発達障害をもつ子どもが利用する療育施設の選び方


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療育に関する問題は昔からボンヤリと考えていたのですが、「アヴェロンの野生児」の療育について調べてみて、問題点がだいぶ明確になりました。

児童思春期外来を10年以上もやっていると、「発達障害の療育施設はどこがいいですか?」と質問されることが多くなってきたので、いろいろな療育施設を見学してみて感じたり調べたことをまとめてみようと思います。

放課後デイサービスなどなど療育施設がたくさん出現しているので、選び方に迷われるひとが多いようです。

一般的に、療育施設を選ぶにあたって、カリキュラムがどうだとか、スタッフの力量がどうだとか、わりとどうでもいいことが強調されがちだったりするので、もっと実用的な選び方を紹介できればと思います。


おすすめできない選び方

  • 家から遠い
  • 医療機関が運営している
  • 言語療法士や作業療法士など専門職が多い
  • 特別なメソッドを使っている
  • 親向けのプログラムを熱心にやっている
  • 高額な料金がかかる

おすすめな選び方

  • 家から近い
  • 送迎サービスあり
  • 子どもが雰囲気になじめそう
  • 親がひと休みできる
  • 料金がかからない


まずはアクセスと料金をチェック

療育は生活に密着している営みなので、なるべく家から近くて通いやすくて便利なところにしましょう。送迎サービスがあればなおよしです。

また、なるべくお金がかからないように、公的補助によって料金負担が少ないところを利用しましょう。

たとえば、有名な療育施設へ通うために片道2時間かけてせっせと通所して、やたらと高い料金を払っている熱心な親御さんがいますが、時間とお金がありあまっているひと以外はやめたほうがよいです。それなら、楽しいイベントに参加したり美味しいごはんを食べに行く方がよっぽどマシです。


とりあえず子どもがなじめそうかどうか

最も重要なのは、お子さんが療育施設になじめそうかどうかです。子どもは自分に似たタイプの子どもに接近して仲良くなるので、そのへんをチェックしておきます。

施設ごとにカラーが微妙に違うので、見学や体験をしてみて確かめましょう。

もしも、あまりなじめそうになくて、子どもが楽しくなさそうなら、気にせず他のところにも行ってみましょう。よさそうなら移籍すればOKです。

他の子どもたちと遊べるようになることが重要なので、有名な先生がいるとか、専門職がいるとか、特別なメソッドを使っているとかは、わりとどうでもよかったりします。

オトナのメンツよりも、子どものメンツを重視しましょう。


親にとって便利なところがいい

次に重要なのは、子どもを預けているあいだ、親が気をつかわずにひと休みできるかどうか、です。

極論を言うと、療育の効果がゼロでも、子どもを預けているあいだに親がゆっくり/レスパイトできていれば、それだけで状況がよくなったりします。ただでさえ障害をもつお子さんをもつ親は、教育に力が入りすぎてしまい疲れてしまうことが多いからです。

なので、親も参加しないといけないプログラムを押しつけてくるところはあまりおすすめできません。

親子が真剣に向き合いすぎると感情がもつれるし、お互いに消耗が激しくなって状況が悪化する場合がけっこう多いです。

せめてお子さんが療育施設を利用している間くらいは、子育てから解放されて、ひと息ついてゆっくり自分の時間を大切にしていただきたいと思います。



専門職が多いところは?

療育施設を選ぶときに、臨床心理士やら言語療法士やら作業療法士やら精神保健福祉士やら資格者がいるところを優先するひとがいますけど、これはあまり重要な要素ではありません。

発達障害の子どもの療育について実務経験があるかどうかと、資格をもっているかどうかは、ほとんど関係がないからです。

むしろ、事業所が宣伝効果のために、資格者が在籍していることをアピールするために、実務経験の乏しい資格者を急ごしらえで採用していることもあったりするのでかなり微妙です。

同じような理由で、特別なメソッドを使っているところは、他にアピールするものがなくて困っていたり、偏った考えを押しつけてくる場合があるので、あまりおすすめできません。特別なメソッドよりも当たり前の日常の積み重ねが重要だからです。


医療機関で療育を受ける意味はある?

