ASDと定型発達が共感するまでのプロセス


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以前の記事(ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?)では、自閉スペクトラム症(ASD)をもつひと同士、定型発達(TD)のひと同士、つまり似たもの同士は共感しやすいということについて書きました。


では、ASDをもつひととTDのひと、違うタイプのもの同士が共感し合うにはどうすればよいのでしょうか?

一般的にはASDのひとへの対応方法として
  • 視覚化しましょう。
  • 見通しを立てましょう。
  • 具体的に説明しましょう。
などなどよく聞くフレーズが念仏のように繰り返し語られたりしていますが、このような対応はASDの理解を深めることはありません。かといって、難しい本を読んで思弁的かつ文学的なややこしい表現を追いかけても疲れるだけだったりします。

というわけで、最近たまたま読んだ保育の本にヒントが書いてあったので紹介します。

目次
1 人間発達の軸としての「共感」…佐伯 胖
2 「共振」から「共感」へ―乳児期における他児とのかかわり…須永美紀
3 「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの…宇田川久美子
4 保育の場における保育者の育ち―保育者の専門性は「共感的知性」によってつくられる…三谷大紀
5 「対話」が支える子ども・保護者・保育者の育ち合い―多様な他者が共に育ち合う多声的な「場」…高嶋景子
保育の本って初めて読んだのですが、どれもおもしろかったのでオススメです。このなかで、宇田川久美子による第三章 “「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの” に、ASDをもつ幼児とTDの著者が共感するまでの長い道のりが丁寧に記載されていて、臨床経験からもうなずける内容が多くてとても勉強になります。


物理的変化そのものを味わい楽しむ

物理的変化を楽しむ

ASDをもつ子どもは、流れ落ちる砂、海辺の波、流れる水、焚き火の炎、床屋の回転灯、洗濯機の動き、電車の窓から流れる風景などなど、あきもせずにずっと眺めていることがあります。

彼らは「物理的変化」そのものをダイレクトに味わい楽しむ感覚をもっています。一方、TDの子どもは「物理的変化」に対してすぐになんらかの意味づけをしたりストーリーをつくったりする傾向があるので、一緒に楽しめずに孤立化する要因になります。これは中心気質っぽい特性だと思うのですが、それはさておき。。。


ここで宇田川は「子どもを見ること」から「視線の行く先を見ること」を重視することを提案します。つまり、ASDをもつ子どもそのものよりも、子どもの視線のその先にスポットライトを当てるべきであるということです。


ASDをもつ子どもを模倣する

ASDをもつ子どもが執着しているモノに、支援者自身が没頭してみること。つまりASDをもつ子どもを模倣してみることをすすめています。ASDをもつ子どもになりきって支援者自身も物理的変化を楽しみます。

この段階では、支援者自身はモノに一体化しているのでほぼ道具みたいな存在になっています。ここでは「クレーン現象」がみられたりします。

そして、《子どもーモノ》の二項関係と《支援者ーモノ》の二項関係がシンクロしていると、だんだんASDをもつ子どもは「共に」という感覚を感じとるようになり、それを求めるようになります。

ASDをもつひとは一般的に孤独を好むように思われがちですが、お祭りムードとか盛り上がっている雰囲気自体は嫌いなわけではありません。むしろ、その場のバイブスとかグルーヴを人一倍楽しんでいたりします。


特別な道具的存在〜相互模倣まで

「共に」物理的変化を楽しむ経験を重ねることでふたりの関係に変化が生じていきます。物理的変化の延長であり道具的存在にすぎなかった支援者に対して、ASDをもつ子ども自身が模倣をしかけるようになります。相互模倣です。

模倣によって相手とシンクロして共に感覚を楽しむことは群れを形成すること、すなわち共感の起源ではないかと考えられます。



その他大勢と同じように道具的存在だった支援者は、特別な道具的存在に格上げされていきます。

この時点で、原始的な情動的共感(EE)は達成されているけれど、相手の意図を理解する認知的共感(CE)はまだ始まっていない段階です。


では、ASDをもつ子どもにおいて、CEはどのように達成されていくのでしょうか?


