ひきこもり自立支援施設ってどうなの?


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前回からの続きです。


今回は民間業者が運営するひきこもりのひとを自立させる施設について考えてみます。

とそのまえに、ひきこもり支援の概要についてみてみましょう。


ひきこもり支援の3ステップ

厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」によると、ひきこもりの支援は大きくわけて3段階のステップとなっています。
  1. 家族の支援
  2. 本人の支援
  3. 集団への参加
ざっくり説明すると、、、

1.家族の支援
ひきこもりの支援は家族からの相談を受けることから始まります。本人はひきこもっていて出てこないからです。この「家族の支援」が1番肝心なところで、ひきこもりの問題は本人だけではなく家族を巻き込んでいくので、家族自身も消耗・疲弊していてケアが必要になっていることがよくあるわけです。なので、まずは家族が元気になってもらって、本人との関係を調整していくことから始めていきます。

2.本人の支援
支援者が家族を介して本人に間接的にアプローチすることができるようになれば、徐々に変化がみられるようになります。本人が来院なり通所するようになれば、もうかなり状況は改善しているといえるので、あとひと息です。支援者が本人へ直接アプローチすることができるようになれば、変化はより促進されます。

3.集団への参加
最終段階として、いよいよ集団へ参加します。ここまで到達できればほとんど目標達成といえます。適切な環境さえ提供できれば、同じ境遇の仲間と接して共に時間を過ごすだけで、かなりの改善効果が見込まれます。しょせん親や支援者の立場にいると本当の意味での交流はできないし、仲間にはなれないからです。


ひきこもり自立支援施設の強み

さて、問題になっている業者は、ひきこもりの自立支援のために共同生活をする施設/寮をもっていて、強引に入所させるところから支援が始まる場合があるようです。

つまり、1と2のプロセスをすっ飛ばして、いきなり3の最終段階からスタートすることができるわけです。

倫理的な観点を無視して、純粋に支援の効率だけを考えれば、これはかなり有利であると考えざるを得ません。1と2はかなり時間と労力のかかる地道なプロセスだからです。

昔から戸塚ヨットスクールはじめ、さまざまな若者の自立支援施設が(一時的であるにせよ)注目されて人気を博すことがあるのは、共同生活による改善効果が絶大だからでしょう。
  
ではなぜ、このような民間の自立支援施設がさまざまなトラブルを起こしたりして長続きしないのでしょうか?


自立支援施設でトラブルが多いワケ

原因のひとつとして考えられるのは、統合失調症などの深刻な精神疾患を抱えるひとを対象にしている可能性です。

民間の自立支援施設は、共同生活の場という強みをもっていますが、残念ながら精神科医療のシステムがないので、精神疾患のあるケースを適切にケアすることができません。民間業者と違って、医療はリソースがとても潤沢なので人員や設備が充実しています。

また、統合失調症などの精神病は、病気の時期によっては共同生活と相性が悪かったり、自立を促進するはたらきかけが病状の悪化をまねくことがあります。

そもそも、本来は精神科医療で対応すべき精神病をもつひとを民間業者が相手にしているのはおかしな話です。これは、以前の記事で指摘したように、ひきこもりと精神科医療のねじれが関係しているかもしれません。



そもそも、ひきこもりの定義からしてねじれているので、ひきこもりの権威である精神科医の斎藤環が精神病以外のひとを支援の対象とする一方で、資格のない民間業者が精神病のひとを支援の対象としているという「ねじれ」が生じています。


自立支援施設と精神科病院のむすびつき

なので、最近の民間業者は精神科病院と連携してこれを補完しようとしているようです。そうすることによって、自立支援施設で対応できないほど精神状態が悪化した場合は、専門機関へ治療やケアを任せることができるからです。

これはいちおう理にかなっていることのように思えます。

しかし、ニュースによると、ひきこもりの自立支援施設の入所を拒否したために精神科病院へ強制入院/医療保護入院になった方が処遇が不当であったとして、病院側に対して損害賠償請求訴訟を起こし、病院の医師を刑事告訴しています。


原告側は治療のためではなく「見せしめ」のために精神科病院へ入院させられたと主張しています。

まだ事実関係が明らかになっていないのでなんともいえませんが、はたして連携している精神科病院は悪徳業者の片棒をかつぐ悪徳病院なのでしょうか?

