イノセンスはヒーローの条件でありカルトの源泉である


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「愛の民族」 タサダイ族

1971年、フィリピンのミンダナオ島で世紀のスクープがありました。文明から隔絶された26人の裸族が発見されました。彼らは敵意や憎しみを表す言葉のない「独自の言語」をあやつり、競争・所有・攻撃・物欲という概念を知らない「愛の民族」だったのです。
タサダイ族
文化人やジャーナリストが飛びついてメディアを席巻し、彼らの生き方は西欧文明や資本主義に対するアンチテーゼとして称賛され、世界中から莫大な寄付金が集まり、社会学の入門書にも記述されベストセラーとなったそうです。

ところで、当時のフィリピンはマルコス大統領による独裁政権下にありました。政府は彼等の居住区を保護区として封鎖しました。


「愛の民族」の真相

1986年、マルコス政権が崩壊してからタサダイ族の真相が明らかになりました。なんとTシャツとジーパンを着て、タバコをふかし、バイクにまたがる彼らの姿が撮影されたのです。
バイクに乗るタサダイ族
環境大臣エリザルデのプロデュースで裸族のフリをしていたと告白する者が現れるにいたり、世紀のスクープは世紀の捏造事件となり、社会学の入門書からタサダイ族についての記述は完全に削除されました。

ちなみに、仕掛け人のエリザルデは12億円と25人の少女をつれて国外逃亡し、麻薬におぼれて死亡したとかなんとか。

「愛の民族」という偽装されたイノセンスを演じる「タサダイ族」をとりまく、独裁政権+浅はかな文化人+軽薄なメディアという三位一体の共犯構造がみてとれます。

時代は違えど、このような構造は今もあちこちで観察することができます。

オルタナティブなシステムで動くヒーロー

タサダイ族が発見された1970年代は、2度にわたる世界大戦からの冷戦突入というドンづまり状況から、ヒッピー文化など近代文明に反対するムーブメントが盛り上がった時期でした。

そのお祭り騒ぎのなかで神輿にかつがれたのはイノセンスなヒーローたちです。つまり、近代文明とは別の原理とかシステムによって価値判断したり行動する者。

たとえば、原始人、未開人、子ども、動物、そして分裂病/統合失調症。


昔から人文科学においても、繰り返しヒーローの概念が登場し、閉塞した近代を批判するためのツールになったり、近代を突破する力として期待されたりしていました。
  • 超人@ニーチェ 
  • 高貴な野蛮人@ルソー 
  • 野生人@レヴィ=ストロース 
  • ノマド@ドゥルーズ&ガタリ 
  • スキゾ@浅田彰
そして、その系譜は高い開放性をもつ中心気質のヒーロー像につながっていきます。


社会にまみれた汚い大人たちと違って、純粋な魂をもった子どもたち。あるいは、肉体・知能・精神にハンディキャップを背負っているからこそ「イノセンス」に裏打ちされた超人性を獲得しているという逆説。これらの要素はヒーローの条件として欠かせません。


イノセンスはカルトの源泉だから悪徳と結びつきやすい

このように、イノセンスは社会的な価値をおびて利用価値が高まることがあります。古くは猿回しに始まって、数々の中心気質的なヒーローやアイドルを生み出し、最近では某不登校の小学生youtuberとか。

アニメの世界はともかく現実の世界では、イノセンスなヒーローの周辺には悪い大人たちが群がり、時にイノセンスは偽装されて商品として流通するようになります。

なので、イノセンス自体に罪はありませんが、それを利用する悪い大人によるイノセンス・マーケティングにはだまされないようにした方がよかったりします。


パパラギと観光客

とはいえ、イノセンスそのものはとても重要なものです。別の角度から自分の常識を見直したり、別の視点を手に入れることで、現状を多角的に分析できたりして学ぶべきもの多かったりします。

たとえばこの「パパラギ」という本。南国サモアの酋長が西欧文明に喝を入れるというもので、ヒッピー・ムーブメントにのっかってカルト的な人気を博しました。
これも実はドイツの作家が捏造したフィクションです。豊かな南国は飢え死にしないから文明なくてもいいかもね、というツッコミはさておき、ところどころ考えさせる言葉や色あせない魅力があったりして、学ぶものが多かったりします。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
「これが人生の真理である」と夢をみて、南国の住人になってしまうのではなくて、南国に刹那的なあこがれをもって旅行して「世界にはこんな社会もあるんだな」と思いを馳せてみたり、「もしも自分がここで生まれていたらどんな人生を送ったのだろうか」と別の世界線をつかのま想像してみたりする観光客でありたいなと思う今日このごろです。