2段階の共同注意/表層模倣から深層模倣へ

「共同注意」は、同じターゲットを一緒に見ること、指差しによって相手にターゲットを示すこと、など他者と協力するための基礎的能力であると考えられています。ちなみに、チンパンジーやオオカミよりもイヌの方が優れているとされています。

ヒトでは通常生後9ヶ月頃には共同注意ができるようになります。ASDをもつひとはこれがなかなかできないので早期診断のポイントだったりします。そして、生後14ヶ月になると共同注意によって相手の意図を理解できるようになります。つまり共同注意はCEを達成するためにも不可欠な能力であると考えられます。

共同注意には表層模倣によるものと深層模倣によるものの2段階があります
  1. 表層模倣 相手の動作を表面的にマネること
  2. 深層模倣 相手の意図を理解してマネること≒CE
たとえば、TDの子どもたちが粘土細工を料理にみたてて遊んでいるなかで、ASDをもつ子どもは粘土そのものの物理的変化を楽しんでいます。TDの子どもたちは自分たちの作品を「見て」とアピールし、大人の反応を楽しんでいます。ASDをもつ子どもも「見て」というアピールを模倣しますが、大人の反応には全く関心がないようです。とりあえず「見て」という手続きをするという表層模倣の段階です。

ASDをもつ子どもは表層模倣によってなんとか「共に」楽しむことができるようになっていますが、深層模倣がなかなかうまくできません。両者のミゾを埋めるためには何が必要でしょうか?


物理的変化>意味づけ>視線の変化

宇田川の観察によると、流れ落ちる砂の感触を楽しんでいるだけだったASDをもつ子どもが、砂の塊を指して「お山」とアピールするようになった瞬間をとりあげています。宇田川が「本当だ。お山ね。高いわね。」と反応すると満足した表情を浮かべました。

この動作には、自分の作品をアピールするために共同注意をうながす「意図」が組み込まれているので、深層模倣が達成されていると考えられます。

ASDをもつ子どもの視線は、「移動する砂/物理的変化」から「移動した先の砂山/意味づけされた状態」へと変化しました。砂遊びという同一の動作が、視線の変化にともなって「砂の移動」から「山づくり」へと変化しています。
  • 「ある動作」にはその動作を生み出している「目的」があること
  • 「目的」によってその「動作の意味が異なる」こと
  • 「目的」の違いによって「異なる行為」になること
  • 「異なる行為」を生み出す「視線」があること
  • 「視線」の背後には行おうとしている「意図」があること
などを経験します。これらがつながることで他者との意図の共有は可能になるのです。
また、物理的変化に対して言葉をそえる「意味づけ」が行われたことによって、ASDをもつ子どもの世界は他の子どもたちに開かれて、共に楽しむことができる遊びになっていきます。


ASDをもつ子どもと共感するためのプロセス

ASDをもつ子どもがCEに至るまでの長い道のりをざっとまとめてみます。
  1. ASDをもつ子どもになりきる
  2. お気に入りの道具的存在になる
  3. 道具的存在にも意図があることを示す
  4. 共同注意を通じて模倣を深化させる
  5. 物理的変化に意味づけを与える

① ASDをもつ子どもになりきる

まずは、支援者がASDの子どもになりきることから始まります。自らの身体を相手に投げ出して道具みたいな存在になって、大好きな物理的変化を共に楽しみます。

② お気に入りの道具的存在になる

共に楽しむ経験を通して、支援者と身体感覚レベルでの共感(EE)が成立し相互模倣が始まります。この関係をベースとして共感を発展させていきます。発展しなければ支援者は単なる便利な道具で終わってしまいます。熱心な支援者のなかには、道具的な存在のまま2人きりの世界にいつまでも閉じこもり続けることがあったりします。