病院やクリニックなど医療機関で療育プログラムをやっているところもありますが、だいたい中途半端になりがちです。

某医療機関の療育は予約がいっぱいなので月に1回だけ通っています、というひとがたまにいますけど、子どもにとってはほとんど意味がありません。「療育やらせてます!」というアリバイ作りにすぎないので、やめたほうがいいと思われます。

療育の運営主体は医療機関だろうがNPOだろうがほとんど関係ありません。療育と医療は、近いようでめちゃくちゃ遠い営みなので、必ずしも医療機関で療育をやればよいわけではないからです。

とくに発達障害の支援は、医療機関で包括的にやれるものではありません。医療・教育・福祉・行政などなど複数の専門家による支援ネットワークの形成が重要で、医療はその一端を担うにすぎないからです。

というわけで、お子さんにとって楽しい療育になることを願っております。
子どもたち

「アヴェロンの野生児」後日談


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イタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が失敗に終わった後、ふたりがどうなったのか調べてみました。

イタール、その後

1806年、イタールはヴィクトールの療育を終結し、4年間にわたる療育の成果を内務大臣へ報告しました。報告書は政府によって出版され、世間から大絶賛されて富と名声を手に入れました。

医師としても教育者としても成功して時代の波に乗ったイタールは、「ろうあ学校」で他の生徒の教育にたずさわるようになりました。

聴力がわずかに残っている生徒に言葉を教えようとするだけでなく、聴力を回復させようと努力しました。言語学者ハーラン・レイン「手話の歴史」のなかで、当時「ろうあ学校」に在籍していた生徒が生々しく証言しています。

イタールが「ろうあ学校」の生徒たちに試した治療法の数々は想像のナナメ上を行っていました。耳に電気をあててみたり、首にヒルをくっつけてみたり、鼓膜に穴をあけてみたり、よくわからない液体を耳に注いでみたり、水ぶくれのできる溶液にひたしたガーゼを耳に巻いてみたり、もぐさを使用してみたり、耳の後ろを金槌で叩いて頭蓋骨を割ってみたり、白熱させた金属片をあててみたりなどなど、にわかには信じがたい人体実験を繰り返していたようです。

そのようなむちゃくちゃな試みはすべて失敗に終わり、ひどい副作用という災厄を生徒たちにもたらしました。その一方で、イタールはこのような実験を通して「耳管カテーテル」を開発し、耳鼻咽喉科学の先駆的な業績を上げることができました。
イタール耳管カテーテル
治療に失敗したイタールは、医学でダメなら教育だ、というわけで、発話訓練を強行します。膨大な時間をかけて個別教育をほどこしますが、これもほとんど成果はありませんでした。

わずかに発話できる生徒が手話社会に溶け込むにつれて発話できなくなる様子を観察したイタールは、失敗の原因は手話であると考えるようになります。そして、自分の生徒を隔離して教育しようと考え、同じ過ちを繰り返そうとします。


ヴィクトール、その後

大成功したイタールとは対照的に、野生児ブームは去り、ヴィクトールに対して関心を抱くひとはほとんどいなくなりました。

1811年、成人したヴィクトールは「ろうあ学校」を退去することになり、政府からの援助を受けてゲラン夫人と生活することになりました。ひとめにふれないように生活するよう通達されていたそうです。

これ以降、ヴィクトールの公式な記録はほとんどありません。ヴァージニア大学教授で詩人・歴史家であるロジャー・シャタックの著作に少しだけ記載がありました。
1816年、30歳近くになったヴィクトールの様子を、考古学者のヴィレーがこう記述しています。
今日でもこの人間はひどい姿であり、半ば野性で、あんなに話し方を教える試みがなされたのに、相も変わらず話すことが覚えられないままでいる。
ヴィクトールは変化のないまま、ひきこもり状態でひっそりと過ごしていたようです。

 

素直に変化するイタール

頑固な口話主義者だったイタールは、アリベールという生徒との出会いを通して、ろう者の教育には手話が必要であると考えを改めます。

アリベールはイタールの熱血指導を受け、髪が白くなるくらい努力したにも関わらず、ほとんど成果がありませんでした。しかし、手話を学んでからは素晴らしい学業成績をおさめて教師になりました。