争点は、病院受診時に原告がどのような精神状態だったのか、医療保護入院の要件を満たしていたのかどうか、になるでしょう。

というわけで次回は、ひきこもりと医療保護入院についてまとめていきます。

引き出し屋と移送制度(精神保健福祉法第34条)について


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前回の続きです。
今回は、引き出し屋について考えてみます。

引き出し屋とは、ひきこもりのひとを部屋からムリヤリ引きずり出して、自分たちが運営する“自立のための施設”へ強制的に連れて行く業者で、さまざまな事故やトラブルを起こして問題になっています。


まず前提として確認したいことは、、、

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A 統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B 長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C 長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

とくにAとBでは全く対応が異なるのですが、適切な精神科診断がなされないまま、ABCがぜんぶいっしょくたになったまま、曖昧になんとなく対応されているという現状があります。


昔からあった“引き出し屋”

最近のニュースでは、BあるいはCのケースがいわゆる「引き出し屋」によって強引に移送された、と認識されていますが、そのなかにはAのケースが含まれている可能性があるわけです。

で、そもそも昔から移送業者はAのケースを移送していました。

Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることがあって、自分から治療を受ける可能性が低くなるため、場合によっては強制的な治療が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクが意外と高かったりするからです。

その昔は、精神科病院から精神科医が直接患者宅へ往診して、場合によっては鎮静剤を注射して眠らせてむりやり病院へ搬送していたそうですが、さすがに人権的に問題があるということでなくなりました。

なので、病院まで患者さんを連れて行かないと、基本的に病院側はなにもしてくれなくなりました。

家族の力が強かった時代なら、家族総出で患者さんを病院まで連れて行くことができたでしょうが、家族の力がどんどん弱くなっている現代ではなかなかできることではありません。

代替手段として、高額な料金を支払ってでも移送業者に依頼する家族が増えてきたのは自然な流れなわけです。


移送制度(精神保健福祉法第34条)の問題

これはさすがに問題だということで、1999年に精神保健福祉法が改正され、公的機関(都道府県および政令指定都市)が必要に応じて要件を満たす患者さんを精神科病院まで移送する制度が創設されました(精神保健福祉法第34条)。 

つまり、移送は役所の仕事になったわけです。
移送制度の流れ
で、実際の運用状況は、、、
移送制度の地域格差
このように、めちゃくちゃな地域差があって、まともに運用されているとは到底考えられません。

ぼくも訪問診療をしていた重症の統合失調症をもつひとで移送制度を使おうとしたことがありますが、相談から事前調査を開始するだけでさえ、めちゃくちゃ時間がかかって困りました。そもそも移送をしないといけないケースは時間的余裕なんてないわけです。

で、結局は3ヶ月以上も待たされたあげく、なんの理由も説明してくれないまま却下された苦い経験があります。

あまりにもひどい対応だったのであきれてしまいましたが、関係者によるとずーっと運用した前例がないので仕方ない、という事情を聞いて納得しました。つまり、せっかく創設された移送制度はほとんど機能していないのです。

建前として法令は定められているんだけど、実際には運用されていないという矛盾、そしてそのつじつまを合わせるように民間の移送業者が活躍している現状という、とてもゆがんだ構造になっているわけです。


移送業者が悪なのか?移送制度そのものが悪なのか?