③ 道具的存在にも意図があることを示す

支援者自身が「意図」をもった存在であること示し、いつでも便利に使える道具ではないことを経験していくために、ときには要求を突っぱねることも必要です。

④ 共同注意を通じて模倣を深化させる

共同注意を模倣することは相手の意図を感じられるようになるための近道です。

⑤ 物理的変化に意味づけを与える

これによって、ASDの子どもの遊びは、他の子どもにも理解できるように開放され、共有することができるようになります。


生身の身体を利用したシュミレーション

TDのひとは、脳内で「意図をもった他者」を想定してシュミレーションを行っていますが、ASDをもつひとはこれがなかなかできません。宇田川は、自らの身体を登場させて道具的に利用させるという手段をとりました。これはなかなかマネできることではありません。

その結果、TDが脳内で行う仮想的なシュミレーションを、現実世界に展開して物理的かつ具体的に再現することができるようにしたわけです。ちょうどソロバンをつかって計算するように。

TEACCHなどでは、発達障害の特性にあわせて環境をコーディネートすることが重要であると言われていますが、支援者自身も環境の一部として物理的構造化に寄与していくという視点を導き出せるのではないかと考えています。

不登校の対策として「子ども部屋」を活用する


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自律を育む子ども部屋の機能

前回(自立はややこしいので、とりあえず自律しておこう)紹介した環境心理学者の北浦かほるは、自律とプライバシー意識を形成していくために、子ども部屋が果たす機能を4段階にまとめています。
  1. ひとりで考えごとをする
  2. 空間をコントロールする
  3. 自分の行動を選択する
  4. プライバシー情報をコントロールする

それぞれざっくりまとめてみると、

① ひとりで考えごとをする

ひとりで、静かに、誰にもジャマされない空間を確保することから自律が始まります。
  • 考えごとをする
  • 空想する
  • ボーっとする
  • 本を読む

② 空間のコントロールをする

他でもない自分だけの場所を確保して、維持していく練習をしていきます。
  • 誰も許可なく入れないようにする
  • 入ってくるひとを選べるようにする
  • 大切なものをしまう
  • 部屋を飾る

③ 自分の行動を選択する

自分の行動を選択する場所を持つことは、自律にとって重要です。
  • したいことが自由にできる
  • そこでしかできないことをする
  • 音楽を聴く
  • 叱られたり腹がたったときに行く
  • ひとりになりたいときに行く

④ プライバシー情報のコントロールをする

自分のプライバシーを守るための空間として子ども部屋を利用するようになります。
  • 着替えをする
  • 手紙や日記を書く
  • 友だちと連絡をとる
  • 聞かれたくない話をする
  • 見られたくないことをする

子ども部屋とメンタルヘルスの関係

不登校などの問題が長期化していて困っている児童思春期の患者さんをたくさんみていると、子ども部屋の使い方が独特であるケースが多いことに気づきます。

10歳を過ぎても個室が与えられていなかったり、険悪な兄弟と部屋を共有していてギスギスしていたり、1日中リビングで過ごしていたり。子ども部屋があったとしても、親兄弟が勝手に入って良いことになっていたり、デスクだけ置いてあまり活用されていなかったり、ほぼ物置き部屋になっていたり。

ともかく、あまり機能していないことが多いように感じますし、子ども部屋があってもなくても母親と一緒に寝ることが多かったりします。

もちろん、子ども部屋が活用されていないことが不登校やメンタルヘルスの問題の原因ではないのですが、回復を促進するためには子ども部屋をうまく活用した方がいいのではないかと考えています。


居は気を移す

「居は気を移す」とは、孟子の言葉で「住む場所や環境が多大なる影響を与える」という意味です。

昔から、住居などのアーキテクチャが精神面に与える影響に興味があったので、住居の間取りと動線と活用の仕方を聞くようにしています。家族の関係性とか力のバランスが反映されていることが多かったりするからです。

逆に、精神状態の変動が住居環境に大きな影響を与えることがあります。訪問診療で患者さんのお宅をよく観察する機会があるのですが、精神状態が悪化すると住居環境も荒れてしまいます。