イタールは「ろうあ学校」という手話社会の中心にいながら、言語習得には手話社会が重要であることに気づくのに16年もかかったというわけです。

こうしてみると、イタールはひとつの原理に並々ならぬこだわりを抱いて、忖度ゼロで猪突猛進するタイプでありながら、自分の間違いを認める素直さをあわせもっていたり、治療はヘタだけどマニアックな医療器具を開発するなど非凡な才能を発揮したり、素晴らしい研究業績を残していたり、基本的に孤独を好んで生涯独身を貫いていたりなどなど、自閉スペクトラム症/ASDの特徴があったのかもしれません。

一方で、ASD研究で著名なウタ・フリスはじめ「アヴェロンの野生児=ASD説」が有力だったりします。
そして、ASDをもつひと同士はお互いを理解しやすいという「類似性仮説」があります。

つまり、イタールとヴィクトールはASDの特性をもつ者同士だったので、うまくコラボレーションできたのかもしれません。あるいは、全然うまくいっていないことに無自覚なまま実験を継続できたのかもしれません。

そう考えると、実験が終了してからふたりが一切の関わりを断っていることも、ある程度うなずけます。


イタール、ヴィクトールを語る?

1828年、50歳になったイタールは、とある知的障害者の療育についての報告書のなかで、
長期間繰り返しスピーチの訓練を続ければ、それ相応の話す能力を身につけるようになるかどうかを決定するためには、医者は非常に慎重でなくてはならない。
(中略)
私がこのことを付記するのは、私がこの点で以前に過ちを犯したからである。
と警鐘を鳴らしています。これはヴィクトールのことについて語っているのかもしれません。

結局のところ、年老いてからのイタールは「ヴィクトールは知的障害であり療育不可能である」と診断したピネル(当時55歳)の見解に近づいています。

ちなみに、この報告書が提出された頃には、ほとんど話題になることもないままヴィクトールは亡くなっていました。

ヴィクトールは思春期以降、30歳年上の養母以外の人間とほとんど関わることなく、自然豊かな故郷に帰ることもなく、パリ市街地のど真ん中で、推定年齢40歳の短い人生を終えていました。

社会的に大成功したイタールの華やかな人生とはとても対称的で、イタールがヴィクトール/勝利者という名を与えていたことは、もはや皮肉としか言いようがありません。


誤診と失敗から始まった物語

アヴェロンの野生児という神話は、若かりしころのイタールの誤診と失敗から始まりました。

イタールは若さと情熱をもって不可能なことにチャレンジしたからこそヒーローになりました。その物語は美談であり、伝説であり、神話となりました。そして、児童精神科臨床と障害児教育の原点となって歴史を切りひらきました。

しかしながら、ヒーローが活躍する華やかな側面ばかりに目を向けていても、得られる知見は少なかったりします。というのも現実には、児童精神科臨床も療育も、華やかさとは無縁の地道な日常の積み重ねと継続性が重要であって、そもそもヒーローなんていらないわけです。

なので、歴史の背景とか負の側面に目を向ける視点をもって、現代の療育について考えてみるといろいろな問題点が浮き彫りになったり、改善点がみえてきたりするのではないかと思っている今日このごろです。

「アヴェロンの野生児」の療育が失敗した5つの理由


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前回からの続きです。ここからいよいよイタールの療育が始まります。


快進撃からの作戦放棄

1801年1月、新世紀の始まりとともにイタールによる「アヴェロンの野生児」の療育が開始されました。 

イタールは若くて情熱があったことと、もともとド素人の外科医だったことが逆によかったのでしょう。ヴィクトールに根気よく関わり、数々の独創的な療育方法を編み出し、療育開始数ヶ月で少しだけ言葉の理解ができるようになるなど、快進撃を続けていました。

しかし、言葉の習得に限界がみえはじめ、1805年にはほとんど療育をあきらめていたようです。

1806年5月、イタールはヴィクトールの療育を終結しています。

療育の「プロセス」は素晴らしかったのですが、「成果」はほとんどありませんでした。また、最初の目標を修正することなく突き進んだ挙句の果てに作戦を放棄するという最悪の展開になりました。