というわけで、役所ですらイヤがる仕事を請け負う民間業者はめちゃくちゃ特殊でしょうし、当然のことながら料金は高くなってしまうでしょう。

最近のニュースをみていると、批判のターゲットは民間の移送業者なのですが、なぜか「移送」そのものが悪であるという論調が目につきます。

もちろん、移送がなくても困らない世界が早くやってくればいいのになぁ〜、とボンヤリ考えたりはします。日本が今よりもめちゃくちゃ豊かになって、自由かつ平等で寛容な社会になればあるいは可能かもしれません。

とはいえ、現実的には移送制度は法令で定めなければならないくらいニーズが高いわけです。ケースによってはどうしても移送が必要であることくらい、ある程度の実務経験を積めばわかることなのですが、どうしても極端に偏った発言の方がメディアではウケるので目立ってしまいます。

むしろ、正規の移送制度がちゃんと機能するようにシステムを整備してリソースを投入すれば、民間の移送業者が活躍しにくくなるし、不幸な事故も減る可能性が高いので、そっちの方向で議論する余地はあるでしょう。 


まとめると、
  • 移送制度そのものが悪である▶理想論
  • 移送制度が機能しないから民間業者が担う▶現状
  • 移送制度を法令に基づいて適切に運用する▶私見

ともかく、正義感に酔って叩きやすい民間の移送業者を批判してスッキリするという安っぽい週刊誌的なノリでお祭り騒ぎをしたところで、このゆがんだ構造が変わるわけではありません。

悪質な業者が倫理的に問題あるのは当然ですが、倫理的観点だけではなくシステム的観点からこの問題を考えていく必要があると思う今日このごろです。

次回は、ひきこもりのひとを自立させるという民間業者の施設について、考えてみたいと思います。


ひきこもりと精神科医療のねじれた関係について


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ライジングサン

あけましておめでとうございます。2019年はひきこもり関連のニュースがメディアで多くとりあげられていました。ぼくもひきこもりのケースに関わることが多かったり、ひきこもりの支援者向けに講演をすることがあるので、これを機会にまとめてみようと思います。

ひきこもりの権威である精神科医の斎藤環は、ひきこもりのひとを強制的に処遇する業者を痛烈批判しています。また、そのような業者と連携している精神科病院/成仁病院の精神科医は「犯罪者」であり、資格を剥奪されるべきであると言っちゃうくらいヒートアップしています。
斎藤環による成仁病院の精神保健指定医批判
ネットメディアでは、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端な構図になっているようですが、当然のことながら事態はそれほど単純ではありません。

というわけで、まずはひきこもりの定義をみてみましょう。


ひきこもりの定義

厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」による、ひきこもりの定義です。
  1. 長期間(6ヶ月以上)社会参加をしていない
  2. 精神病が直接の原因ではない
1の社会参加とは、就業・就学のほかに、趣味的な交遊もふくまれます。つまり「友だちのいないニート」です。

問題は2です。統合失調症などの病状によっては、ひきこもりの状態になってしまうことがあります。そもそも「社会的ひきこもり」は統合失調症の症状のひとつがオリジナルです。

つまり、「統合失調症などの精神病によってひきこもりの状態にあるひとは“ひきこもり”ではない」という「ねじれ」があります。統合失調症のイチ症状がオリジナルよりも有名になってしまっているわけです。

とはいえ実際問題として、統合失調症をひきこもりから除外できているかといえば、あまりできていないのです。


ひきこもりのなかの統合失調症

内閣府・ひきこもり新ガイドラインについて(講演録)/齊藤万比古[PDF]によると、ひきこもりの相談窓口を訪れる人たちの中に10%弱くらい、診断・治療をされていない統合失調症が含まれていることが指摘されています。ぼく自身の臨床経験でもそのくらいの割合が妥当であると実感しています。

統合失調症などの精神病にかかっているとひきこもりの状態になってしまうし、そのまま放置していたらさまざまなリスクが生じるので、早急に薬物療法はじめ医療による手当てが必要になるわけです。

ひきこもりの中には約10%統合失調症のひとが含まれていて、診断がついて治療を導入すれば比較的すみやかに回復するという事実があります。これは、精神科救急などの実務をやっている精神科医にとっては常識なのですが、世間では意外と知られていなかったりします。

