した結果自殺未遂に至った」という意見書を提出しました。

遺伝や気質など本人の要因よりも、過重労働という環境要因がうつ病の発症に決定的な影響を与えたこと、つまり「反応性うつ病」がホンモノのうつ病に格上げされたことがパブリックにみとめられ、精神障害が労災の仲間入りをした初めてのケースとなりました。



1991年の電通事件/内因性うつ病の敗北

1990年、大嶋一郎さん(当時23歳)が広告代理店最大手の電通に入社したちょうどその頃にバブルが崩壊、月140時間を超える残業をこなす激務のなか、翌1991年に自殺されました。

遺族側は過重労働によってうつ病を発症したことが自殺の原因であるとして、約2億2260万円の損害賠償請求を起こしました。

金子嗣郎はこの事件においても「過重労働によって疲労困憊性のうつ病を発症し自殺に追い込まれた」という旨の意見書を提出し、原告側の主張を支えました。

これに対して電通側の医師は伝統的なうつ病論を展開して対抗します。大嶋さんの真面目で几帳面で責任感の強い完璧主義である性格が「内因性うつ病」の特徴であるメランコリー親和型であると主張し、本人の素因がうつ病の発症から自殺までのプロセスに影響を及ぼしているという旨の意見書を提出しました。

いったんこの主張は受け入れられ、東京高裁では賠償額が30%減額されています。

そして最高裁。大嶋さんのメランコリー親和型性格は社会人としてはごくありふれた特性であり特別なことではないと判断され、減額は違法であるとして破棄されました。

結果的に電通側が遺族側に対して約1億6800万円を支払うことで和解が成立しました。

電通事件の判例によって、うつ病の原因は本人の素因よりも過重労働などの環境要因が大きく影響するというコンセンサスが得られていくことになります。つまり「内因性うつ病」は敗北したと言えるでしょう。

バブル崩壊後、次々と過労死の問題が明るみに出てくるようになり、企業側はその責任を追求されていくことになりました。


1999年の労働省通達/産業メンタルヘルスの拡大

1999年、ちょうど日本で最初のSSRIが発売された頃、労働省(当時)は全国の労働基準監督署に対して「職場の心理的負荷の評価法に関する通達」を行い、精神障害対策に関する3つの方向転換を示しました。

ざっくりまとめると、労災をめぐる精神疾患について、
  1. 国際的な診断基準である「ICD」が採用されました。ICDやDSMなどの国際基準には「内因性」の概念は採用されていないので、内因性うつ病はその存在価値を失っていきます。

  2. 従来よりも広範囲の精神疾患が労災の対象に含まれるようになりました。

  3. ストレス脆弱性モデルが採用され、「うつ病はストレスの病」という考え方は産業医学の常識となっていきます。
大風呂敷をひろげた結果、精神疾患による労災申請は爆発的に増加していくことになります。当然のことながら患者さんの数も増えていくわけです。

脳心臓疾患と精神疾患の労災申請件数と認定件数の推移

社会的救済としてのうつ病診断

一連の流れをみてみると、高度経済成長の象徴である新幹線に携わっていた設計士が精神障害労災認定第1号になってしまったり、バブル崩壊直後のエリートサラリーマンが過労死したことが制度変更のターニングポイントになってしまったことがとても印象的です。

高経済成長期の頃は過重労働やパワハラなんて日常茶飯事だったのでしょうが、「とにかく儲かっているからアリでしょ」で済まされていたのだと思います。好景気の豊かさは、さまざまな矛盾を覆い隠すことができるからです。しかし、バブル崩壊後ドッチラケになった世の中では、様々な不条理がむき出しになってしまいます。

そして、不条理に直面して打ちのめされ苦悩するひとたちを社会的に救済するための手段として、なかば強引に精神科医療が拡大解釈されて運用されてきました。

これこそ、うつ病が急増した要因のひとつと言えるでしょう。

しかし、うつ病の環境要因が重視されることになっても、医療は基本的に「個人の素因・脳の機能異常・認知の歪み」などを対象とするものなので、環境要因に対しては無力だったりします。

僕が精神科医になった2003年の時点でも「内因性うつ病」はまだ健在で、産業メンタルヘルスの観点など当時は全く持ち合わせていませんでした。

いったん医療化によって救済することは応急処置としては有効ですが、そのままでは肝心な問題は解決されないどころか状況が次第に悪化していくことになったりします。

なので、徐々に脱医療化していくことが必要になってくる局面もあるということで、これはまた次回以降にまとめていきたいと思います。

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