イタールは自らの成果についてこう語ります。
この少年の肉体的道徳的な能力とはこんなものであったから、彼は彼の属する種族の最低、いや最も下等なケモノの中でも最下位に位置するものであった。彼が植物と違っていたのは、彼には動くことができ、音を出すことができただけ、ただそれだけだったとさえ言える。そのケモノ以下だった時とヴィクトールの現在の状態の間にはものすごい距離がある。
ヴィクトールが「ケモノ以下」にみえたのは、ネグレクト状態になっていたためなのですが、それにしてもイタールはヴィクトールの能力を低く見積もりすぎています。
 


ヴィクトールの限界、言語習得における臨界期仮説

ヴィクトールに言語取得の限界があったのはなぜでしょうか。現在では、言語習得に必要な臨界期(※)があることが知られています。

臨界期とは
たとえば、アヒルが生まれて初めて目にした動くモノを親と認識したり、幼い小鳥が求愛のさえずりを親鳥から学んだりと、期間限定でしか学習できない種に固有な習性がることが知られています。このような、ある行動学習が可能な一定期間のことを「臨界期」と呼んでいます。

人間の言語習得にも臨界期があると考えられていて、諸説ありますがだいたい2歳から12歳のあいだではないかといわれているので、ヴィクトールの療育開始は遅すぎたのかもしれません。

しかしながら、イタールの療育はとても奇妙な環境で行われていることから、むしろ治療者側の要因を検討して「失敗から学ぶ」ことが重要でしょう。


イタールの療育が失敗した5つの理由

① 哲学にハマっていたこと 

イタールは哲学者コンディヤックを信奉するあまり、目の前の患者をより良い方向へ変化させることよりも、コンディヤックの学説が正しいことを証明することに執着していました。

信心深い治療者にありがちなことなのですが、エラい先生の治療理論が正しいことを証明するために患者の治療にたずさわってレポートを作成し、エラい先生の目の前で発表してほめてもらうという浅ましい儀式は、今でも精神科医療の領域ではめずらしくなかったりします。

しかも、イタールはヴィクトールの処遇について全権を掌握した事実上の養父という強力な立場にあって、ヴィクトールには選択肢がなかった状況のなかで、自分が信じる思想に染め上げようとしたわけで、とても罪深い行為だと思うわけです。

② リソースを活用しなかったこと

コンディヤックの学説に従って、ヴィクトールはまっさらな白紙「空白の石版」であり「ケモノ以下」と想定されていました。それによって、彼がもともと持っていた能力が低く見積もられることになりました。

ヴィクトールはロデーズにいたころにはすでにある種の社会性をみにつけていて、高い動作性知能をもっていることが記録されており、ジェスチャーをはじめとして動作言語を使えるようになっていました。

しかも、療育の場所は「パリ国立ろう学校」であり、動作言語を発展させて手話を学ばせるには絶好の場所でした。

しかし、イタールはあくまでもオリジナリティにこだわり、ヴィクトールの能力や療育環境のリソースを有効活用することができませんでした。

③ 子どもと交流させなかったこと

イタールは、他の子どもたちと関わることをさせずに隔離実験を行いました。子どもというまっさらな白紙「空白の石版」に教師が書き込んで「立派な大人」へ導くことができる、と思っていたがゆえの失敗です。

心理学者のジュディス・リッチ・ハリスは、行動遺伝学や進化心理学の膨大な知見から、子どもは子ども集団に所属して集団活動を通じて社会性を身につけていくという「集団社会化説」を提唱しています。


彼女の著作には「ろう学校」における言語習得において興味深いエピソードが紹介されています。
1980年代の南米ニカラグアで「ろう」の子どもたちに手話教育が始まったときの様子です。一堂に集められた子どもたちは会った瞬間からお互い身振り手振りで意思を伝え始めたのです。
子どもたちは瞬く間に自分たちの間で共通語をつくり上げてしまいました。一種の混合手話のようなもので、完全な言語体系とはいえないまでも、共通する文法らしきものもあり、何よりも意思疎通を図るにはもってこいでした。それ以降、子どもたちは独自の手話をつくりつづけています。その言語は単なる指差しや身振りの体系ではない、それはすでに完全な自然言語へと発展したのです。
環境設定をするだけで自律的にプロトコルが生成されて言語学習が始まったという事例です。