医療福祉関係者でさえ、ひきこもりと統合失調症の関係について説明するとビックリされることがあります。「え?クスリで治ることもあるんですか!?」と。

ひきこもりの定義では、あらかじめ統合失調症のひとは除外されているので、まるで存在しないことにされてしまっているかのようです。

統合失調症は軽症化しているからそのうち無くなるんじゃないの?って、のんきなことを言う精神科医が多くなりましたが、そんなに急激に精神疾患の概念が変化するわけありません。軽症のケースばかりをみている精神科医と、救急で重症なケースをみている精神科医とでは、かなり温度差があったりします。


精神科医がひきこもりに関わるべきたったひとつの理由

その一方で、さらにややこしいことに、逆にもともと精神面が健全であっても、長期間ひきこもりの状態でいると、精神状態に不調をきたすことがあります。


もともとなのか、二次的なものなのか、にわかにはわかりにくい状態はあるのですが、生活の歴史をひもといて情報収集すれば、経験を積んだ精神科医であればだいたい判別できたりします。

精神科医療の観点からまとめると、ひきこもりという枠にくくられているひとのなかには、ざっくり分けて3種類のパターンがあります。

 A  統合失調症などの精神病によって、ひきこもっているひと
 B  長期間のひきこもりの結果、精神状態が悪化しているひと
 C  長期間ひきこもっていても、精神状態が健全なひと

まず、Aは完全に精神科医療マターなので、精神科医療でなんとかしないといけません。Aのケース、たとえば統合失調症などの精神病で病状が悪くなると、いわゆる「自分が病気であるという感覚=病識」がなくなることがあって、自分から治療を受ける可能性が低くなるため、場合によっては強制的な治療が必要だったりします。

というのも、統合失調症などの精神病は未治療の期間が長期化すればするほど回復しにくくなったり、身体面のトラブルや自殺のリスクが意外と高かったりするからです。

Bも医療的なサポートがあった方がよいので、精神科医療は責任の一端を担いつつ、さまざまな業種と協力してサポート体制をつくることが必要です。Aとは違って、ゆっくりと時間をかけて関わればよいケースです。

Cはひきこもっている本人への医療的なサポートは必要なかったりしますが、周囲のひとが困って相談に来る場合があります。

まとめると、(誰でも関わることができる)ひきこもりという問題に対して、精神科医が関わるべきたったひとつの理由は、統合失調症などの精神病を確実に診断して、ひきこもりから除外する必要があるからです。


ひきこもりの医療化と脱医療化

しかし、精神科医である斎藤環はAについては多くを語らず、もっぱらBについて饒舌に語っています。

これはおそらく、精神医学的に重症のケースが少なくて比較的のんびりした病院で勤務されていたのでしょう。精神科救急の実務経験をあまりお積みになられていないのかもしれません。

また、「ひきこもり」を精神科医として治療の対象であると定めながらも、その中身は精神科医じゃなくてもできることばかりを語っています。いったん医療のターゲットにしながらも、医療的な方法はほとんど使わない「医療化しつつ脱医療化する」という「ねじれ」があります。

たとえばかつて、うつ病も社会的救済のために医療化されてきた歴史があったりするので、これは決して悪いプロセスではありません。



ひきこもり支援の建前と実際

しかし実際のところ、精神科医の多く(とくに病院勤務医)は主にAのケースに対して関わっていますが、BまたはCのケースに関わっているのは、(ぼくを含め)物好きな一部の精神科医でしかありません。

Aのケース、つまり統合失調症などの精神病をサポートするために、精神科医療にはさまざまなリソースとシステムがあって、精神科医には権限が与えられているので、役割としてやりがいがあるのは当然です。わざわざややこしくてねじれたBとかCのケースに関わりたいと思うひとは少なくなるし、精神科医でなくてもできることなので民間の業者が参入してくるわけです。

つまり、ひきこもりは建前として精神科医療がサポートするべきであると定められていても、実際には精神科医がほとんど関わっていないので、適切に診断されることなくABCの分類が曖昧でいっしょくたになったまま、なんとなくサポートされている、という現状があったりします。

そのような状況で、斎藤環はひきこもりのひとは全肯定されるべきで「胸をはってスネをかじれ」と呼びかけていたりしますが、適切な精神科診断と治療がなされないまま、このような見解が独り歩きするのは危険です。