かつて神聖な病とされていた統合失調症


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今ではとうてい考えられませんが、ひと昔前、一部の人たちの間では、統合失調症という病気は神聖な病であると考えられていました。

シグナリング・コストとしての分裂病/統合失調症

エキセントリックでサイケデリックなサブカルチャーだけでなく、精神疾患や精神病理学や精神分析も「高い開放性」のシグナリング・コストとして消費されるようになりました。

精神疾患のなかでも統合失調症は、急性期の病状において異様な言動がみられることがあるので、特にシグナリング・コストが高く、ナゾめいた病としてもてはやされました。

「高い開放性」をディスプレイするための「ファッショナブルな狂気」である統合失調症の魅力に精神科医たちが飛びついて、神格化されていくことになります。

統合失調症は神聖な病か?


このへんの歴史的経緯について、この雑誌の巻頭グラビアにも登場するオトコマエな精神病理学者である松本卓也が明快に解説をしています。

1920年代、(のちに哲学者になった)精神科医ヤスパースは、統合失調症のことを「真理なき時代、真理に到達できる唯一の人間」と称揚しました。

次に、精神病理学のなかでも特にややこしい現存在分析というジャンルをやっていたビンスワンガーやブランケンブルグらは、統合失調症のなかに「人間の現存在の世界のなかへの住まいかたの真理」をみていました。

1960年代、少し遅れて日本でも木村敏、中井久夫、宮本忠雄ら精神病理学者によって「分裂病中心主義」が始まりました。

1990年代にはサブカルチャーを語る精神科医として斎藤環が登場し、デヴィッド・リンチなどシグナリング・コストの高い作家と統合失調症の関連について取り上げていました。

このように統合失調症は、ねちっこく研究対象にされて「人間の本質を示す特権的な狂気」として祭り上げられ、精神科医だけでなく文化人たちもそれに便乗することで、臨床と人文知の共通言語となりました。

このトレンドは、内海健「分裂病の消滅」が出版された2003年ころまで続きました。

ポスト分裂病時代の精神科医

ちなみに、ぼくが精神科医になったのがちょうど2003年で、その前年ちょうど臨床実習やってたころに分裂病から統合失調症に呼称変更がありました。

さらに、翌2004年には「発達障害支援法」が成立して、精神科医療において発達障害を重視するトレンドが始まりました。

今思えば、とても大きな節目の時期だったわけです。

分裂病/統合失調症に興味をもって精神科医になったのに「え?消滅したの?もう終わり?」って衝撃を受けたのを覚えています。その頃は、疾患単位としての分裂病/統合失調症と、人文知の共通言語(メタファー)としての「分裂病」を混同していたようです。

人文知の共通言語/メタファー/シグナリング・コストとしての統合失調症は、実際の医療とはほとんど関係ありません。ですが、両者があたかも関連があるかのような夢というか幻想が共有されていた時期がありました。

ぼくが精神科医になったとき、ちょうどその幻想が黄昏を迎えていたんだなと、しみじみ思う今日このごろです。


哲学者と精神科医がロックスターだった時代


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ロックな狂気

ぼくは学生時代からロックと精神医学に興味があったので、両者の関連についてヒマなときにボンヤリと考えていました。どちらにも「狂気」への憧れという共通点があるのではないか、などなど。

フジロック・フェスティバルと精神病理学会はぼくにとっては同じように楽しいイベントでした。タイムテーブルが定められていて、興味のあるアーティスト/精神科医の発表を観ることができるからです。

フジロック・フェスティバルは今でこそ洗練されてオシャレになって子ども連れでも安心して参加できるイベントになりましたが、昔はただならぬ異様な雰囲気がありました。

精神病理学会も今ではすっかり穏やかな学会になりましたが、昔はシンポジウムで唐突に大声で叫びだす先生がいたりしておもしろかったわけです。


ロックな狂気とは

  1. 思春期を迎えたロック少年は、全身の毛が逆立つような言葉にできない興奮を覚え、いまにも呑み込まれそうなその狂気に、ほんの一瞬ためらいながらも覚悟を決めて、その身をゆだねてぶっ飛んだ。