子どもにとって言語は、単なるコミュニケーションのツールではなく、仲間集団における「会員証」であり、集団の文化や規範を形成して仲間意識を育むことと密接に関わっています。ゆえに、言語習得や社会性の獲得には親や教師よりも仲間集団の存在が不可欠であるとされています。

イタールは言語習得のために仲間集団を利用することなく、ただ教師として言語の知識を伝えることしかできなかったことに無理があったのかもしれません。

ただし、ヴィクトールは自閉スペクトラム症だったのではないかという説があり、集団に入れなかった可能性はありますが、それはまた別の機会に検討しようと思います。

④ 思春期の問題に向き合わなかったこと 

ヴィクトールは、第二次性徴が現れたころから興奮して感情を爆発させたりと手に負えない状態になることがあり、たびたび療育が中断されました。これに対してイタールはなんと「瀉血」を行うことで対処していました。

ヴィクトールが女性に興味を示しながらも、どうしていいかわからずに困っている様子を観察したイタールは、ヴィクトールが性的衝動のために苦しんでいると考え、どうするべきか悩みます。
われわれの野生児は、この欲求を教えられたら、他の欲求と同じように、自由にまた公然と満たそうとして、言語道断なみだらな行為に及ぶのではないかと、心配せずにはいられませんでした。

私は、そうした結果を招くのではないかという恐怖におびえ、思いとどまらなければなりませんでした。また、他の多くの場合と同じように、思いもかけない障害の前に希望が消えてゆくのを、あきらめて眺めていなければなりませんでした。

閣下、以上が、「アヴェロンの野生児」の感情能力の系統に生じた初変化のいきさつでございます。この部門によって、生徒の四年間にわたる発達に関する全事実が完了したことになります。

新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)
報告書の最後が「思春期の問題に向き合うことができなかった」というエピソードで終わっていることが興味深いところです。

思春期の問題は仲間と共に乗り越えていくものなので、仲間のいないヴィクトールには非常に困難な課題だったことでしょう。最終的には養父であるイタールがなんらかの対処をしなければならなかったのに、逃げたままで報告を済ませてしまったようです。

⑤結局は見捨てたこと 

イタールはヴィクトールの療育だけを専属で行っていたわけではありません。気胸に関する医学論文を投稿したり、パリの中心街にクリニックを開業したりと精力的に活動していました。

ヴィクトールの療育に行き詰まった頃にはすでに他のことに関心が移っていて、ヴィクトールのために開発した手法を用いて、少しだけ聴力の残っている「ろうあ学校」の生徒たちを訓練して論文を作成していました。

また、4年間の療育を終結して以降、イタールがヴィクトールのことを語ったり会いに行ったりした記録は残っていません。

ヴィクトールは「ろう学校」のすぐ近所に引っ越してゲラン夫人と暮らしていたのに、一切の関係がなくなったことに驚きます。

その後イタールとヴィクトールはどうなったのか、後日談をまとめてみたいと思います。

「アヴェロンの野生児」はどのような環境で療育されたのか


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救世主のように登場したイタール

前回は「アヴェロンの野生児」の物語が始まるまでの経緯をまとめました。
 
南フランスの田舎で保護された「アヴェロンの野生児」と呼ばれた少年は、人間社会にふれるようになってから変化しつつあるその姿を博物学者ボナテールが詳細に記録していました。

当時流行した考え方にもとづいて「教育によって野生児を文明人へと導くことができるかも」と期待され、特別な教育を受けるためにパリへ移送されることになりました。

せっかく慣れはじめた環境を奪って呼び寄せておきながら、ろうあ教育の第一人者であるシカールと、精神医学の第一人者であるピネルは、少年の療育を早々とあきらめてしまったので、少年は学校内でネグレクト状態になっていました。

そんなグダグダな状況を打開すべく、たまたま近くにいてシカールと知り合った若手医師イタールが少年の療育に関わることになりました。

こうしてイタールによる伝説的な療育が始まるのですが、どのような環境設定で行われていたのか調べてみると、とても奇妙な構造になっていて興味深いのでまとめてみました。

というのも、「誰が、どんな治療法を行ったのか」という技術的な側面よりも、「どんな設備のあるところで、どのようなスタッフがいて、どのくらいの頻度と時間をかけて治療を行ったのか」というリソース的な側面のほうが治療効果にとって重要だったりするからです。