たとえば、かなり重い統合失調症をわずらっているひとが、適切な医療を受けることなく状況が悪化しているなか、ひたすら“ひきこもり”としてサポートされて「胸をはってスネをかじれ」をやり続けた結果、とりかえしがつかなくなってしまうこともめずらしくありません。

というわけで今回は、正義の精神科医・斎藤環 VS 悪徳業者&悪徳精神科病院という極端にシンプルな図式について、精神病のケースを除外するという前提なしに斎藤環の見解が流通してしまっているのは問題ですよ、という話でした。

次回はひきこもり支援をしている民間業者について考えていきたいと思います。


認知的流動性のダークサイド、たとえば小山田圭吾のいじめについて


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認知的流動性とは

認知考古学者スティーヴン・ミズンは、初期人類と現代人類との違いは「認知的流動性」であると考えました。

心の先史時代
スティーヴン・ミズン
1998-08-01





認知的流動性とは、社会的知能の領域に非社会的知能(博物的知能や技術的知能など)が乗り入れることによって、それぞれが連動するようになることです。

この能力によって現代人類は、芸術・科学・宗教を生みだして文明を築くことができたというわけです。






認知的流動性のダークサイド

このような素晴らしい「認知的流動性」には、反作用としてのダークサイドが存在します。

たとえば、
  • 技術的知能=操作すべきものとして物理的対象を考える
  • 社会的知能=人間について考える
初期人類の心は、それぞれが独立してはたらいていました。現代人類の心は、それぞれが連動してはたらくようになった結果、
  • 操作すべき物理的対象のように人間を考える
ということができるようになりました。人間に役割を与えて組織をつくることができるようになったりする反面、人間をモノのように道具として使うことができるようになりました。これは奴隷労働や虐待につながっていくでしょう。

また、
  • 博物的知能=動植物の性質を理解して分類する
  • 社会的知能=人間について考える
それぞれが連動してはたらくようになった結果、
  • 人間としての動植物、あるいは動植物としての人間を想定する
これによって、動物を擬人化してトーテミズムをあつかうことができるようになったりする反面、動物としての人間を想定すること、つまり人間を害虫や害獣に見立てて迫害することもできるようになりました。これはいじめや人種差別などのヘイトにつながっていくでしょう。

哲学者の東浩紀は、これを「厄介な逆説」であると指摘しています。
人間から固有名を剥奪し、「素材」として「処理」することができなければ、ぼくたちは国家も作れないし資本主義も運営できない。

人間は国家と資本主義のもとでしか人間たりえない。けれども国家と資本主義は、人間を無限に残酷に、非人間的にする。人間を人間たらしめるその同じ条件が、人間を人間から無限に遠いものへと変える。そこに厄介な逆説がある。

東浩紀「悪と記念碑の問題」
ゆるく考える
東浩紀
2019-02-26



認知的流動性によるアニミズム

認知的流動性のはたらきによって「アニミズム」が可能になります。

アニミズムとは、人間以外のモノや生物を擬人化して社会的な文脈におくことで、たとえば万物に霊魂が宿り、なんらかの意図や意志をもっていると感じられる現象です。精霊信仰など宗教の基礎をなすといわれています。

心理学者ピアジェはアニミズムを幼児期の発達段階として位置づけています。だいたい2~4歳の幼児は、まわりのものすべてが自分と同じように意識をもっていると考えることがあるようです。

心理学者ハイダーとジンメルは、幾何学図形のアニメーションを用いた実験を行っています。


このアニメーションをみたひとは、ただの幾何学図形に人格や社会性を感じとり、三角同士がケンカしたとか、三角と丸が恋に落ちたと考えたりします。

ちなみに自閉スペクトラム症/ASDをもつひとは、このような見方が苦手だといわれています。


逆アニミズム

逆に、人間を他の動物やモノと同じように扱うこと、いわば「逆アニミズム」もできるようになります。
  •  アニミズムモノ ▶ 人間 としてあつかう「万物に魂が宿る」
  • 逆アニミズム人間 ▶ モノ としてあつかう「人間をモノみたいに使う」
たとえば、ASDをもつ幼児にみられる「クレーン現象」。何か欲しい物を取って欲しい時に、親の手首を持って欲しいものに近づける行動です。