なので、家族システムが不調なケースは、初回の診察時にはなるべく部屋の間取りを聞き取るようにしています。


不登校の対策は休息から始まる

子どもが不登校になったり、メンタルヘルスの問題があると、親子ともに懸命になって解決しようと限界まで努力します。なので、精神科へ相談に来るころにはクタクタになって疲れはてた状態になっています。いくら敷居が低くなったとはいえ、誰もすすんで精神科を受診したくはありませんから。

クリニックでお会いした時点でエネルギー切れの状態になっているので、まずは休息してエネルギーを充電していくことから始めます。


不登校の対策として「子ども部屋」を活用する

子どもが不登校になると、親は不安になって監視や干渉を強めようとしますが、たいていは逆効果となってしまいます。子どもにとっては、おちおち休息できずに疲れをつのらせてしまうことが多いからです。

子どもが休息できずに状態が悪化すると、さらに親は監視と干渉を強めてしまい、以下繰り返しと、悪循環してしまう状況ができあがります。

こんなとき、子ども部屋という空間をうまく活用すればゆっくり休息することができるようになるので、この悪循環を絶つキッカケになることがあります。物理的に距離をとることで、心理的にも距離をとることができるようになります。お互いひと息ついて冷静になったところでまた話し合うチャンスができてきます。

不登校などの問題を乗り越えることは、しばしば自律と成長のキッカケになったりします。それらのプロセスをうまく媒介する便利なツールとして子ども部屋を活用していくことが重要だと考えています。


補足

  • 重い精神障害などで自殺の危険性が切迫しているケースなど、子ども部屋でゆっくり休息している場合ではない状態もありますので、疑わしい場合は医療機関で判断を仰いでください。

  • 住宅の構造的に子ども部屋をつくれない場合でも、可能な限りパーテーションをつけるなどプライベート・スペースを確保することが有効だったりします。

  • 子ども部屋が機能していなくてもうまくいっているご家庭はたくさんありますので、もちろんそのような場合はムリして子ども部屋をつくらなくてもよいと思います。

自立はややこしいので、とりあえず自律しておこう


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自立

自立と自律の違い

日本語では読み方が同じ「じりつ」なのでまぎらわしいのですが、自立と自律は全然違います。英語では、自立/自律は、independence/autonomy なので、全く別モノであることがよくわかります。

自立 independence【in - dependence】

【in】は「否定」、【dependence】は「依存」
原義は「依存しないで生きていく」です。
つまり、誰にも援助されず依存せず、独立していることとされています。

自律 autonomy【auto - nomy】

【auto】は「自分」、【nomy】は【nomos】つまり「法」「ルール」
原義は「自分のルールで生きていく」です。
つまり、誰にも影響されずに自分のルールに従って意思決定する能力であるとされています。

なので、自律なくして自立はありません。自律はより基礎的な能力で、自律できるようになって初めて自立が達成されるハズです。

ですが、しばしば自立と自律がごっちゃになっていて、自律もできていないうちから性急に自立が強調されたりすることが多いように思われます。しばしば子どもの頃から「他人に依存せずに自立を目指すべき」と言われたりしますが、これにはいろいろな問題があります。


自立のパラドックス

「自立」の反対は「依存」なのですが、「自立すること=依存すること」だったりします。自立しているひとほど、さまざまなひとたちにうまく依存して生きていたりするからです。

たとえば、大企業の経営者は自立した立派なひとであるとされていますが、多くの社員をはじめ様々な人脈のネットワークやシステムに依存して活動しているので、ひとりだけでやれることはそれほど多くありません。なので、もっとも依存しているひとであるとも言えます。

一方で、誰にも会わずにずっと家にひきこもっているひとは親に依存していて自立できていないダメなひとであるとされていますが、他人はもちろん親すらも心理的には頼っていなかったりするので、もっとも自立しているひとであるとも言えます。

なので、自立するためには、いろんな依存のチャンネルをもっておくことが必要だったりします。

「自立支援医療」という制度があるように、医療や福祉の領域では「自立」が重要とされていますが、単純に自立させようとする援助は、逆に自立できない状態へと追い込むことになっていたりするわけです。