  2. ロックはかつて破壊神として降臨し、既成概念をぶっ壊し、ありとあらゆるユートピアを幻視させた。

  3. ロックの魅力に様々な進歩的文化人たちが便乗し、保守的な大人たちに反撃するツールとして利用された。

  4. ロックの破壊力は、硬直化した社会でこそ本領を発揮したものの、社会の価値観が多様化した途端に減衰し、ロックな狂気は「軽症化」した。
①思春期に発症し、②圧倒的なインパクトがあって、③文化人たちを魅了し、④近年軽症化している、ということで、ロックな狂気は統合失調症に関連していると思うわけです。

どちらも、若者にとって重要な特性である「高い開放性」をディスプレイすることができるという共通項があります。


哲学者と精神科医がロックスターだった時代

リゾームになり、根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ、決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい。短い観念を持て、地図を作れ、そして写真も素描も作るな! ピンクパンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。

このイカした文章は、哲学者と精神科医による共著の文章です。まるで日本の伝説的なロックバンド、ミッシェル・ガン・エレファントの歌詞みたいです。

攻撃的な曲の次に、恥ずかしげもなくドヤ顔で甘いバラードを演奏しはじめるロックバンドのように、次の文章を紹介します。
身体が全く鳴りを潜め、この奇妙な静けさを背景とする知覚過敏(外界のこの世ならぬ美しさ、深さ、色の強さ)、特に聴覚過敏、超限的記憶力増大感(読んだ本の内容が表紙を見ただけでほとんど全面的に想起できる確実感)と共に、抵抗を全く伴わず、しかも能動感を全く欠いた思路の無限延長、無限分岐、彷徨とを特徴とする一時期がある

日本の伝説的な精神科医である中井久夫の美しい文章です。

今ではまったく想像もつきませんが、1970年代は、哲学者と精神科医がロックスターだった時期があったそうです。 

ロックスターの魅力は「高い開放性」であり、高い開放性をディスプレイするにはそれなりのシグナリング・コストを支払わなければなりません。精神病理学とか統合失調症(当時は精神分裂病)はシグナリング・コストとして消費されるようになりました。

つまり、ロックと精神科という全く異なるジャンルを「高い開放性」をディスプレイするシグナリング・コストが媒介するわけです。


精神病理学の黄昏

精神病理学は統合失調症の異様な言動を詳細に記述して、独特で難解な解釈をちりばめました。患者さんの言動が異様であればあるほど、理論が難解であればあるほど、極端でぶっ飛んでいればいるほど歓迎されました。

そして、一部の精神科医は(ぼくをふくめ)精神病理学の知的曲芸に魅了されていくことになります。そして、実践にほとんど役に立たない屁理屈をもてあそぶ自己満足集団として、一般の精神科医にはほとんど相手にされないジャンルになりつつあります。

精神病理学者はディスプレイに失敗しているといえますが、役に立たなそうなものほど意外と役に立つこともあったりするので、これからも精神病理学の可能性を生あたたかく見守りたいなあと思う今日このごろです。

ファッショナブルな狂気


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先日、「マックイーン・モードの反逆児」というドキュメンタリー映画を観に行きました。もともと中心気質の天才ということで興味があったからです。



庶民的な家庭に生まれ、天真爛漫でかざらない性格で、大成功して上流階級の仲間入りをしても誰にもこびないカジュアルなスタイルを貫き通したことが知られています。


Alexander McQUEEN

ALEXANDER McQUEEN
このパッと見フツーのおじさんっぽいひとが、イギリスの天才的なファッションデザイナー「リー・アレキサンダー・マックイーン」そのひとです。

その外見からは想像もつかないような素晴らしいデザインを生み出しました。
ALEXANDER McQUEEN2008
若くして頭角を現し、型破りでセンセーショナルな手法で時代の寵児となりました。20代でロンドン・コレクションに参加し、GIVENCHYの主任デザイナーやGUCCIのクリエイティブ・ディレクターを歴任し、自身のブランド「ALEXANDER McQUEEN」を立ち上げ、パリ・コレクションに参加、デヴィッド・ボウイ、ビョーク、レディー・ガガの衣装をプロデュースするなど精力的に活動し、数々の独創的な作品や衝撃的な演出を生み出しました。