その延長として、ASDをもつ子どものなかには「人遊ぶ」のではなく「人遊ぶ」ことを覚えてしまう場合があります。

たとえば、誰かをずっと椅子に座らせ続けたり、誰かの二の腕をずっと触り続けたり、などなど。バラエティー番組やいじめの現場でもみられる光景です。


小山田圭吾の天才といじめ

小山田圭吾は、誰がどうみても天才としかいいようがないミュージシャンなわけですが、そんな彼が学生時代に障害者に対して壮絶ないじめをしていたことがニュースとしてとりあげられて話題になったことがありました。

ぼくは昔からファンだったので、めちゃくちゃショックをうけてへこみました。なんとか気をとりなおして、学生時代のいじめは彼の才能や実績とは関係ないと割り切るようになりましたが、意外とこれは関係が深いことなのかもしれないと最近考えるようになりました。

小山田圭吾ことコーネリアスの魅力は、さまざまなジャンル・さまざまな年代の多種多様な音楽を自由に越境し、それぞれを素材として自在に組み合わせて再構築し、まったく新しい音楽をつくってしまうところだったりします。

まさに、創作活動において認知的流動性をいかんなく発揮しているといえます。

また、音楽だけでなく斬新な映像表現も数多く手がけていて、無機質なモノが人間的な感情を吹き込まれたかのごとく躍動するアニミズム的な表現が随所にみられます。



またそれとは逆に、人間の身体を断片化して素材として利用するヤバい表現もみられます。



彼が音楽を担当しているNHK番組「デザインあ」では、人間の「あ」という発音のみを素材として再構築することで斬新な作品を創作し、おとなだけでなく子どもたちにも人気を博しています。



小山田圭吾の優れた音楽を創造する才能は、壮絶ないじめを楽しんでしまう習性と表裏一体のものであり、そこには認知的流動性という共通の基盤があるのかもしれません。

認知的流動性を手に入れた人間は、自由自在にジャンルを越境してしまう欲望を抱いてしまう生き物です。それによってポジティブな才能が発揮される反面、ネガティブでやっかいな習性を身につけてしまっているのでしょう。

そのようなダークサイドを肯定するわけにはいきませんが、全面的に否定して切り捨てて満足するのではなく、表裏一体のものとして考えていく必要があるのではないかと思う今日このごろです。



モジュール化したあとで流動化する知能


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前回からの続きです。認知考古学者スティーヴン・ミズンの「認知的流動性」という考え方を活用して、児童精神科医の滝川一廣の考え方をアップデートできるかもしれない、という話です。


滝川一廣2分法をアップデートする

児童精神科医の滝川一廣は、心の発達を2軸で説明しています。これをミズンの知能分類にあてはめると以下のようになります。
  • 関係の発達/社会的知能
  • 認識の発達/技術的知能+博物的知能

子どものための精神医学
滝川一廣
2017-03-27




2軸を想定したのはセンスがいいのですが、滝川も社会科学者と同様に「人間の認識は文化や社会によって強く規定されている」と考えているがゆえに、「認識の発達」は「関係の発達」に支えられているという素朴で月並みな想定をするだけに終わっています。

児童心理学の大御所ピアジェは、人間の心はコンピューターみたいなものであると強く信じたひとでした。そして滝川はピアジェの発達論を「認識の発達」の説明に活用しています。

これはとても妥当なことで、ピアジェの発達論は技術的知能や博物的知能を説明するにはとても便利なツールになっていますが、便利であるがゆえに不十分なところがありました。


ピアジェ発達論を活用した考古学者

同様にピアジェの発達論を活用したひとをみてみましょう。前回紹介した考古学者スティーヴン・ミズンよりも前に「認知考古学」を試みたひとがいました。

心の先史時代
スティーヴン・ミズン
1998-08-01


考古学者トマス・ウィンは、30万年前に存在していた手斧/ハンドアックスが左右対称の構造であることから、当時の人類は道具の完成形をあらかじめイメージして制作することができていたと想定しました。