自立と「子ども部屋」

一般的には、自律よりも自立が注目されて依存が問題視されがちです。自立した個人として生きていくことが重要であると強調されることで、自立できなかった個人は激しい批判の対象となってしまいます。

たとえば、戦後日本で民主主義教育が普及したことによって、子どもの自立心を養うために「子ども部屋」が重視されるようになりました。

ですが、1970年代後半から増加した不登校やひきこもりの温床として「子ども部屋」はヒステリックに批判され、一転して子ども部屋を個室化しない住宅プランが増えていくことになります。

不登校やひきこもりという現象は複雑な問題なので原因は特定できないのですが、自立をさまたげる犯人として「子ども部屋」がヤリ玉にあがってしまいました。

ともかく、自立をめぐる問題はパラドックスを含んでいて混乱しやすいので、「自律」の概念に注目するべきだと考えています。


「子ども部屋」で自律を育む

環境心理学者の北浦かほるは、子どもが「自律」を獲得していくプロセスは、「プライバシー意識」を獲得していくプロセスと密接に関係していることを指摘して、「子ども部屋」という物理環境をコントロールする経験を通じて「自律」が育まれていくのではないかと考えました。







とてもおもしろい本だったので、次回紹介してみようと思います。

ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?


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共同作業によってシンクロする脳

MRIはひとりで測定するものだと思っていたのですが、最近は2人の脳機能を2台のfMRIで同時に測定する実験ができるみたいです。
2個人同時計測MRI研究
それによると、2人で共同作業をしているときに、シンクロして作動する脳部位(右下前頭回)が特定されましたが、ASDをもつひととペアを組むとシンクロが起こらなかったようです。

やはりASDのひとは「共感が苦手」なのでしょうか?


ASDをもつひとは共感が苦手?

共感には認知的共感(CE)と情動的共感(EE)という2種類のシステムがあります。


ASDをもつひとは共感が苦手なことになっていますが、あまり表現しないのでわかりにくいだけで、CEは苦手でもEEはできたりします。

CEできるようになるためには、他者の視点に立って、他者の気持ちを理解することが必要になります。つまり「心の理論(ToM)」のサリー・アン課題です。
サリーアン課題
ASDをもつひとが理解しにくいこの物語を、CE/ToMのくくりではなく、情報を認知して意志決定するまでのプロセスとして考えてみます。


時間情報より空間情報を優先する傾向

サリーの視点に立ってサリーの気持ちを理解するためには、この物語における時間と空間を正しく把握しなくてはなりません。

物語の時間情報として重要なのは、
  1. サリーが去っていなくなる
  2. アンがパンを箱に入れる
という部分です。ASDをもつひとは、この時間の流れよりも「アンがパンを箱に入れた」という空間情報にもとづいてサリーの視点を取得してしまうので、「サリーは箱からパンを取り出そうとする」と考えてしまいがちです。

時間情報は変動しますが、空間情報は固定されているので、ASDをもつひとは後者を優先して認知し、意思決定の根拠にする傾向があります。

また、ASDをもつひとは、昔のイヤな出来事がとつぜん鮮明に思い出されてパニックになってしまう「タイムスリップ現象」が知られていますが、これも時間情報よりも空間情報を優先するためではないかと考えられています。

ここからASDをもつひと(の一部)にみられる、
  • 時間の流れと共にある「聴覚」よりも、空間を把握する「視覚」を優先する
  • 時間的な「見通し」を立てることが苦手
  • まるで高解像度カメラのように詳細な空間把握をする
などの特性が説明できたりします。

つまり、ASDをもつひとも「心の理論」が欠けているために共感できないのではなく、他者を理解するためのプロセスが特徴的であると言えるでしょう。


類は友を呼ぶ/類似性仮説

とすると、他者を理解するためのプロセスが共通しているASDをもつひと同士ならば共感しやすいのではないでしょうか?

教育学博士の米田英嗣は「類似性仮説」を提唱しています。
Perceivers empathize with targets similar to themselves, which facilitates subsequent cognitive processing.