疑似家族の形成

1800年12月31日、イタールは「パリ国立ろうあ学校」の医師として着任し、住み込みで少年に関わることになりました。若い医師が住み込みで教育した、となると質素な当直室なんかを想像してしまいますがとんでもない。診察室はもちろんのこと居間・寝室・書斎・応接室・個人用の図書室などなど、改修された校舎の2フロアにまたがる部分を占有するという破格の待遇だったようです。さすが国家プロジェクトです。

イタールは近所の陸軍病院の常勤医でもあるので、午前中は出勤して午後からヴィクトールの授業を行っていました。

少年にヴィクトールという名を授け、少年に関する一切を任されることになったイタールは、事実上の養父になったと言えます。

また、世話役としてゲラン夫人が正式に雇用されて事実上の養母となり、ヴィクトールはゲラン夫妻と食卓を囲むことになり、時にはイタールも参加していたそうです。

このような疑似家族的な環境ができあがり、ふたりの大人から献身的なサポートを受けるようになり、ネグレクト状態にあったヴィクトールはみるみる元気になっていきました。
野性の少年の疑似家族

奇妙な構造

ヴィクトールとイタールが生活している場所は「ろうあ学校」なので、生徒や職員は手話をつかって生活しています。学校内で手話を使えないのはヴィクトールとイタールくらいです。

手話をつかえないイタールはヴィクトールに手話を教えることはなく、あくまで発話できるようになることに強くこだわりました。

そのためかどうかは不明ですが、イタールはヴィクトールと他の生徒を交流させなかったようです。11〜12歳くらいの少年が同世代の子どもたちと交流できなかったことは、その後の発達に大きく影響をおよぼしたことでしょう。

ともかく、手話をつかう文化をもつ社会のなかに、手話をつかえない疑似家族がぽつんと生活することになり、両者がほとんど交わることのない隔離された環境下で、ヴィクトールはひたすら社会化を促すための特別な授業を受けることになりました。

このような奇妙な環境設定は実社会ではありえないので、まさに隔離実験のための構造であると言えるでしょう。


映画「野性の少年」には表現されていない構造

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フランソワ・トリュフォー 
ジャン=ピエール・カルゴル



イタールによるヴィクトールの療育は、フランソワ・トリュフォー監督によって1969年に映画化されています。なかなかリアリティのある演出で当時の雰囲気を感じることができますが、このような奇妙な環境設定であることはあまり感じられません。

映画はヴィクトールの輝かしい未来を想像させるラストシーンで終わっているのですが、現実はそうではありませんでした。

イタールの思う方向になかなか進歩しなヴィクトールに対して苛立ちをつのらせます。
かわいそうに。私の苦労も水の泡となってしまい、お前の努力も実を結ばなかったのだから。お前の森に戻り、また原始生活を味わいなさい。それとも、新しい欲求のために社会から離れられないというのなら、社会の無用者という不幸を贖うがいい。そして、ピセトール(精神科病院)に行って、悲惨と苦痛の中で死ぬがよい。
新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)より
このように脅したり、なだめすかしたり、泣いたり笑ったりいろいろと頑張るわけですが、療育開始から約5年間が経過しても、ヴィクトールはほとんど言葉を使えるようにはなりませんでした。

1806年、ついにイタールは絶望して療育を中断してしまいます。次回は、イタールの療育はなぜ失敗したのか、その要因についてまとめてみようと思います。


「アヴェロンの野生児」前日譚


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滝川先生の著書を紹介しようと思いつつ、「アヴェロンの野生児」について調べることにハマってしまっていまして、少々寄り道をつづけています。



イタールによる伝説的な療育が始まる前に、ふたりの専門家が「アヴェロンの野生児」に関わっていて、その経緯がとても興味深いのでまとめてみました。


牧歌的な南フランスの田舎

南フランスの高原地帯
南フランスの高原地帯

「アヴェロンの野生児」という物語の舞台は花の都パリですが、少年が発見されたのはフランス中央部の高原地帯、自然に囲まれたド田舎でした。

1797年3月、アヴェロン県の隣タルヌ県ラコーヌの森で少年は初めて目撃されました。

1799年7月、3人の猟師が少年を捕獲し、村で保護しました。裸で森を走り回り、人間の言葉を理解できず、意思疎通ができない、野生動物のような状態だったそうです。でした。