矛盾が矛盾なく同居すれば迫力になる

マックイーンは、名門店が集まるサヴィル・ロウ通りの高級紳士服店で見習いを始め、伝統的なオートクチュールに前衛的なパンクの要素を融合させる斬新なスタイルを確立させました。

彼の作風は、優雅さや繊細さとともに死・暴力・動物性・虚無感など人間のダークサイドが折り込まれることが特徴です。

そのような矛盾が矛盾なく作品のなかに同居することによって、独特の迫力を生み出しています。
ALEXANDER McQUEEN SKULL
では当たり前になったドクロのモチーフを流行させたのはマックイーンであるという説があります。

しかし、自身の内に矛盾を抱え込むことはとても過酷なことだったのかもしれません。彼は富と名声の絶頂期にありながらも、次第に酒やドラッグにおぼれるようになり、40歳の若さで自らの命を絶ちました。


ファッショナブルな狂気

2001年にマックイーンは、精神病院をモチーフにした衝撃的なコレクションを開催しています。
ALEXANDERMCQUEEN_ VOSS
時代の最先端を表現する若きファッションデザイナーが、文字通り「狂気」をファッションとして身にまとう方法を採用していた事実がとても興味深いと思う今日このごろです。

前に紹介したジェフリー・ミラーの仮説「精神疾患や精神病理がシグナリング・コストとして機能すること」を体現しているからです。


詳しくは下記を参考にしてください。

若者にとって重要な特性である「高い開放性」をディスプレイするには、それなりのシグナリング・コストを支払わなければならないという話。


また、エキセントリックでサイケデリックなサブカルチャーと同様に、精神疾患や精神病理学もシグナリング・コストとして消費されるようになったという話。



マックイーン:モードの反逆児 [Blu-ray]
リー・アレキサンダー・マックイーン
Happinet
2019-09-03


統合失調症の集団分裂促進仮説


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これまでは、統合失調症の適応的な側面についていろいろまとめてきました。






このへんは基本的に個体レベルの能力にまつわる話でしたが、今回は社会=集団レベルの能力についてまとめていきます。

つまり、統合失調症の傾向をもつひとが出現することは、ある社会=集団にとって、どのように作用するのかという問題です。


精神疾患と社会性とSST

精神疾患の症状として「社会性の障害」というものがあります。特に、統合失調症や自閉スペクトラム症/ASDにおいて顕著であるとされています。

あまりにも軽く「社会性の障害」が取り扱われていますが、これはけっこう深い問題なので少し掘り下げていく必要があります。

そもそも、精神疾患にかかると多かれ少なかれ社会性がなくなります。精神疾患の国際的な診断基準では「社会的機能の障害」が必須条件になっているわけです。

逆にいうと、どれだけ激しい精神症状があったとしても、社会的に問題なければ精神疾患とは診断されません。

なので、精神科治療の一貫として「訓練によって社会性を身につけていきましょう」というSST/ソーシャルスキルトレーニングなるものがあります。まずは、あいさつから始めて、みんなと足並みをそろえていきましょうということです。

「足りないものを補う」ってことで、すごくわかりやすくてスジが通っていますし、一定の治療効果はあるようですが、なんというか、目が見えないひとに一生懸命ものを見る訓練をさせているような滑稽さを禁じえません。


戦略としての“ひきこもり”

一方で、社会性の障害があるひとたちが困難な社会的状況に直面すると、それに対処するために“ひきこもり戦略”をとる傾向があります。
 
社会性がなくても個人として生きていける環境が整っている場合は、そこそこ有効な戦略だったりします。

社会性を身につけて集団に所属することは、大きな安心感が得られる反面、所属集団のメンバーから愛されているか嫌われているか、集団における地位が高いか低いか、などなど別の悩みがつきまといます。