研究では、ASDをもつひとはASDっぽい主人公が登場するエピソードの記憶をスムーズに呼び起こすことがわかりました。

自分と似ている人物に共感することで認知プロセスが促進されて自動的に理解が進んでいくのではないかと。逆に、自分とは異なるタイプの主人公に対しては、認知プロセスが抑制されて分析的に理解しなければならないのではないかと。

似た者同士と違う者同士では、異なる脳部位のシステムを使って理解しているかもしれなくて、似た者同士は素早く認知されて自動的に理解がすすむのではないかというわけです。


一面的な理解から多面的な理解へ

かつて、ASDをもつひとは自己意識(自分と他人を区別すること)が低下しているとか、自己準拠効果(自分にあてはめて記憶すること)がないとされていました。

ASDの理解を深めるためには、ASDと定型発達(TD)との隔たりをいかに見つけていくか、ということも重要なのですが、エスカレートしすぎると一面的な理解と対処法が提示されてしまいがちです。

一方で、発達障害をもつひとの特性とか症状は、環境や状況によって大きな影響を受けてダイナミックに変動するので一面的な理解と対処法は役に立たなかったりします。

類似性仮説によって、ASDをもつひと同士であれば互いに自己意識をもって自己準拠効果を発揮する可能性が示唆されたことは画期的で、ASDの多面的な理解につながるかもしれません。


ピア・サポート/当事者研究の可能性

同じ障害をもって悩んでいる者同士が集まって、自助グループやピア・サポートをするのが効果的なのは、お互いが共感しやすいし、同じ目線から放たれる言葉には説得力があるからです。

過去に弱い立場になったことがあるひとや、身近に障害のある方がいるひとは優れた共感能力を発揮して優秀な援助者になることがあります。

また、最近は優れた当事者研究がたくさん出版されていて、当事者ならではの生々しい記述や独特の視点、障害のとらえ方など、とても勉強になります。

ただ、「当事者だからよくわかる」から「当事者じゃなければわからない」ということになるのは行き過ぎていて、想像力の敗北だと思うのであまり賛成できません。


「類は友を呼ぶ」から「分断」が始まる

ASDをもつひとたちのコミュニティでは「定型発達症候群」という考えがあります。
定型発達症候群
ASDをもつひとにとっては、TDのひとこそが非典型的でヘンだとされたりします。

いったん分割線が引かれて2つの集団が生まれてカテゴリー化されていくと、それぞれが独自の文化をつくるようになります。その結果、異なる集団に対して敵対心を抱くようになるという厄介な習性がみられるようになります。

傷ついたひとたちが集まって自助グループやピア・サポートが組織されて回復のキッカケになることはすばらしいことだと思うのですが、均質な集団はしばしば外部に対して攻撃的になってしまいます。

「当事者のことがわかるオレ、最強!」ということで、やたらと無茶な要求をしてくる自助グループのひとがいて困ることがあったりします。でも、最もタチが悪いのは、自分は安全なポジションで高みの見物をしながら、分断を煽っておもしろがってるひとなのですが。

それはさておき、ここから先は「異なるタイプのひと
同士の間で、いかに共感と理解が可能になるか」ということが問題になってくるので、いろいろ調べていきたいと思います。


俯瞰の過剰がまねく4つの問題


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灯台もと暗し

俯瞰の過剰がまねく4つの問題

「過剰な共感」は、対象との距離が近すぎてしまうことによって生じ、様々なデメリットを引き寄せます。

なので、対象との距離をとって状況を俯瞰して見ることによって、冷静かつ客観的に状況をとらえ、問題を整理し、見通しを立てることができるようになる、というメリットがあります。