少年はここで、衣服を着せられ、パンを与えられ、火の使い方を覚えるなど、初めて文化と接触することになります。しかし少年は文化的な生活よりも自由を求めたのか、そこから逃げ出して再び森へ戻ってしまいます。

それ以降は、しばしば近隣の村々で少年は目撃され、時には食べ物を分けてもらったりするようになるなど、少年の行動に変化がみられるようになります。時には、気軽に家の中に入り込んで、炉の前に座り込んで待っていたりと、村人と交流する牧歌的な光景がみられたという報告もあります。

当時はフランス革命による混乱によって大量の孤児が発生していたため、捨て子が物乞いをすることはありふれていたし、もともと客人を歓待する習慣があったので捨て子を保護することも珍しくなかったようです。

1800年1月、再び姿を現した少年はアヴェロン県ロデーズ中央学校で保護され、博物学者ボナテールによって観察・記録されました。ここで初めてアカデミズムと接触することになります。


博物学者ボナテールのレポート

アヴェロン県の風景
アヴェロン県の風景

博物学者ボナテールは半年間にわたって少年を観察し、『アヴェロンの野生児等に関する歴史的概略』というレポートを完成させます。全50ページの冊子としてパリで出版されましたが、イタールの華々しい業績の陰で忘れ去られてしまいます。

ボナテールのレポートは言語学者ハーラン・レインの著作に収録されています。

アヴェロンの野生児研究 (1980年)
ハーラン・レイン
1980-06


イタールの情熱的で主観的なレポートとは違い、冷静かつ客観的に少年の性質や能力や行動特性が記録されていて、情報としての価値は高いと思われます。
ロデーズにいる間、彼の仕事はいんげん豆の皮をむくことだった。彼は、最も熟達した人のような鑑別力でこの仕事をやり遂げた。彼は、こうした野菜が自分の食糧にあてられたものであることを経験から知っていた。

乾燥した一束の茎が運ばれてくると、彼は鍋を取りにいき、部屋の真ん中で店をひろげた。彼は、道具や材料をできるだけ便利なように並べた。鍋は右に、いんげん豆は左に置かれた。そして、真似のできないほど鮮やかな指さばきで、つぎつぎに莢(さや)を開いていった。

いい豆粒は鍋の中に入れ、かびが生えていたり、疵(きず)のあるものは捨てていた。万一、豆粒がこぼれたりするからと、それを目で追いかけ、拾って他のものと一緒にした。空にした莢は、つぎつぎと、整然と脇に積み上げていった。

仕事が終わると、鍋をもち上げて水を注ぎ、別に積み上げた莢で消えないようにしておいた火の所へもっていった。火が消えていると、スコップをとってクレール(※世話をしていた庭師の老人)に手渡し、近所に火を貰いにいくよう合図をした。

鍋が沸騰してくると、すぐに自分自身で用意したこれをすぐにも食べたくて仕方がない、といった様子を示すのであった。彼があまりにせかして嘆願するので、生煮えにもなっていないものをを与えなければならなかった。彼はそれを貧るように食べるのだった。

調理したジャガイモを食べたいと思ったときには、一番大きなものを選び、台所で最初に目に入った人のところへもっていき、それをスライスするナイフを丁寧に手渡し、フライパンを探しにいき、調理油がしまってある戸棚を指さした。

たとえばこの部分だけでも、高い動作性知能を備えていて、過酷な野生におけるサバイバル生活によって研ぎ澄まされてきたことが推察されます。ロデーズでの生活は比較的平穏で、少年は環境に順応しつつありましたが、中央政府からの命令によって少年はパリへ移送されることになります。

ボナテールとクレールはパリまで少年を見送り、もしも少年が見捨てられることになったら、ひきとって面倒をみることを申し出ましたが、聞き入れられることはありませんでした。

ボナテールのレポートは、ピネルには一蹴され、イタールにはその一部が(註)として引用されただけでした。

これから教育されるべき少年は、まっさらで無垢な存在「空白の石版」であることを求められていたので、ロデーズで社会に順応しつつある姿を記録したボナテールのレポートは都合が悪いものなのかもしれません。