それが耐えがたいひとたちは、社会に背を向けて自らが作り上げた世界で生きていこうとするわけです。


愛着とランクの障害 or スペーシング障害

StevensとPriceは進化精神医学にもとづいて、精神疾患についておもしろい理解の仕方を提案しています。

進化の過程でそなわった特性が誤作動した結果として精神疾患を理解しましょうという観点です。

進化精神医学分類図式
うつ病や躁うつ病などの気分障害は、集団のメンバー(インサイダー)として、愛されているか否か/地位が高いか低いか、など「愛着とランク」をめぐる競争と関係しています。

統合失調症や自閉スペクトラム症/ASDは、集団から排除される(アウトサイダー)として、人間関係をつくることや社会集団の一員としてやっていくことに関係している「スペーシング障害」としてひとくくりにされています。

スペーシング障害をもつひとは社会のメインストリームにはなじめないので、その外部に一定の居場所を見い出して生きていくことになります。


フリーライダー/裏切り者をひきずりだせ

スペーシング障害をもつひとは、ひきこもっているわりには社会を憂う傾向があります。やたらと政治経済や社会情勢に詳しかったり、公共心が高かったり、時には政治に物申したりして驚かされます。

生身の社会性が乏しい反面、ある種の社会性は過剰であるというアンバランスさが特徴的です。

また、スペーシング障害をもつひとは、他人に利用されたりダマされたりすることを極度に嫌がるし、他人のウソを見抜くことが得意だったりします。

この特性がエスカレートしすぎて被害妄想に発展してしまうほどに。

これは、統合失調症をもつひとが催眠にかかりにくかったり、SSTを受けると詐欺にひっかかりやすくなったりすることと関係しているかもしれません。

とくに、集団においてコストを払わずに利益だけを得ようとする「フリーライダー」や、味方のふりして敵対集団に利益をもたらしている「裏切り者」に対して、とても敏感で厳しい態度をとる傾向があります。

メディアでバッシングや炎上が過熱する現象です。自分には直接メリットはないのにもかかわらず、いくらコストをかけてでも敵を攻撃することになみなみならぬ情熱を傾けたりします。


妄想はカリスマをつくる

さらに、スペーシング障害をもつ人たちは極端にかたよった考え方を発展させて妄想を抱く傾向があります。

孤立無援の状態であるのにも関わらず、自分には特別な能力や地位があるという幻想を抱くと同時に、他の集団をネガティブにとらえて敵意を抱くようになることがあります。

スペーシング障害をもつ大多数のひとは、妄想をもっていても個人で完結します。せいぜいネットに書き込むくらいで済みますが、言語能力と表現力に優れたひとの妄想は「とんがった思想」として多くの人をひきつけるようになることがあります。

ともすれば、カリスマ的なリーダーとなってフォロワーを引き連れて新しい集団をつくることができるようになるでしょう。


統合失調症の集団分裂促進仮説

StevensとPriceは、「愛着とランクの障害」である気分障害が「個体レベルの競争」に関係していることに対して、「スペーシング障害」である統合失調症が「集団レベルの競争」に関係している可能性を指摘しています。

フリーライダーや裏切り者の割合が多い集団は、他の集団との競争に負けてしまう可能性が高まります。なので、フリーライダーや裏切り者をあぶりだして集団に身を捧げる個体の割合を高め、集団レベルの競争に勝ち抜いていく必要があります。

そのためには、集団が大きくなってフリーライダーや裏切り者の数が増えてくる前に、カリスマ的なリーダーが登場して支配者側の方針に反対し、集団を分裂させなくてはなりません。

そのような役割を担って集団の分裂を促進するために、スペーシング障害をもつひとたちが集団内に一定の割合で出現するようになっているのかもしれません。

このように、StevensとPriceは「統合失調症の集団分裂促進仮説」を提唱しています。


個人の利益と社会の利益は相反する

スペーシング障害は集団レベルの競争において有益な特性だとしても、個体にとってはリスクの高い特性だったりします。社会に背を向けて孤立することで生存率が低下するし、統合失調症を発症する可能性も高まるでしょう。

まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」といったところでしょうか。

ただし、才能に恵まれていったんカリスマ性を身につければ一挙に適応度は高まり、集団による称賛と支持によって精神疾患の発症から守られることになるでしょう。

しかしながら、大多数のひとはこうした成功とは無縁なわけなので、スペーシング障害とどのように向き合っていくべきなのでしょうか?

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