これはピアジェ発達論の最終段階である「形式的操作期」に該当するため、当時の人類には現代人の心が完成されていたのではないかと推測しました。

これはとても画期的なことで、考古学によって絶滅した祖先の心を理解することができた、、、かのようにみえました。
ルヴァロワ技法
しかし残念ながら、30万年前は石器こそ洗練されていたものの、その他の文化はほとんど発達した形跡がみあたりません。

つまり、技術的知能だけにスポットライトをあてると、高度に発達しているようにみえていても、それ単独では人間の心や文化を説明することはできないわけです。

なので、それぞれの知能モジュールとの関連を考えなければなりません。


比喩という叡智

ここでミズンが注目するのは「比喩」です。比喩といえば村上春樹。
彼女が一枚ずつ服を身にまとっていく様は、ほっそりとした冬の鳥のように滑らかで無駄な動きがなく、しんとした静けさに充ちていた。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
三つめの納屋と四つめの納屋は年老いた醜い双子みたいによく似ている。
「納屋を焼く」
氷男は暗闇の中の氷山のように孤独だった。
「氷男」
世の中には比喩表現があふれていて、人々は比喩が大好きで、比喩をしたくてしかたがありません。人間は動植物やモノにも心があると想定せずにはいられない性質があるようです。

また、万物には霊魂や精霊が宿るというアニミズムは、古今東西・老若男女にみられる現象です。

つまり、人間の心は人間以外のモノを擬人化して社会的文脈におくことができるようになっています。

これは社会的知能と博物的知能がコラボレーションすることで可能になります。

それぞれの知能モジュールが連動して作動することを、ミズンは『認知的流動性』と呼びました。それこそが、人間の心の特徴であり、文明をもたらすものであると。


言語機能の拡張/言語による侵食

人類学者のロビン・ダンバーによると、もともと言語は社会的な情報をやりとりする毛づくろい/グルーミングの代替手段として活用されていました。

それまで社会的知能に特化していた言語の機能が、認知的流動性によってどんどん多様化していきます。社会的知能の領域外にある技術的知能や博物的知能などの「非社会的」な概念や情報が乗り入れ、「比喩」のように言語の機能が大きく拡張されることになりました。
人間の知能の進化
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
これは逆に考えると、脳科学者スタニスラス・トゥアンヌや理論神経生物学者マーク・チャンギージーが指摘したように、言語や読字機能が他の脳領域(視覚認知や形態認識)を浸食して取って代わっているといえるでしょう。


社会的知能が基礎にあって、その他の知能が派生していく、という二元論的な考え方ではなく、それぞれの知能モジュールがダイナミックに連合していく流れがみてとれます。


認知的流動性

ミズンはこのような人間の知能が進化するプロセスを、「聖堂」というアーキテクチャにたとえて表現しています。
聖堂のような心
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
まずは汎用知能が発達していきますが、徐々にモジュールが形成され、各モジュールに交通が生まれ、一体となって動き出すというコンセプトです。

認知的流動性の結果、さまざまな文化が発明されていきます。
認知的流動性の結果としての文化の開花
スティーヴン・ミズン「心の先史時代」
  • 社会的知能+博物的知能 人と自然を重ねるトーテミズム
  • 博物的知能+技術的知能 目的に応じた専門技術
  • 社会的知能+技術的知能 社会的交渉のための道具・人間を道具的に使う技術
そして、3つが融合することによって芸術・宗教・科学が生まれ、文明が開花しました。

滝川一廣2分法では、自閉スペクトラム症/ASDは社会的知能に劣るから支援しなければならない、という悲観的パターナリズムで終わってしまいます。

しかし、認知的流動性というコンセプトによって、社会的知能をひとつのモジュールとして相対化しつつ、他のモジュールによる代償・補完を想定することができれば、ASDの回復やリハビリテーションに新たな発想が生まれる可能性があります。

次回は、良いことづくめにみえる認知的流動性にもダークサイドがあるということを考えてみます。

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