ところが、「灯台もと暗し」という言葉の通り、過剰な俯瞰もまた様々なデメリットを引き寄せてしまうことを、とある奇妙な講演会を通じて考えました。

僕自身その傾向があるかもしれないので自戒をこめてまとめてみました。


① ナイーブな因果律を信じ過ぎてしまう

俯瞰してモノゴトを考えていると、たいていナイーブな因果律を信じるところに落ち着いてしまいます。そっちの方が楽だからでしょうか。

「ASDをもつひとは▲▲▲だから■■■すべき、そうすれば《良い結果》になる」みたいな。

さらに、

「必ず《良い結果》になるんだから、なにがなんでも■■■すべし!」

という独善からの、

「■■■したのに《悪い結果》になったのはオマエラのせいだ!」

という被害妄想にまで発展することさえあります。

しかし実際は、■■■の成否は現場の状況など様々な要素に左右されます。■■■したところで《悪い結果》になったりもするし、■■■しなくても《良い結果》になったりします。

実際の臨床現場は、素朴な因果律ではなくカオスに支配されているからです。

とくに発達障害はバリエーションが大きいので、理論を参照枠としながらも、現場で試行錯誤を繰り返して修正していく「工学的思考」が必要だったりします。


② 観察対象に与える影響を見落とす

いくら俯瞰していても、観察対象が人間である以上、純粋な観察は不可能です。観察すればするほど観察者は観察対象に影響を与えてしまいます。

極端な例だと、職場の上司との関係で悩むASDをもつ会社員に対して、ASDの研究者が「現在の職場はASDの特性にとって不適切なので、管理者は合理的配慮を行う必要がある」という意見書を作成しました。

そうすると、ASDをもつ会社員が意見書をふりかざして上司を責めたてるようになったため、今度はその上司がメンタルに不調をきたして精神科医に相談するようになった、という事例があったりします。

ASDの研究者は、情報収集によって職場の状況を把握しないまま持論を押しつけました。それによって、ASDをもつ会社員が攻撃的になってしまったのです。

観察者が自身の与える影響を自覚していないと、かえって事態が悪化してしまうことがあるので注意が必要です。

というのも、観察者のナイーブな因果律は、観察対象に影響を与え、新しい現実をつくりだします。それは時に、はなはだやっかいな現実だったりすることがあります。

このような現象を、社会学者アンソニー・ギデンズは「再帰性」と呼びました。ひと昔前の心理学ブームにおける過剰な再帰性については、斎藤環が「心理学化する社会」という本に書いています。


③ 個人の多様な可能性を見落とす

精神科の臨床をやっていると、とんでもなく重症のひとが急に回復して活き活きとするようになったり、長いあいだ(失礼ですが)廃人のような生活を送っていたひとが劇的に改善して驚かされることがあります。

薬が効いたとか、心理療法が効いたとか、そういった治療者の手柄ではなく、たまたま状況が変わったら良くなった、ということが多々あります。

特に、子どもは単に「成長する」ことで問題を乗り越えることができるようになったりするので、とてもエキサイティングです。

俯瞰することによって得られる硬直した理論は、そのような個人の多様な可能性を見落としてしまうリスクがあります。

信頼できるスタッフや同業者に相談したり、自分自身で点検することによって、定期的に診たてや治療方針を疑ったり、見直したり、再設定していく必要があります。


④ 多重化する俯瞰

「奇妙な講演会」でみられたように、俯瞰することはしばしば多重化していきます。

現実的な問題を解決することが目的であるハズなのに、いつの間にか俯瞰すること自体が目的になってしまいます。そして、俯瞰を繰り返すことによって、いつのまにか現実的な問題からますます遠ざかってしまいます。

ところが、生物学的に発達障害の原理が解明されない限り、いくら俯瞰をくり返してもキリがありません。

その結果、観察者は「現場のことを何もわからない・何もできないシニカルなひと」になってしまいます。


共感と俯瞰のあいだで

ASDをもつひとはベタベタした感情のもつれ合いが苦手なので、なるべく生身の自分をオモテに出さず、俯瞰するポジションをとることは、とりあえず効果的な対処行動だったりします。

俯瞰することによって得られた理論に固執して正当性を主張するのではなく、「しょせんこの世はカオスだからワケわかんないよ」という一種の脱力感をもちあわせることによって、ちょうどよいバランスがとれるようになるのではないかと思います。

治療者側がそのような姿勢で診療に臨むことによって、患者さん側にも良い影響が与えられるのではないかと考えています。

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