寒さの厳しい高原地帯の森のなかで外敵から身を守りながら食料を確保し、数年間サバイバルした実績は、とうてい「無垢」な「空白の石版」ではないからです。

ともかく、少年に素晴らしい「野生」の能力と経験があったことは残念ながら忘れ去られてしまったようです。


シカール神父のエンターテイメント

「ろうあ」の状態だったアヴェロンの野生児は、パリ国立ろうあ学校の校長・シカール神父の手にゆだねられました。

※ろう(あ)者とは、音声言語を獲得する前に聴覚障害によって聞き取り(発音)ができないひと
パリ国立聾学校
INJS Paris
シカールはろうあ教育の第一人者で、マシューという14歳のろう者を教育することで有名になりました。シカールの教育によって、マシュー少年は何もできない状態から著しい進歩をとげて「ろう者としてろう者に教える初めての教師」になったという伝説です。

そもそもマシューが急速に進歩したのは、高い知能を備えているにも関わらず、聴覚障害のために教育を受ける機会がなかったからなのですが。。。

また、シカールには卓越したスポークスマンという側面がありました。優秀な生徒を選抜し、マシューと共にさまざまな趣向をこらして演出し、授業風景を一般公開して人気を博していました。

耳の不自由な子どもたちが教師に導かれ、まるで魔法にかかったようにさまざまなことができるようになるという、まっさらな白紙である子どもたちに偉大な教師がありがたい知恵を授けていく構図のエンターテイメント・ショーです。

言語学者ハーラン・レインの著書「手話の歴史」にその様子が書かれています。
「私は待っていました」と、神父(シカール)は語りだした。「皆さんを、今日の新しいお相手に紹介する時を、です。彼はほとんど幼児も同じです、つまり、かわいい野蛮人、まだ彫られていない大理石の塊です。あるいは、これから命を吹きこまれ、知性をあたえられる立像(※)と言っていいでしょう・・・・・・」
※ 「立像」とは、哲学者コンディヤックが思考実験に用いた概念で、ざっくり言うと「感覚が欠如した人間」のことで、感覚を得ることによって人間の心が生まれていくプロセスを説明するのに用いられました。たとえば、立像に嗅覚が与えられて薔薇の香りがすることによって注意力が生まれ、香りが消えると記憶力が生まれ、香りが変化することで比較能力や想像力が生まれ、理解力や意志へと発展して自我が生まれる、などなど。

シカールのろうあ学校は著名人や観光客が訪れる人気スポットとなり、定員400人のホールが満員となるほどの盛況ぶりとなりました。耳の不自由な子どもたちはサーカスの見世物のように利用されていたわけです。

めざといシカールは、「言葉をつかうことのできない」コンディヤックの「立像」そのものである「アヴェロンの野生児」に広告塔としての価値を見出し、パリへ呼び寄せるよう手をつくしました。シカールは、みずからのろうあ教育によって、野生児を文明人へと導き、世間の注目を集めるつもりだったのでしょう。

1800年8月、少年はパリ国立ろうあ学校に到着し、シカールと対面します。


ネグレクト状態へ

ところが、シカールは早々に教育をあきらめてしまいます。高名なシカール神父の元に集まっていた信心深くてお行儀の良い生徒たちとは違って、野生育ちの粗野な少年にはシカールの権威がまったく通用しなかったからでしょう。

見捨てられた少年の処遇はとても悲惨で、昼間は中庭に放置され、夜間は自室に閉じこめられ、誰にもかまわれることのないネグレクト状態となりました。日常的に他の生徒からいじめられるようになり、食事や排泄さえままならず、終日身体をゆさぶり続けている状態が数ヶ月間も続きました。

しかも、学校は毎日開放されてチップを払えば少年を見物することができたりして、少年は好奇の目にさらされ続けることになっていました。

ボナテールのレポートにあるような、ロデーズで身につけていた生活習慣はすっかりなくなっていたようです。

ピネルが少年を診察したのはこの頃で、「野生のものであれ、家畜であれ、ほとんどすべての動物の本能より劣っている」と酷評しています。

そんなどうしようもなくグダグダな状況で、やっと少年はイタールと対面することになります。次回は、イタールの療育環境についてまとめてみようと思います。


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